第4話 炎と闇
「はッ、あ……」
ジークリンデは自分が震えていることに気付く。眼前の竜は自分を叩き落とした。自分を殺しかけた、仇だ。
怒りや復讐心よりも、先に恐怖が表情に滲んだのだ。
「が、はっ…や、やめろ…!! 生身の人間、ひとりじゃ…! ぐっ…」
エルフは呼吸を乱しながら、掠れた声で言う。
(分かっている! 私では竜には勝てない…!)
竜の火の熱を感じるほどの間合いになって、またも死地に立ったとジークリンデは強く自覚した。
その思いが、あの谷底での出来事を思い出させる。
「でも――私はとうに死ぬはずだった! デミス隊一人の命と交換できるなら、儲けものだ…!」
もとより勝つ気ではなかった。
さきほど伝令がデミス隊へと向かった。まもなく竜を討伐するために応援が来る。とびきりの精鋭が。
(時間稼ぎだけで良い。どうせまともな武器はない。デミス隊が来るまで、命を賭してでも気を引ければ……)
強い恐怖と死の予感が腹の底から頭の先まで痺れさせる。
爪、視線、声、炎、翼、足音。その一挙手一投足が彼女の恐怖を増幅させたが、全て振り払うように息を深く吐き、折れたレイピアを抜いた。
針のように美しい刀身はもうない。それでも構えるだけで、生きることに集中できる。
(この竜に勝つ必要はない。この場に留まらせれば。時間さえ稼げれば――)
そして竜は首を上げ、振り下ろすと同時に火を思い切り吐き出した。
ジークリンデは地面に手をついて身を屈め、全身の力を込めて前方へと近づく。背中を掠める業火の熱がチェーンメイルを焦がして、溶かして、ほつれて、剥がれ、散らばるように地面に落ちる。
(あの程度の鎧、竜相手にはどうせ役に立たない! 身軽な方がマシだ!)
首元の下まで潜り込むと、火の熱はむしろ弱まった。竜は一瞬で見失ったジークリンデの気配を探り、下を向く。すぐに牙を光らせ、竜は噛みついてきた。
牙とすれ違うように身をひるがえし、竜の頭に飛びつく。その行動に遅れて竜は首を振り、彼女を振り払おうとする。
ジークリンデは首を手放し、背中、翼と順に伝って、翼の脇の下へと身軽に移動した。死角に陣取られた竜は、首を大きく見渡すように動かすと、その場で踵を翻すように動き、不意に動いた尾がジークリンデの胴体を捉えた。
「うぐっ!!」
純然たる質量弾を受けた彼女は、しかし吹き飛ばされることなく、竜の尾を抱えるように受け止め、さらに押し返した。
「う、嘘だろ…あいつ、どんな力してんだ…!??」エルフの騎士は、その立ち回りに驚く。
(嘘、止められた??)そしてジークリンデ当人も、内心で自分の動きと力に驚いていた。
尾を押し返されて竜が態勢を崩し、その隙にジークリンデは咄嗟に振り返る。
すると、装備を着込んだデミスたちが遠くから駆けつけるのが見えたのだ。
「デミス隊……! さすが早い、来てくれたか!」
竜のほうも、態勢を立て直したときにデミスたちの接近に気づいたらしい。デミスたちが放つ魔力の気配が竜に潜在的な危険を察知させた。
そして竜は風圧と共に跳び上がって、翼を羽ばたかせて滞空し始めたのである。
「うあっ!」
ジークリンデは風圧で吹き飛ばされ、駆け寄ってくるデミスと、竜の中間の地点で止まった。
滞空する竜は再び、口に火を溜め始めていた。その魔力は高密度に集中し、周囲に耳鳴りのような感覚を広げる。
(空からまとめて焼き払う気か……デミスも、街も、みんなも!)
セレモニーの会場がそれほどの火に覆われれば、デミスはともかく、市民の死傷者は免れない。竜の口は火の熱に光り、そして再び、首を大きく上げて、振り下ろすように動かした。
(火が来る……!!)
炎熱と光が地上のジークリンデに迫る。彼女の肉体は、あっという間に火に呑まれ――「死」の気配が彼女を覆う。
ジークリンデは、咄嗟にレイピアを振った。
すると折れたはずの切っ先が、刃状の魔力に纏われ、それが空に向かって放たれたのである。インクをぶちまけたような黒い波動が竜の火を飲み込み、さらに竜の胴体を縦に捉えた。
瞬間、竜の胴体は真っ二つに千切れ裂け、口に溜めた炎の魔力が爆散し、竜の肉体を自ずから弾けさせ、黒い魔力に呑まれた竜の肉体は、最後には灰と散ったのである。
「……え」
ジークリンデは、生き残っていたことよりも、自分自身の所業に驚いていた。
自分が剣から闇の魔力を放ったという事実にも、その魔力で竜がたった一撃で
(私がやった、のか…?)
