第2話
オリヴェル・アスカム・ラウタヴァーラの朝は早い。
早朝に届けられる各種の新聞を用意した後は、洗顔用の水と湯を用意し、美容に良いと言われる香り高い石鹸をワゴンに置く。もう一つのワゴンにはティーセットを準備、秋を感じさせるほど肌寒くなってきた為、蜂蜜と生姜も用意する。
自分の妻であるカステヘルミが起きる時間を計算してワゴンを移動、部屋の扉をノックすると、
「どうぞ」
という声が響いてきた。
そこでオリヴェルがワゴンを押して行くと、一瞬、眉を顰めたカステヘルミが盛大なため息を吐き出した。
「良くもまあ、ここまで続けられますわね?」
「俺は、こんなことだったらいくらでも続けられるぞ」
「ハアッ」
ため息を吐き出したカステヘルミの前へワゴンを移動し、タライの中の水に湯を加えて適温とする。ベッドに腰をかけていたカステヘルミが洗顔を済ませると、タオルを渡し、口をすすぐための水を用意する。
カステヘルミが口をすすいでいる間にモーニングティーを用意する。初日はモーニングティーを淹れてその香りで爽やかに目覚めを誘うようなことをしたのだが、
「あのですね、そういうことはおやめください」
と、言って怒られた。
今行っている流れが彼女の朝のルーティーンであり、オリヴェルは侍女に代わって丸二ヶ月のあいだ、彼女の世話を焼いている。
「今日はどの新聞もターレス川に橋が架かったことが報じられていたな」
カステヘルミはモーニングティーを飲んでいる間に軽く新聞に目を通すので、その近くに椅子を置いて座ったオリヴェルもまた、新聞を手に取って目を通している。
「鉄道を通すために新しく作った石のアーチ橋ですけれど、今この時に、上流で護岸工事をしていることが気に掛かりますね」
アーチ橋は上からの力に強く、たとえ重量がある機関車がその上を走ったとしても問題なく支えられるということはすでに実証されている。積荷重が少々増えたところで石の橋はビクともしないが、洪水流による横からの力には弱いという弱点がある。
「上流域での洪水が多いため、以前から工事を進める予定であったのだが、ようやく資金繰りが出来たので工事を始めるというんだ。こちらで業者の方も調べてはみたが、後ろ暗いところはないと判断された。だけど、今この時期にというところが確かに気になるな」
ラハティ王国に激しく憎悪を燃やしている敵国オムクスは、我が国とルーレオ王国との共同で始めた鉄道事業を潰してやろうと企んでいるのは間違いない。例えば、ターレス川に架けられた橋の上をいざ、蒸気機関車が走り出すという時に、ターレス川の上流で故意に決壊させるようなことをすれば、機関車はアーチ橋ともども流されることとなる。
「オムクスが入り込んではいないか、引き続き調べ続けなければならないな」
そう言ってオリヴェルが新聞を畳むと、扉がノックされて、
「奥様、お着替えを致しましょうか?」
と、侍女のアイラが声をかけてきた。
新聞をワゴンの上に戻して、足を下ろしたカステヘルミに靴を履かせるまでがオリヴェルの役目。オリヴェルがカステヘルミの手の甲に口付けを落として、
「カステヘルミ、それでは朝食の席で会おう」
と言うと、カステヘルミは大きなため息を吐き出した。
二つのワゴンを外まで運んで行くと、待ち構えていた侍従がワゴンを受け取った。オリヴェルが甲斐甲斐しくカステヘルミの面倒を見るようになったのは、カステヘルミにギャフンとされた次の日からのことである。
もちろん、周りの人間はオリヴェルを止めたが、決してやめないオリヴェルの姿勢を見て、周りも好き勝手にやらせることに決めたらしい。
なにしろ結婚後も、同じ屋敷に暮らすユリアナ嬢に対して、オリヴェルが懸想し続けたのは間違いない事実。結婚式では花嫁を蔑ろにし、初夜ではボイコットを実施した男でもある。それが手のひらを返したように態度を改めたところで、即座に信用されるわけもない。
新婚の二人は未だに同じ寝室を使ったことがないけれど、オリヴェルはそれも仕方がないことと十分に理解をしているつもりである。一人の女性を複数の男たちで共有していたと噂されているのも知っているし、それが理由で『気持ち悪い』と言われていることも知っている。
オリヴェル自身は、幼い時から共に過ごしたユリアナと深い関係になったことは一度としてないのだが、それを主張したところで意味がないことも知っている。
「オリヴェル様、お待たせしました」
新妻らしくハニーブロンドの髪の毛をゆるやかに結い上げたカステヘルミが食堂へとやって来た為、オリヴェルは席までエスコートするために立ち上がる。
オリヴェルは完全に負けたのだ。言うなれば完全に敗北して、敵の軍門に降ったも同じこと。周りはとやかく言うこともあるだろうが、自分のやり方を変えるつもりは一切ない。
「カステヘルミ、今日は何処かに出かける予定はあるのかな?」
「今日ですか?そうですね、刺繍糸がそろそろ無くなってきたので、街まで買いに行こうかと思っています」
「分かった、行き帰りは俺が同道しよう」
「必要ないのですが」
「俺がやりたいんだ」
「ですが・・」
「君だって分かっているだろう?」
オリヴェルが、ここぞとばかりに甘い瞳で見つめると、カステヘルミは苦笑を浮かべて言い出した。
「王都にオムクスが入り込んでいる状態で、公爵家に嫁いだ妻が誘拐でもされたら困りますものね」
「確かにそれもある」
馬鹿なユリアナが敵国オムクスの間諜と通じていたということが判明し、責任を取る形でオリヴェルの父は息子のニクラスに爵位を譲ることとなったのだ。そのゴタゴタの最中に、カステヘルミは二度ほど誘拐されかかっている。
幸いにもオリヴェルが二度とも阻止することが出来たから良かったものの、敵はまだ、ラウタヴァーラ公爵家への攻撃を諦めてはいない。
「だが、それだけじゃない。出来たらカステヘルミに、俺のハンカチに刺繍をしてもらいたいのだ」
「はあ?」
「新婚の夫は大概、新妻から刺繍入りのハンカチをプレゼントされる。戦地などではそれを懐に入れてお守り代わりとするのだが、俺も同じようにお守り代わりとしたいのだ」
「はあ・・月桂樹の花でも刺繍してやろうかしら」
月桂樹の花の花言葉は『裏切り』『信用できない』だ。
「だったら、ガーベラの花がいいかな。俺が生まれた月の誕生花だし」
ガーベラの花言葉は『常に前進する』『希望』だ。
「チッ」
カステヘルミが淑女らしくなく舌打ちをしたけれど、オリヴェルはカステヘルミの舌打ちを華麗に無視することにした。
そんな二人の朝食の姿を、たまたま通りかかった兄のニクラスが眺めると、思わず大きなため息を吐き出した。ニクラスには最近の弟の行動が全く理解出来ない、何故、公爵家を破滅へと追いやるような噂をばら撒いた妻に対して、あれほどまでにへりくだった対応するのだろうか?
「これは一度、オリヴェルと話し合わなければならないな」
そう言って、ニクラスは執務室へと足を運ぶ。
何しろ、今、ラウタヴァーラ公爵家は嵐の中に居るのも同じような状況なのだ。
弟の妻となったカステヘルミは、自己の保身のために噂を利用し、世論を誘導し、そうして父と母とユリアナを公爵家から排除した。その手並みは確かに鮮やかだったかもしれないが、途中でこちらに一言相談してくれても良かっただろうにという恨みが、ニクラスの中から消えてはいない。
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