第一話
私は、母子家庭で育った。
お母さんは仕事で忙しくて、私が中学生の頃には、家事の大半を私に任せていた。
まず、私が朝早く起きて、洗濯機を回してから朝食を用意する。パッケージサラダに、卵を絡めた豚焼肉に、食パンにティーバッグの緑茶というシンプルなメニュー。私より少し遅く起きたお母さんは、それを私と一緒に食べてから、
「じゃあすみれ。今日もいろいろお願いね」
と言って、マンションの部屋を出た。
その後にまず待っている一仕事が、皿洗いだ。ボウルやフライ返しや、私がお皿も兼ねて使ったフライパン、それにお母さんが使った大皿や、二人分の箸と湯飲みを洗う。なるべく洗い物は減らしているつもりだが、それでも洗うのに二十分はかかっていた。
それから歯磨きして用を足して、ちょっと昼寝してからも、私の「仕事」は続く。
まず食料品の買い出しだ。近所の、片道徒歩十分のスーパーまで行って、二人の三日分のパッケージサラダや豚肉や卵や食パン、それに一日分の非常食の乾パンとサバ缶と
そしていっぱいになったエコバッグを抱えて戻ってきて、買ったものをしまってからは、掃除を始めた。ウェットシートをはめたワイパーで家中の床を拭いてから、集めたごみをハンディ掃除機で吸う。他に
お昼には豆腐を食べて、それからまた少し昼寝して、私は家事に戻る。
午後にはまた買い出しだ。商店街まで出て、近所のスーパーで買うには高いものを買う。百円ショップでは、ウェットシートやビニール手袋など。ドラッグストアでは、洗濯用洗剤や食器用洗剤など。
その買い出しから帰ってきて、買ったものを収納場所にしまってからは、片付けだ。お母さんや私が着ていない服や、紙の本、いつの間にかお母さんが買ってきて賞味期限の切れたお菓子や調味料、お店のレジ袋や紙袋など、いらないものを容赦なくごみ袋に放り込んでいく。今回は思い切ってカーペットも捨てるため、粗大ごみステッカーを貼って玄関に出した。
それが終わると夕方まで少し暇になったので、スマホでネットサーフィンしたりアニメを見たりして時間を潰す。
それから、翌日の予定を作ったりお風呂に入ったりした後、夕食を用意した。朝のパッケージサラダと食パンの残りを出してきて、私が作るのは卵焼きだけ。まずお母さんの分の卵焼きを作ってからそれを皿に移してラップをかけ、次に自分の分の卵焼きを作り、フライパンを皿代わりにしてから自分の分のご飯を食べる。
それから、冷めた卵焼きを冷蔵庫に入れてから、皿洗いして歯磨きして、眠る前にすこしゆっくりしているとお母さんが帰ってきたので、
「お母さん、今日は皿洗い自分でお願いね」
「ん」
という会話だけを交わして、卵焼きをレンジで温めるお母さんを見届けてから、寝室で布団に入った。
それが、中学三年生の時の私の、平日の過ごしかた。
そんな生活をしていると、勉強について行くどころか学校に行くのもしんどくて、私は不登校になっていたのだ。
転機は、私が不登校のまま(もちろん卒業式にも出席せず)中学を卒業した少し後になってから来た。
家に届いた卒業アルバムと卒業証書を
「そういや私も中卒無職か……」
と、十五歳から無職になれるという
それは、お母さんが職場で倒れたという連絡だった。
私が見舞いのために病院に駆け付けた時には、お母さんはすでに亡くなっていた。死因は過労。
病院から紹介された葬儀社と葬儀の段取りを打ち合わせしたり、死亡届提出などの各種手続きをしたり、家族葬で行われることになったお母さんの通夜や葬儀に
それから、行政関係の手続きやお母さんの銀行口座の相続やお母さんのスマホの解約などいろいろな手続きでばたばたした後、平穏な日々が戻ってくる――そう思っていた。
実際しばらく、私はお母さんが
今まで通り、洗濯をしたり食事の用意をしたり皿洗いしたり買い出ししたり掃除や片付けをしたりお風呂に入ったり、それからもちろん食べたり寝たり。食材や料理が一人分に減ったこと以外、以前とあまり変わらない日々が続いた。
異変が起こったのは、お母さんが亡くなってから一か月ほど経ってからだった。
夜。常夜灯をつけて時計を見ると、零時を過ぎている。今までは、二十二時ごろに布団に入ればすぐ眠れていたのに、今夜は布団に入って目を閉じても、まだ一睡もできていない。
時刻を確認してからまた部屋を真っ暗にして、それでも眠れなくてまた時刻を確認して、たまに用を足して水分補給してから布団に戻って、そしてまた眠れなくて――。そんな、いつ終わるとも知れない時間を延々と過ごして、私は朝を迎えた。
その次の夜も眠れなかったので、私はスマホで、眠れない夜の対処法を調べる。それから、ストレッチをしたり入眠を
さらに翌日。私は昼間に、スーパーで牛乳を買ったり、百均でアロマキャンドルを買ったりした。そして、布団に入る前にホットミルクを作って飲んだり、アロマを
そこまで来てとうとう、私はプロに頼ることにした。つまり、医療機関を受診することにした。
まずは、眠れないなら何科を受診すればいいのか調べて、心療内科を受診することにする。そして、
溜まった疲れのためにうとうとしながら、二十分ほど待合で待っただろうか。それから診察室に呼ばれる。院長だという先生はにこにこ笑っている人で、私の今までの生活や、眠れなくなった経緯をうんうんと素直に聞いてくれて、それから睡眠導入剤を処方してくれた。
それだけでなく、生活保護の受給と、それととあるNPOを案内するために、ケースワーカーと話して欲しいと言われる。
