第3章 潜伏と追跡

第16話 廃寮と鼻歌

 シャルルの体調が回復したころ、ちょうど夜が更ける時間帯だった。ジークリンデとハイナは、2時間交代ほどのペースで仮眠を繰り返しながら過ごした。

「動けそうか?」

 ジークリンデの問いに、シャルルはすぐに頷く。

「ただ、目元を隠した方が良いかも。あまり火傷の後を晒すのも目立つので…」

「目はまだ見えてないの?」とハイナ。

「ええ。いまは魔法で周りを見ています。自分の目で見るのと遜色ないくらい、はっきり見えてますよ。夜なら、こっちのほうがむしろ見えやすいかも」

「できれば此処から移動したい。屋外は体も休めにくいし、発見されるリスクも高い。次の旅先を決めるまで潜伏できそうな場所があれば良いが…」

「廃寮はどうでしょう?」シャルルが手を挙げた。「少し離れた場所に、昔の学生寮があるんです。いまの学生寮が完成してからは、誰も入寮してないはずです。学院が建て替わってから距離も遠くて、近寄る人も少ないと…」

 シャルルの提案に、ハイナは眉を上げ、ジークリンデが顔を顰めた。

「寮だって。どう? ジーク」

 できれば(暗くて廃れた屋内は、個人的に)避けたいジークリンデだったが、我儘も言っていられない。廃寮など、誰も近寄らない場所はむしろ打ってつけである。

「…くっ…他の当てもない…。とりあえず、案内を頼めるか?」

「任せてください!」


 そうして3人は夜の森から出た。今日の夜の天気は曇りで、月明りすら仄暗く。移動の最中、ジークリンデは狙われている理由について、シャルルに話すことにした。闇病を患った者は、無条件で狙われうるという情勢だということを。

「―――という状況だ。推定も多いが、デミス隊が普段と異なる動きを見せていることから考えて、異常事態であることは確定だと思う」

「でもそれって…! 疑わしきは全て罰するってことですか? 予言が本当に当たるかも未確定なのに」

「そーなの! 変だよね? 乱暴だよね!」と、ハイナが何度も頷いていた。

 当のジークリンデは、ため息で応じる。

「残念だが、『魔王』の復活の芽を徹底的につぶすという指針に文句をつける者は少ないだろう。私たちのように、期せずして容疑がかかった者を除けば」

「誰も止めたりしないってことですか…」

 シャルルは眉を下げる。「俺、アニュラスの学院との交流会に出たことがあるんです。きっと予言をしてるのは星夜見の人たちですよね?」

「手紙の文面から察するに、そうだ。……星夜見のこと、知ってるのか?」

「ええ。交流会で知り合った人がいます! その人に話を伝えられれば」

「それは……星夜見はアニュラスの中にしかいない。リスクが大きすぎる」

「…で、ですよね。アニュラスに今の状態で行ったら」

「星夜見に会うどころじゃない。私たちの言葉が嘘でないことも証明しないといけない――今の状況で、闇のエンチャントの使い手の話なんて信じてもらえるかどうか。それに、アニュラスの中は陽依目の追跡も掻い潜りにくい…」

