第8話 吸血鬼とご馳走
吸血鬼のデミスが住まうとして連れてこられたダンジョンは、建物というよりは巨大な巻貝のような構造物だった。地面の下に埋まった部分がどれくらいあるのかも、一見して定かでない。
「久しぶりにダンジョンを見たが、凄まじいな」
「ジークは他にもダンジョンいったことある?」
ハイナに尋ねられたジークリンデは、問いに答えるより先に驚いたような表情を見せた。
「ごめん、呼び名が欲しくて! ジークじゃだめ?」
「構わない。今まで見たことがあるダンジョンは一つだけだ。あれも異様だった」
ジークリンデはダンジョンの外壁の裂け目へと歩み寄り、中を覗く。不自然なほどに真っ暗で、入口のごくわずかな部分しか月の光が入り込んでいない。闇病に罹ったジークリンデは夜目が抜群に良く、内装は確認できた。構造物の空洞は、地下深くまで続いている。
「思ったより深いな?」
「ダンジョンの中は暗黒空間が歪んでて、見た目より広い」と、案内役のギィギが説明した。「俺が案内できるのは、ここまでだ。ダンジョンの中はグレムリンにとっては広すぎる」
「そっか。ギィギありがとう。ここから先は、私たちで行ってくる」
「最後まで案内できず、悪い。ジークリンデも気を付けてくれ。ネルフは平然と暮らしているが、基本、ダンジョンの中は危ない」
「ああ。心得た」
手を振るギィギと二人は別れを告げて、ダンジョンへと踏み入った。
かつー……ん。そんなふうに、ジークリンデのブーツの音が異様なほど広く響き渡った。
ダンジョンの中は、階段が装飾品のように飾られ、重力の方向的に絶対に使用できない角度で設置されたものもある。深さ方向に向かってダンジョンはどこまでも伸びて、複雑に入り組んだ階段が樹の根のような迷宮を作り出していた。
「――ネルフ殿! いないか!!」
少し進んだころ、ジークリンデは声を張り上げた。驚いたハイナがびょんと飛び上がる。
「びっくりしたぁ……」はあ、と息を整えながら、丸い目を震わせていた。
「あ、済まない」
ジークリンデの声がいつまでも反響し、木霊している。
その木霊に混じり、
「どなたかな?」
と、声が聞こえる。とりわけ反響が抑えられ、脳内に直接聞こえたような感覚で。
「なぜ儂の名を知ってる?」
低い声に、まるで背後にいるかのような感覚。
たまらずジークリンデは振り向いた。そこにはハイナが立っているだけで、声の主に相応しい者はいない――ハイナの背後に揺らめく影に気付かなかったら、誰もいないと思っていたところだろう。
「そこにいるのか?」ジークリンデは目を細めた。
「えっ?」
「ハイナ、動かないで。そこにいるらしい」
影が肩を竦めて、口元を緩めて微笑んだ――ように見えた。
「娘、よく分かったな?
含み笑いとともに、ハイナの影が分裂して、もう一つの人影になった。
細身で血色の悪い青白い頬に、赤い月のような瞳が浮かぶ。馬鹿にするような薄ら笑いを描く唇の隙間から、鋭すぎる八重歯が光った。低くしわがれた声のわりに、様相はジークリンデと大差のない若者のような男である。
「こんばんは」
「……こんばんは」「こんばんは!」
「素直な挨拶でよろしい」
と、吸血鬼はまた歯を覗かせた。「儂はネルフ。……先ほど儂の名前を呼んでいたから、どうやら貴公ら、儂を知っているようだが」
「私はジークリンデ。カルタノアという森に棲むグレムリンに、貴方を紹介してもらった」
「嗚呼、カルタノア。あの森の木陰から見る月がいっとう綺麗でな。月光浴のついでに寄るのだよ。それで何用かな? この棲み処に客人がいらっしゃったのは、初めてでね」
「スライムのことを知っているか? 闇病を媒介するような」
ジークリンデの問いに、ネルフは目を丸くして、首を傾げた。
「不思議な質問だな」
「……済まない。知らないか」
「いや。心当たりならあるとも。不思議だと思ったのは、なぜ儂にそれを聞いたか、というところだよ」
「グルメ――食通だと。そう聞いた。魔物の血を吸っているのだろう?」
「くくっ、食通とな。仲間内では‟ゲテモノ食い”扱いだが、いかんせん、この年になっても興味が抑えられんでな……グレムリンとは何度も世間話をしたが、そう好意的に解釈されていたとは驚きだ。さて娘、そのスライムを見たのか? 触れたか?」
「見た。触れた」