同じ心療内科にいるケースワーカーに、私は呼ばれた。その人は元気はつらつとした感じの人で、生活保護の受給のために必要な手続きを簡単に説明してくれる。
それから、そのNPOとやらのことも紹介してくれた。
翌日。睡眠導入剤の助けでどうにか少し眠れる夜を過ごした後、午前に、
「ここのはずだけど……」
私は、案内された場所――自宅から徒歩二十分ほどの場所にある
ギターらしきじゃんじゃん言う音は、私がビルに近づくほど大きくなっていった。それを聞きながらエレベーターに乗り込み、案内された二階へ行き、エレベーターのドアが開くと――
ギターの音が、最大音量で聞こえてきた。何の曲かは分からないが、音もリズムも外れまくっていて、それでもかき鳴らす音にはどこか切実さが感じられて、素人の私にも、下手だが情熱がこもっていることが感じられた。
その、ギターの音が鳴り響く空間は、学校の教室くらいの広さの場所だった。全体的に柔らかい色調で統一されていて、ぽつぽつと丸テーブルや椅子が並べられている他、正面の壁は大きな鏡で占められている。
そこに映る私は、さらさらした髪をセミショートにしていて、丸顔の中の切れ長の目で自分自身を見ていて、黒のパーカーと綿パンに身体を包んでいた。
一方、じゃんじゃん鳴り響く音の源、つまりギターを弾いているのは、私と同い年くらいの女の子だった。やせた身体をTシャツとジーパンに包み、丸顔で、あちこちにつんつん跳ねたショートの茶髪を揺らしながら、吊り目を切なげに歪めて弦をかき鳴らしている。
女の子は、演奏の最後にじゃあああぁぁぁぁぁんっ……とギターを
「飽きた」
と一言口にしてから、ギターのストラップを肩から外した。
私が
「レンタルの楽器でよかったな、ダイヤ。今回は……一か月くらいで終わったかな?」
と話しかける。ダイヤと呼ばれた女の子は、
「一か月『も』もったからいいじゃん、コノミ。それより次は作曲したい」
と答えた。コノミと呼ばれた女性は、ため息交じりに苦笑いしながら、ダイヤちゃんからギターを受け取る。そして私に気付き、近づいてきながら、
「お、来たか。初めまして、
そう自己紹介して、名刺を差し出してきた。私が「どうも……」とおずおずと応じながら名刺を受け取ると、屋良さんは、
「『がーるずしぇっど』の意味は『女の子たちの小屋』。ケースワーカーさんから聞いたと思うけど、孤独な女性たちがただ『いるだけ』でいい居場所を目指してます。気楽に『がるしぇ』って略称で呼んでくれ」
とさらに説明してから、私にペンと紙を差し出して、名前を書いて自己紹介するように促す。私は、「北小島すみれ」という自分の名前を書いてから、
「北小島すみれです。その、中卒無職ですが、よろしくお願いします……」
と、シンプルに自己紹介した。
屋良さんはうんうんとうなずいてから、「ほら、皆さんも自己紹介して」と、手をぱんぱんと打ち鳴らしながら周りの人たちに呼びかける。
まず、ついさっきまでギター少女だった元ギター少女、ダイヤちゃんが近づいてきて、
「あたしは
と、
「ほら、例の見学の子だよ、アユムさん。起きて」
と呼びかけながら、彼女を揺すり起こす。
アユムと呼ばれた女性は、「んあ……?」と間抜けな声を出しながら身体を起こし、丸テーブルに置いていた眼鏡を掛けた。
歳は屋良さんと同じくらいに見える。彼女はベージュの髪を肩まで伸ばし、中肉中背の身体をボーダーシャツとゆったりしたパンツに包み、サンダルをはいている。眼鏡越しに、寝ぼけ眼の垂れ目で私を見ながら彼女は、
「
と言いながら私に名刺を渡し、そしてすぐに眼鏡を外し、再びテーブルに突っ伏して寝息を立てだした。
「…………」
また言葉を失う私を、屋良さんはさらに別の人のところへ引っ張っていく。
今度の人は、私の自己紹介の時からちゃんと立ち上がって私のほうを見ている人だった。歳は六十代くらい。グレーでロングの髪を後ろで一つにまとめ、すらりとした身体をブラウスにカーディガン、それに柔らかそうなパンツに包んで、脱ぎ履きしやすそうなスニーカーをはいている。傍らの丸テーブルには、彼女がさっきまで作っていたお手玉や、針や糸や布やペレットが置かれていた。
そのシニア女性は、私に名刺を差し出しながら、
「
と、柔らかな口調と笑顔で自己紹介してきた。私が再び「よろしくお願いします……」と、おずおずと返事を返すと、
「どうかな、北小島さん? こんな個性的な利用者たちが、ただ入り浸るだけでいいのがこのがるしぇだ。君にもぜひ利用してもらいたい」
と、屋良さんが促してくる。それに対して私は、
「皆さん個性的すぎて、その……。ここで私、やっていけるんでしょうか……?」
と、率直に
それを聞いて、屋良さんは笑顔を作り、
「大丈夫。うまくやろうなんて考えなくていい。ここに君は、ただ『いるだけ』でいいんだよ」
と、私を励ましてきた。
「…………」
そこで少し黙り込んで、私は思い出す。あの家で一人で過ごして、眠れない夜のことを。
そして今に意識を戻し、周りを見回す。ここには、私を見てくれている人たち(寝ている約一名を除く)がいる。
それを見て、知らないうちに身体の芯に留まっていた緊張が少しほぐれるのを、私は感じた。だから、
「分かりました。ここを利用させてもらいます。皆さん、よろしくお願いします」
と、私は改めて宣言して、頭を下げた。
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