 ジークリンデは気分が重くなって俯く。

 自分たちが魔王と無関係で、闇のエンチャントは偶発的産物であることを証明できれば、きっと暗殺を免れる。闇魔力の行使という罪状は残るが、殺されることはない。

 その結末にたどり着くうえで最大の障壁はごく単純。アニュラスの中に入って、予言に関わる誰かに正確な情報を伝えるという、「伝達」である。

 情報を信頼してもらう方法と、そもそも関係者に近付く方法の二つが必要だった。

「……でも、私たちの方からアニュラスへ行く必要はないかもしれない」

「え。それって、どういう――」

「こっちから行かなくても、がいる。つまり、私たちを暗殺しようとしているデミス隊に伝えればいい」

「え!?」「!!?」

 シャルルとハイナ、二人同時に声を上げるなり目を丸くするなり、驚きを露にした。

「い、いやいや!! 今いっちばん信用できない人たちじゃん?!」

「そうですよ! 俺だって殆ど有無を言わさず殺されかけたのに…!」

「考えはある、無策じゃない。ただ、確証はないから、二人は出来る限りデミス隊の前に姿を見せないように」

「じ、ジークも止めとこうよぉ~」

「リスクは承知だ……ん?」

 ジークリンデは足を止めた。


 眼前には、丘の上に佇む建造物の影が見えた。厚い雲の向こうで低く唸る稲妻の光が、そのシルエットを夜よりも暗い色で浮かび上がらせて。


 顔を青くしてそれを見つめるジークリンデの脇から、シャルルが指を指す。

「あっ! あれが廃寮ですよ」

「わーお…、雰囲気あるね」と、ハイナは苦笑いを浮かべながら、ジークリンデの表情を窺う。

 案の定、彼女の表情は寒い冬の朝の空気に触れたときのように固まっていた。

「ジーク、入れそう? なんか天気も悪くなってきたし、入った方が良いとは思うけど…」

「もちろん、恐いとか思ってなイ」少し裏返った声を咳払いで誤魔化し、彼女はその暗い館を目指して歩み出した。

 館の扉は酷く立て付けが悪くなっていて、開けるときに盛大な音を響かせた。庇の影のクモの巣が揺れ、巣の主が一斉に逃げ出す。

 エントランスと廊下は、割れた窓から差し込む月明かりで照らされていた。

「だ、誰もいないのか…?」

と、独り言の声色で呟くジークリンデ。

「そのはずです。入寮者は募集していません」

 シャルルは頷いて「でも、荒くれ者とか根城にしてたりして…」と小声で付け足す。

「アニュラスの外の治安を鑑みれば、ありえなくはないが」

 ジークリンデは息をつく。若干、自分たちのことを棚に上げている節があることは自覚しつつ。

 その時、ハイナが糸に引かれたように視線を素早く動かした。何もない空間を見つめる猫のような振る舞いだった。

「ジーク」

 口を開いた彼女の声は、囁き声ほどに小さく抑えられていた。「なにか聞こえる」

「ぇ」

 ジークリンデは唾を呑みながら声を上げた。「ど、どんな音…?」

と、恐々と尋ねた。

「ん……鼻歌?」

「は、鼻歌?」

 目を丸くし、さっと顔を青くするジークリンデ。

(幽霊とかじゃ…?)

と呟くジークリンデの脇で、

「誰かいるんですかね?」シャルルも小声で尋ねる。「荒くれ者?」

「で、デミスかもしれないが…。ハイナ、聞こえたのはどのあたりだ?」

「あっちの方。上のフロアだね」ハイナが指を指したのは天井である。

「ジークリンデさん、どうしましょう?」

 無用なトラブルは避けたい(と、普通に恐い)という考えがまず浮かんだが、今から他の場所に移動を始めるのはリスクもあった。夜明けまで時間があっても、夜行性の種族や、夜明け前に動き出す種族も一定数いるのだ。

「シャルルの魔法で、様子を窺えないか?」

「や、やってみます――検知の魔法ανίχνευση

 頷いたシャルルは、あえて完全詠唱の魔法を行使した。館全体が検知の魔法の効果範囲に収まったことで、莫大な視覚情報が脳に届く。

 本来であれば、とても処理しきれないほどの魔法だった。


(……の、はずなんだけど……ちょっとおかしいな? 全然頭が痛くない)


 シャルルは異常なことが起きていることを自覚していた。

 略式詠唱にしろ完全詠唱にしろ、魔術師の処理能力が足らない場合は威力が落ちるか、が発生する――魔術師の“知恵熱”と呼ばれる現象は、身の丈に合わない魔法を行使した際に脳に直接の発熱を起こす。それに伴い、酷い頭痛の発症や気絶、最悪後遺症もあり得る。

 今のシャルルは、その頭痛を感じていない。大規模な魔法を十数秒以上も行使しているのに。思えば闇病に罹ってから、感じた覚えがなかった。

「ど、どうだ?」

と、ジークリンデに尋ねられて、シャルルはハッとして顔を上げた。

「人はいないです。ネズミとかクモとか。あと蝶?蛾?は見つけましたが…ホントに鼻歌ですかね?」

「そうだと思ったけど…。あれー? たしかに今は止まってるかも……隙間風と聞き違えたかな?」

「ほっ…」ジークリンデは胸を撫でおろす。「んん、一応、警戒しながら行こう。身を隠すなら上のフロアほうが良い」

 一同は頷き合うと、酷く傷んだ階段を上がっていった。二階に上がっても、人影や気配はない。

(やはり、誰もいないのか…?)


『おい! 何だアンタら』


「ひっ!!?」「えっ!!」「誰?!」

 振り返って、月明かりに照らされて見えたのは――蝶のような繊細な模様の羽根と小人のような体躯。白い額を出すように長い髪を左右に分けて下ろしていて、その装いや相貌は、華奢な少女のようだった。そして不思議なことに、その躰そのものが輝いているように見えた。

(幽霊じゃない、妖精? シャルルが見た“蝶の羽根”は、この妖精のものか…?)

 ジークリンデはそう思いつつ、口を開く。

「貴方は……もしかして、“ピクシー”か?」

『そうだ。文句ある?』

 体のサイズと風貌に反した態度で、妖精は頷いた。『ウチはリリス。この寮のピクシーだが…アンタら学生さんか? 白衣を着てるのは一人だけみてえだが』

「……」

 なんか荒れてるな、とジークリンデは内心で思いつつ、どう応じるか、思案していた。


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