四話

 路地裏の店では三人の男が飲んでいた。それぞれ歳は全く違っていたが、皆小綺麗ななりをしていて、慣れた手つきで酒を飲んでいた。腹立たしいほどに上品で静かな酒の席の中、丸眼鏡を身につけた、一番年老いた男が残りの二人に近況を訪ねた。まずは初老の、英国紳士気取りの男が特に変わりはないというようなこと応え、次に私と同じくらいの歳の程と思われる男が口を開いたのだが、これには堪えた。

 彼は大学の助教授になったことを報告した。御二人のお陰ですと笑うその男は、紺色のスーツを若々しく着込み、私はその姿を見て自分が青年と呼ばれても可笑しくない年齢であることを思い出した。話を聞いた残りの二人は少しの間驚き目を見開いたがすぐに、やはり思っていた通りだ、昔からお前は優秀でこんな日が来るのではないかと思ってたと、酒を注ぎながら高笑いをした。青年は照れ臭そうに頭を掻きながら云った。

「いえいえ、私なんてまだまだです。先生こそ、最近は物書きを始められたとか」

私は思わず珈琲を飲む手を止めた。その時の私の心情は一気にどよめきだった。そんなもの趣味の範疇を超えないに決まっている、老後の娯楽として書き、周囲の人間に披露しては、見えすいた煽てに乗って浮つきたいだけだと自身に言い聞かせた。私が全てを失い、それでも掴み取ることができないものを、一介の老人が片手間に手に入れていい筈がないのだ。

「そうですよ、先日新聞で先生の雑誌をお見かけした時は大層驚いてしまいました。言って下されば良かったものを、水臭いではありませんか」

初老の男が謙りながら続いた。

「いやいや、教職の合間を縫って書いたものだからね、態々(わざわざ)人に言ってみせるような物ではないと思ったんだよ。新聞の件は運が良かっただけさ」

 現実は残酷であった。話を聞くに彼の書いた小説が載っているのは、私が世話になっていたものと同じであった。

 それから男達が帰るまでの間は、只管(ひたすら)に苦痛な時間であった。彼らの話なんぞ聞きたくもなかったが、狭い店内ではそうもいかない。耳を塞いでしまいたくなりながら、ただただ自分が情けなくなっていき、縮こまりながら耐え忍んだ。男達が店を出た瞬間に息苦しさから解放され、まともな呼吸ができるようになった。彼女もそれを察していたのか、二人きりになると、私に新しい珈琲とサンドウヰッチを出してくれた。サンドウヰッチの角を少しだけ齧ると、思わず弱音が口走った。

「惨めなものだな」

「どうして」

「さっきそこに座っていた客の一人、私と歳は差して変わらないでしょう。それなのに随分と違ったものだ」

彼女はとても驚いたような顔をして黙り込んでしまった。

「どうしたんです」

「いや、すごいと思って。あの丸眼鏡を掛けた方、私ならとても腹が立ってしまう。なのに貴方が思い詰めていた理由はそれではなかった」

「立ったが、仕方のないことでしょう。彼の方が良い物を書いたというわけだ。私が貴女に文句を云うのはお門違いというものです」

私がそう言うと、彼女はゆっくりと私の隣の席まで回り込んで座り、店内にある石油洋燈(ランプ)の明かりを受けて黄金に照ったウヰスキーグラスを眺めた。そして余りにも穏やかな顔で口を開くのであった。

「貴方はきっと、心を制すのが上手すぎるのね。他人に荒ぶる感情を見せる前に、論理で自身を丸め込んで仕舞える」

「何を言うのです。酔っては、何度も貴女に醜態を晒してきたではないか」

「ええ、でもそれは貴方が心を隠していることの表れじゃない。素面ではとても自身の弱さを見せられないから、一人で抑え込もうとして抱えきれなくなった時、お酒を飲むことで誰かにそれをぶつけようとする。きっとそうよ」

彼女は一口呑み、言葉を続けた。

「優しすぎる貴方は、何かに腹が立った時、色々な方向からこじ付けて、相手を善くする。相手を責めるのでなく、自分を悪くすることで逃げているんだわ。普通は逆よ。貴方やっぱり作家に向いてる」

初めは自身を卑下することで、彼女にそれを否定してもらい楽になろうと思っていた。だが、思わぬところで随分と救われた気がした。

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