三話


 暖簾を潜り言葉を二、三交わして、何時もの、一番奥の壁と隣り合ったカウンタア机にすわった。

 そして彼女の作ったサンドヰッチを食べながら原稿に向かってみた。私は数年もの間同じ話を書き続けていた。決して特別な拘りがある訳でも、深く作り込んでいる訳でもなかったのだが、筆を進めれば進めるほどに自分が何をしようとしているのかが解らなくなっていったのだ。否、最早あの頃の私に書きたいものなどなかったのかもしれない。当時の私は空っぽの心を抱えて己の思い込んだ人生に縛られた傀儡に過ぎなかったのだから、そんな人間に__最早人間とすら呼べないのかもしれない__別の誰かの人生を書き連ねるなどできる筈もない。「心の持ちよう」が問題であったのだ。ただ、当時の私にそんなこと知る由もなく、自らが何者かによって蝕まれていることにも気が付かず、酒を浴び落ちぶれていった。

 書けない現実を突き付けられる度に、どうしようもない焦燥感と腹立たしさに追い詰められて、その場で暴れ回ってしまいたくなったが、人目のある場所でそんなことができる筈もなかった。

「……酒をくれ、頼む」

「駄目よ」

「気がおかしくなりそうなんだよ」

私は万年筆を勢いよく紙に突き刺した。曲がった筆先からインキが零れ落ちる。

「……頼むよ」

私には何かに逃げてしまう以外に方法が思いつかなかったのだ。

「駄目」

それでも彼女は顔色ひとつ変えず、皿を拭きながら、こちらには見向きもせずに言い放った。私はその姿に、母親に構ってもらえずに泣き喚くような、そんな気持ちになった。

 こうして店に来ると、情けなく惨めな気持ちになり、駆り立てられるような不安と不満に苛まれることも少なくはなかったが、私は律儀にも必ず、彼女と共に店に差し込む朝日を浴びた。

 これは私の身勝手な勘違いで思い込みに過ぎないのかもしれないのだが、どうも彼女も又、私を必要としている__かのように思われて仕方がなかったのだ。

 だからこうして互いの中に多少気まずい物が流れても、我々は共に夜明けを待ち、彼女はウヰスキーを傾けて、私は珈琲で少しずつサンドウヰッチを流し込みながら原稿を眺めた。珈琲グラスのかいた汗が滴となって原稿に滲む。

 日中の酒が切れるのか、はたまた別の理由があるのか、彼女と時を過ごすと、別れる頃には心は随分と穏やかになっていた。


 その日は何時もよりも、あの路地裏の店で長居したらしい。

 家の中は随分と片付いていて、留守中に福原がやってきていたのだと見えた。玄関口には女性ものの編上靴が置かれていて、憂鬱になりながら家に上がると、妻が鏡台の前に張り付いていた。私は妻の存在などないかのように振る舞い、酒を片手に居間で寝転んだが、妻もまた私のことなど見えていないかのようにそそくさと支度を進め、そして家を出ていって仕舞った。

 久方ぶりに日中に妻の姿を見たが、人が変わって仕舞ったようであった。深緑のドレスに身を包み、髪を括り上げてシャポウを被り、目元と唇そして爪にまで椛色の紅を差して、すっかりと西洋の装いであった。元が良家の出であったからそういう格好をすると節々に品が滲み、特に違和感もなく着こなしていたが、幾分か目つきが鋭く、それでいて艶やかに妖し気になっていた。

 妻の両親は伝統に縛られた堅物であったが、どういう訳か妻自身は無邪気で活発な娘であった。着物と草履で小器用に走り回っていた姿が印象深い。金が無くなってからも彼女の笑顔は変わらず幾分か助けられてきたが、若いながらに苦労を重ねるうち老け込むようになり、二十四にして目が窪み小皺が目立つようになった。それは私も同様であったのだが、妻の方は、男ができてからは肌に張りが戻り、寧ろ人を寄せ付けない美しさが出てきた。

 私は妻のことなど気にしまいとしていたが、そうもいかなかったらしい。彼女の店に向かうべく歩き出すまで、酒の棚にあった『あまり飲みすぎないでください』という福原の文字で書かれた貼り紙に気が付かないくらいには動揺していた様だ。

 だが、その日は何時も程、酒は減らなかった。

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