「おい――冗談だろう? 俺たちの討伐対象は竜だと聞いていたんだが」
そんな声と共にデミス隊たちがジークリンデの背中に迫る。彼女は、ゆっくりと振り返った。
火に焼かれて破れて黒く焦げた軽装に纏う濃い闇の魔力、そしてその闇が刃となったような武器を悠然と構え、退色した白灰色の髪を爆風にたなびかせながら、黄金がほの暗く灯る彼女の眼光が、デミス隊を迎えた。
いま眼前に佇む暗黒の騎士が、赤竜を一撃で完膚なきまでに討った。その比類なき威圧感に、デミスたちはたじろぎ、歯を剥き、武器を抜いた。
「……『魔王』か何かじゃないか、こいつは」
ジークリンデは動揺する心中で、デミス隊の言葉を木霊のように反響させていた。
(『魔王』…私がそう映った…?)
彼女は、ぎこちなく首を振る。
「ち、ちが。これは。私じゃない」
「大人しくしろ。アニュラス内で許可のない魔法の行使は拘束対象になる」
デミス隊の言葉を聞き、ぎくりと肩を強張らせるジークリンデ。
彼女の振る舞いは、竜を倒したということを差し置くと、防御の要を担う城壁を闇の魔力で破壊したテロである。その被害を抜きにしても一介の遠征兵である彼女が王の法治下にあるアニュラスの中で闇の魔力を行使したことは、デミス隊を警戒させるに十分だった。
「武器を地面に投げ、手を頭の上に回せ」
威圧されたジークリンデはつい、命に従う前に、わずか一歩だけ背後に退く――その瞬間、
「
と、デミス隊の一人が杖を振り、
すると閃光がジークリンデの肩に当たり、突然鎖が肉体に纏わりつくと、彼女の腕の自由を奪っていった。
「くっ、う…!」
彼女を拘束する鎖が、徐々に重さと長さを増し、
大人しくしろ、とまた声が響く。鎖に締め付けられ、重みに体が屈み、息が詰まるほどに、ジークリンデの頭の中でまた死の予感が膨らんでいく。
「う、うあああああっ!!!」
彼女が悲鳴を上げると、全身に黒い瘴気が纏わり、鎖があっという間に錆びついて千切れた。同時に彼女のチェーンメイルも錆びついて壊れ、首元の肌がはだける――痣に黒く染まった肌が露になり、デミス隊はぎょっとして怯む。
「捕え!!」
今度は
「こ、こいつ…! 此処はアニュラスだぞ! 自分が何をしているのか分かっているのか!?」
デミス隊がついに剣を抜き、構えた。
「は、ち、ちがう、これはっ――済まない!」
暗い騎士は要領の得ないことを言い残し、踵を返して駆け出した。
「待て!!」
デミス隊は追いかけようとした――が、見ただけで追うのを諦めるほど彼女の速さは常軌を逸していた。
ものの1、2分のうちに遥か遠くの城壁の元へと至り、裂け目から外へと飛び出していったのである。
「ダーイン隊長。奴は」
「書記卿に伝達する。‟ドラゴンの脅威は消滅”。だがさっきのアレは、なんと言ったものか」
アニュラス・デミス隊隊長、
「……『魔王』?」と、一人が呟く。
「馬鹿な。魔王はとうに死んだ」
「もちろん只のコードです。どうです?」
「滅多なことを言うんじゃない。書記卿には俺から伝えておく。お前たちは、原状復帰の応援を頼んだぞ。もうすぐ開会の時間だ」
かたやデミス隊の一人は、うずくまっているエルフの騎士に駆け寄り、名を呼んだ。
「ディータ〜、大丈夫そ^^?」
「……なんとか。ボロボロだが」
「一人で相手なんていくらディータでも無茶だよー。あの滅茶苦茶な騎士に殺されなくて良かったねぇ^^;」
「いや、あいつは、俺を」
エルフのディータは闇に焦げた地面を見つめて、少し押し黙り、
「…いや、何でもない」
と言うと、仲間の手を借りて、よろよろと立ち上がった。
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