「気の毒に」ネルフは肩を竦めた。「そのスライムは、儂が喰らって来たものの中でもいっとう不味いやつだった。口に含んだ瞬間に広がる不愉快なほどの脂っぽさと薬品のように妙な匂い、唇に触れたときのまとわりつくような粘っこさ、歯を立てた瞬間に感じたあの得体の知れない悪寒――! そうそう、儂は昔から知覚過敏でね。口に入る者は何でも喰う所存だが、やはり温かい生き血の、淹れたばかりの香り高いティーのような魅力に勝るものは少ないのだよ。だから死体など新鮮さを失った血肉は喰うに値しないが、とかくあのスライムは、なお酷くてね。いわば汚泥と死肉のアイスクリームのようなものだ。一口だけ戴いたが、それからはすっかり懲りたよ」
「うっひえ……」
と、ハイナが顔を顰める。
「そのスライムの名前を知らないか?」
ジークリンデも少し顔を顰めながら、辛うじて尋ねた。
「仲間内で‟澱みのスライム”と呼んでいた、儂をも認めさせる、完全なるゲテモノだよ」
「澱みの……? 聞くからに、さほど良いものではなさそうだな」
「だろうな。以前、人間があれを“闇澱み”とも呼んでいた。だから真似して、澱みスライム。そうそう。当時は、かの魔王が生きていた時代だった。懐かしい」
「……!!」
ジークリンデとハイナが目を丸くした。
ネルフはにっこりと微笑む。
「その闇澱みは、魔王が死んでからすっかり見なくなったのだよ。しかし、御仁のような娘がそれを知っているということは――近頃、そのスライムが出たのか」
「あの伝説の魔王と関連があるのか」
「‟伝説”かね。儂にとっては、昨日のことのような思い出だがね。喰えたものではない血の乾いた屍がそこらに溢れ返って、仲間たちが一番餓死した時代だ――儂はゲテモノも何もかも喰らって、生き延びたが」
「……」
ジークリンデから見ると、微笑むネルフの目に寂しさが感じられた。
「もっとも、儂もあれ以来そのスライムを見ていない……魔王と関連するのか否かは知らないが、無関係ではないかもな。さてさて娘、聞きたいことは聞けたか?」
「あ…、ああ。ありがとう」
「ならば、儂からも一つ聞かせてくれ。闇の魔力を纏う人間の娘…」
ネルフは口角を上げて、歯を覗かせて、掌を合せて擦り合わせながら、ジークリンデににじり寄る。
「人間が闇の魔力を纏っているのを、永く生きてきて初めて見た。闇の強毒作用で死にかけのように見えるが、反面、生への強い執着も感じる実に見事な、見事な熟成状態だ。生命の神秘を体現している。生きる事にしがみ続ける肉体の血肉のなんと香り高いことか。もし人間が何千年と生きながらえたら、これほどまでの状態になると思うが――それは本来叶わぬこと。ああ、なんと奇跡的な
「ひえ……」ハイナが顔を青くした。
「そ、その、ありがとうネルフ。では、私たちはこれで失礼させて――」
ジークリンデとハイナが同時に一歩引いた途端、ネルフの背中から骨ばった翼が広がる。
不自然なほど明るい赤色の血管が、古びた壁面の亀裂のように翼の膜に広がっている。ネルフは恍惚とした表情で、白魚のような指の先までぴったりと、掌を合わせていた。
「お礼なら結構、据え膳喰わぬは鬼の生き恥ゆえ――いただきます」
ネルフが牙を剥き、ジークリンデが刃に手を伸ばし、ハイナが尻餅をついたそのとき、ダンジョンの入口の方から足音が響き渡った。
「……んん?」
吸血鬼は、ぐるりと首を回し、月光が差し込む入口を見遣る。
二人分の人影が、そこにあった。
(あれは……)
「……うふふふーう^^。『黒騎士』みーつけた! それに吸血鬼も。めっちゃ面白いことになってんねぇ!」
そんな高い声がダンジョンの中に響くと、
「お前……!! これは一応、相手に顔とか姿を見せてはいけないタイプの任務なんだぞ、お前!!」
「えー、別にいいじゃん。ウチは兜被ってるしい^^;」
そんなやり取りが続く。
一人が十字状のロッドを取りだす――そのロッドの先に、魔法の光が強烈に灯った。その使い手のフードの中が照らされ、イヤリングなどのアクセサリーで飾られたフルフェイスの兜が闇に浮かび上がった。
「それに全員いまから殺せばさぁ^^? 顔とかそんなん、どうでもいいじゃない?」
(なっ……あの兜、いま殺すと言ったか!?)
汗をにじませたジークリンデが構えたが、その前にネルフが歩み出て、彼女を手で制した。
「……やれやれ、なんと客人の多いこと。しかし御仁、食事を邪魔するとは、なんと無礼極まる振る舞い……!!」ネルフは額に青筋を立てて、歯を剥いた。
「儂はお楽しみは最後まで取っておくタイプゆえ――貴公、先に喰らってやる!!」
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