第36話

『テレビ見て、時間が来るの、待ってるの。お父さん、帰って来る時間と、お勤めの、時間』

いつだったか、光希がテレビの前で膝を抱えて座りながら言っていた。

『お外行けなくて、でも、テレビ見てると、お外行けるの。あっという間、時間、たつの。ほら、海だよ。綺麗だね。行きたいなぁ』

光希は今も時々幼児退行してしまう。あのときの光希は何歳だったのだろう。嫌な時間もテレビを見ていたらすぐに過ぎ去る。そうやって光希は一人の寂しい時間、怖い時間をやり過ごしてきた。

一つの番組が終わってCMに入る。隣に座る清に光希は笑った。

『これね、終わるとね、清、帰ってくる。バイトがない時ね。今日はお母さん、いないから、良かった……いつも、見てるだけで、ごめんね。助けて、あげられなくて、ごめんね』

光希は大粒の涙をこぼした。光希は母親から虐待されていた清を見てるだけだったと、涙を流して謝るときがある。あの時手当をしてくれた。それだけで清は十分嬉しかった。殴る母親が悪いのであって、光希は何も悪くない。

見ているだけだと言うのなら清も同じだ。田町に犯されていたことを知ったのは光希がヤツを殴りつけたあの時だ。しかし、知ろうと思えば知れるタイミングはいくらでもあった。清は兄弟になってしまった光希と、宗教にのめり込んで己を顧みない両親から目を逸らした。

光希はダイベンシャに、田町に抱かれているのは清だと思っていた。見ているだけだったと謝っていた。光希が自分自身の心を守るためだった。そのまま、光希が作った記憶で光希が守られていたら。

あの時、父親と光希の後をつけて踏み込んだのは、間違いだったんじゃないか。

「あいつ、泣くんですよ。気持ち悪いオジサンに、気持ち悪いことされたって。俺と田町と、違いって、なんすかね」

「なんだ?急にお前…全然違ぇだろ。見た目とか」

「あいつをそういう目で見てるんすよ。田町も、俺も、じいちゃんも」

権田は何も言わない。清は光希の方を見たままで、権田がどんな顔をしているのかわからない。

「あの時、正義感だけじゃなかった。光希を抱くあいつが羨ましかった。そんな俺が、傍にいて、いいんすかね」

清は前を見据えたまま、光希から目を離さなかった。離せなかった。

以前にも、権田に同じことを聞いた。田町が犯していた罪を知って、殺さなくて良かったと吐露した清を褒めて認めてくれた。果たして今も、権田は清は間違っていないのだと認めてくれるだろうか。

少し間をおいて、権田は息を吐き出した。

「…お前たちの関係は褒められたもんじゃない。認められることもねぇだろう。戸籍上は兄弟だ。ただな。欲だけで、ただヤりたいだけでこれだけの時間、傍にいられねぇと、俺は思う。あの子の笑顔に嘘はない。ああやって笑えるのは、お前が傍にいたからだろう。仕事上いろんな人間を見るけどな。お前は大丈夫だと思った。十分、真っ当な人間だ。お前はただただ純粋に、あの子が好きなんだ。それだけだろ」

今度は清がぐっと言葉に詰まる。光希が好き。ただそれだけと

言われたらそんな気がする。単純で簡単なことだ。環境が、周りの大人がそれを許さなかった。

ついに清は、光希から視線を外して下を向いた。

「そ…っすね。そんだけ、なんすよ。でも、泣いてるあいつ見ると…俺で、良かったのか、考えて…隣りにいるのが、俺で、」

清の足元に水滴がボタボタと落ちる。光希を守りたい。傍にいたい。なのに時々、どうしようもなく不安になる。光希は何も悪くない。それなのにただ傍で、苦しむ光希を、何もできずに見ているしかできない。そんな自分がとても歯がゆい。光希の隣にいるのが自分で良いのか。別の人間ならもっと光希を救ってやれるんじゃないか。そう考えてしまう。

自分なんて、誰からも必要とされていない。

視界に光希の靴が入り込んだ。光希の荒い呼吸が聞こえる。少し離れた遊具から駆けつけてくれたようだ。

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