五話
福原は昼前にやってきた。私は何時もの様に居間に寝転び、奴は対して面白くもない話を一人でしながら部屋を片した。
少しすると奴の動く気配が消えたので、また例の小言が始まるのかと身構えたが、その日は背後に座られることはなく、代わりに奴は外套に腕を通しながら「先生、僕この後例のカツレツを食べに行くんですよ。良かったらご一緒しませんか」と訪ねた。何だか悪くない気がしたので了承すると、福原は少しの間目を見開き、喜んだ。
昼間の内に外を歩くのはいつぶりであろうか。人の往来は激しく、人力車や路面電車の音が騒がしかった。隣で歩く福原は外でも変わらず一人で話し続け、私の心は、ここ数日の寒さには珍しい陽気に当てられて、少しだけ穏やかであった。
定食屋には路地裏の店と反対の方向へ十五分ほど歩くと着き、福原は席に着くなり、慣れた手つきで二つのカツレツ定食を注文した。食事を待つ間も、出された後も、福原が何度も食べたであろうカツレツに目を輝かせ嬉しそうに頬張るだけで、我々はひとつも会話をしなかった。しかしカツレツの方はかなり旨くて、心地よい音と食感と共に衣を齧ると、ふっくらとした牛肉が湯気を立てて現れ、ソースとよく絡まった。噛めば噛む程に肉汁が滲み出て口内に広がり、甘(キャ)藍(ベツ)との相性もいい。私は久方ぶりに彼女のサンドヰッチ以外のものを口にした。
外に出ると雲行きが怪しくなっていた。
行きとは打って変わって福原も大人しかったが、暫く歩くとふと口を開いた。
「実は私にも作家まがいのことをしていた時期がありました。自分でも本を書いていたのですが、才能のなさに打ちひしがれてしまって。このまま本物の天才たちを突き付けられるくらいなら、出版社を辞めてやろうと思いました」
私から見た福原は、裏方に徹し、誰かの成功を影より支えることこそを喜びとしている人間であった。そうでなければ、私なんぞにあそこまで献身的になれるとは思えなかったのだ。だから奴に、そういう、表舞台で自身の世界を見せつけたいなどといった野心が存在というのは、実に意外なことに思えた。
面食らう私に多少微笑みかけ、奴は言葉を続ける。
「さあ、上司に何と言い訳しようと、そう思っていた時です。先生の作品に出会ったのは。
本屋の前で声を張り上げ、同人誌を手売りする四人の学生も、彼らが不器用ながらに縫い合わせたであろう歪な冊子も、今でもはっきりと思い出せます。あの不格好な本の、たった数頁に繰り広げられた圧倒的な才能は、私の自尊心や嫉妬心を吹き飛ばしてくれました。どうやら人間というのは、どうやっても手の届かない遥か高みに触れると、そんなつまらない感情を忘れることができるようなのです。当時のくすぶっていた私にとって、あの瞬間はとても心地の良いものでした。そして決心がついたのです。この天才を世に知らしめるために生きていこうと。私は貴方に声をかけ、自分の作家業は完全に辞めて編集者に徹することに決めました。先生は、私に生き方を与えてくださった恩師なのですよ」
雪がちらつき始め、薄暗い空の下で目を輝かせている福原を見ていたら、私は奴を見くびっていたのだと気が付かされた。福原という人間は、私と出会った以前も以後も、変わらずに熱い男であったのだ。伝えたい物語を書いたのが自分自身か他人かという違いだけで、奴はずっと文芸に対して野心に燃えていた。
帰り道が分かれる十字路についたとき、福原は私の顔を真っ直ぐと見据えて口を開いた。
「最近の先生は少し変わられた様に思います。いつも家から出ようとしなかったのに、お昼までご一緒できて、更には私の長話にまで付き合っていただいて。今日は本当にありがとうございました」
一人、家までの一本道を辿りながら奴の言葉を反芻する。私は変わったのだろうか。確かに最近は酒の量も減ったように思われるし、福原に対して腹を立てることも少なくなったが、依然筆は進まぬままだ。書こうとすれば焦燥感に駆られ、手が震え、全身を掻き回す日々である。肝心なところは何も変わっていないのであるし、大きな変化も何も感じないが、奴の目から見てこの頃の私が何か違っているのであれば、それは間違いなく、路地裏の彼女のおかげであろう。見ず知らずの汚らしい私を拾い上げ、見返りもなく食べ物と居場所を与え、更には辛抱強く話を聞いて諭してくれた。だから私は彼女に感謝してもし切れないし、彼女に出会えたことは私の人生最大の幸運なのだと思う。
家に着くと、今まさに人力車に乗り込もうとする妻の姿があった。妻も私に気がついた様であったが、しんしんと降り積もる雪の中でますます冷たく、そして美しく見えた。この時私が何を思ったのかは未だに解らない。気がつくと私は妻に声を掛けていた。以前は自暴自棄になった私に妻が励ましてくれることはあったが、私はまともに応えなかったし、ましてや自分から話しかけるなどということはなかったから、会話を切り出すのは実に数年ぶりのことであった。
「最近は元気にやってるかい」
話す言葉も定めぬままに口が動いていたものだから、口をついたのは何とも的外れな言葉だった。私に話しかけられた妻は面倒臭そうに視線を逸らし、仕方なくといった風に口を開いた。
「どうしたんです、いきなり。今まで互いに見向きもしなかったではありませんか」
「いや、何となく訪ねてみただけさ」
私も思わず視線を逸らして答えた。
「そうですか。少なくとも貴方よりは健康な様なのでご心配なさらず」
「そうか」
では、と妻は人力車に乗り込み言ってしまった。
私も、妻が去ると一気に力が抜け、疲れてしまい、路地裏の店が開く頃合いまで、一人泥のように眠った。
その次の日のことである。珍しく福原はやってこず、代わりに奴の上司を名乗る不愛想な男が訪ねてきた。
男は福原が路面電車に轢かれて死んだことを、端的に私に伝えた。話を聞くに、定食屋の帰り道に別れてすぐであったらしい。
「腕が良くて仕事もできる奴だったのに、あんたみたいな売れない作家にご執心の変な奴だったよ。まあ、別の作家で稼いできてくれるから、あいつのこともあんたのことも追い出 しゃしなかったがな」
男はそう吐き捨てながら、葬式の日程や場所が書かれた紙きれを置いて出て行った。
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