六話

 葬式に行く気にはなれず、私は何時も通りに夕暮れまで眠った。自分が奴の死を悲しんでいるのかさえ怪しかった。普段と変わらず、何をする気も起きずに薄暗い部屋で過ごし、特に涙が出る訳でもなく、強いて言えば、多少の物足りなさというか、空間がいつもよりも伽藍として見えると云った程度の思いはあった。

 日が暮れて外に出ると、前日よりも大粒に成った雪がしんしんと降り積もっており、歩道は透き通った純白の絨毯が敷かれた様で、人の行き交う道の真ん中だけが黒く濁って霙に成っていた。

 何を考えるでもなく、淡々と歩いて店の前に着いたが、店内はいつも以上に薄暗く、おまけに彼女は私がいつも座る席の横で、次から次へとウヰスキーを注ぎながら浴びる様に呑んでいた。静かに扉を開くと「今日は休みだよ」と云う声が聞こえたが、彼女は私を見留めると店内に招き入れた。

「今日は一段と酷い顔ね」

彼女は酒を注ぐ度に、ウヰスキーの入ったもう一つのグラスと自身の物とをかき鳴らしていたので、今日が彼女にとってどんな日なのかは大概予想がついた。

 私はいつもの壁際の席に腰を下ろして口を開いた。

「騒がしい奴が死んだんだ。売れなく成って、妻にも呆れられ、それでも私について回ってきていた」

「そう」

暫くの沈黙の時が訪れた。彼女は変わらぬ動作で呑み続け、私は頬杖をついてぼうっと壁の一点を眺めた。

 グラスが机を滑らせる音が聞こえ静かに振り向くと、目の前にはウヰスキーが置かれていた。

「呑みなさい」

思わず声が漏れ出た。あの彼女が私に酒を勧めたのは間違いなくこの日が初めてで、呆気に取られてしまった。

「旦那のね、命日なのよ。残されたもの同士、傷を舐め合いましょうよ。

付き合って頂戴」

私は恐る恐るグラスを口元へ近づけた。酒などはいつでも呑んでいるが、この店で呑むのは初めてなので、何だか緊張して手が震えた。

 一口呑んだと同時に涙が溢れ、三口目からは呑む毎に涙が一粒ずつ零れ落ちて行ったのを覚えている。私は福原の死を悲しんでいたのだった。途中からは、酒など、涙と奥につっかえた鼻水の味しかしなくて、次から次へと流れる涙に肩を震わせた。

 私が多少落ち着くと、彼女は自身の話を始めた。

 彼女の旦那は二年前に他界した。この店はもとは旦那のものであり、彼女に託して死んでいったらしいのだが、悲しみに暮れた彼女は一年もの間塞ぎ込んでいたらしい。漸く少し立ち直り店を開くと、半年後に私を見つけたのだと云う。私は出会った頃の旦那と年頃が同じで、放っておけず手を差し伸べてくれたのだ。彼女にとってその日は、店で過ごす初めての命日であった。私達は互いを慰めるでもなく、彼女の話の後からは、ひたすら黙って酌み交わした。

 夜明けが近づき、我々は初めて身体を重ねた。傷を舐め合うように、悲しみや虚しさが付け入る隙間などないように、強く求め合って、日が昇ると共に燃え尽き、果てた。

 店のソファア席の上で、彼女は私の首筋をなぞりながら囁いた。

「貴方のね、本、旦那が好きだったのよ。私も読んだことがあったわ。素敵だった。やっぱり才能あるのよ。だから大丈夫」

私は彼女がとてつもなく愛おしく成って、再び抱き締めた。結局店を出る頃には日は随分と高く成っていて街も賑わっていたが、そんな騒音も遠く聞こえた。


 私はそれっきり店に行くことをしなかった。初めて強気な彼女の涙を見たからか、久方ぶりに女体に触れたからか、はたまた福原に感化されたのか、あの店に訪れる人々を描いた『酒場の人』で、私は再び売れる様に成った。自然と妻との距離も戻り、それからは順調に四十年の時を共にした。

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