二話

 家に帰っても妻は戻っていなかった。

 本が売れなくなった頃、妻は働きに出た。金銭面においても家庭面においても、初めこそ献身的に私を支えてくれていたが、金が底を突き始めた頃になると殆ど家には帰ってこなくなった。後から聞いた話ではあるが、当時不安に駆られていた妻に手を差し伸べた者がいたらしい。彼はどうやら相当な金持ちで、伴侶はあったが私の妻の生活を援助し、そして妻はその身までも彼に委ねるようになっていった。

 今考えれば至極当然のことであったのだ。夫婦の営みどころか、なけなしの金を家に入れることすらしない干からびた呑んだくれより、寂しい時には胸も金も貸してくれる男の方が良いに決まっている。私が酒と路地裏の店に溺れている間、彼女はその男に縋ったというだけの話なのだ。妻が何をして家を空けているのか大凡(おおよそ)の検討はついていたが、それに対して問い詰める様な真似は決してしなかった。彼女に干渉し口喧嘩をする余裕など、当時の私にあるはずもなかったのだ。今にして思えば、少なくとも私に妻を責める資格などある筈もなく、寧ろ完全に縁を切られなかったという妻の泣け無しの期待感に気づき、相応の感謝をすべきであった。しかし私は男を作った妻に烏滸がましくも腹を立て、彼女と向き合うこともせずに路地裏の店に救いを求めた。そして妻もまた、それに気づきながらも干渉してくることはなかった。

 

路地裏の酒場という禁酒の地から解放され、家中を放浪し棚という棚を漁った結果出てきたのは飲み掛けの酒瓶が一本。一気に飲み干してしまうと何の役にも立たなくなった空き瓶を投げ付けて怒り狂った。あまりに腹が立ったが、金も無いのでそのまま眠ることにした。布団も敷かずに寝転んだが、隙間風に当てられてなかなか寝付けなかった。やっとの思いで意識がうつらうつらとしてきた頃、誰かが戸を叩く音が聞こえてきた。戸は数度叩かれては間隔を開けて又叩かれるを繰り返した。一度目は無視をし、二、三度目も無視をしたが、四度目ともなると流石に鬱陶しく感じ、重い体を起こして扉を開けた。目の前にいたのは福原であった。

 福原はとても変わっていた。私がまだ筆を取り始めて間も無い頃、同人誌の片隅にあった私の作品を見つけて出版社に誘ったのが彼である。売れなくなった後も何故か付き纏い続けており、さぞかし寂しい人間か、そうでなくとも心労の絶えない事であろうと思いきや、歳は私より六も上であるのに随分と若々しかった。奴は何時も、「すみません先生、お休み中でしたか」と頭を下げるのだが、私の了承も得ずに図々しく居間まで上がってきた。そして中身のない世間話……例えばその日見かけた紫陽花のことや、近所の定食屋がカツレツを始めてそれが美味かったという様な話を一人でしながら、せっせと部屋を片し始めるのだ。私は、奴のそういうお節介焼きなところが堪らなく気に入らなかった。当時の私には、紫陽花もカツレツも気にする余裕などなかったのだ。だから奴を突き放そうと、露骨に嫌がって見せたり強い言葉を浴びせ掛けたりもしたが、終ぞ私から離れていくことはなかった。

 ひとしきり部屋が片付くと、福原は寝転ぶ私の前に、先程のへらへらと話す姿からは到底想像もできないような真剣な面持ちで、姿勢を正して座る。これは奴の慣習のようなものであった。そして私を真っ直ぐと見据えて「先生、もう一度筆を取りましょう。先生自らご納得頂ける物が書き上がれば、私が直ぐにでも新聞に枠を取り付けて見せますから」と、言葉は多少違えど毎度こんな様なことを言った。当然私は背中を向けたまま振り向くことさえしないのだが、福原は物云わぬ背中に「また来ます」と告げて去っていくのであった。

 私は福原の、私を見つめる眼差しと言葉に腹が立って仕方がなかった。奴が私に筆を取るよう促す度に、どうしようもなく胸や腹が重たくなり、どす黒い何かが臓腑に絡まりつく。それは決して福原に向けた物ではないと解ってはいたが、大抵のきっかけを持ってくるのは奴であったため、行き場のなくなった感情は奴にぶつける他なかった。

 喉が潰れるほど叫んでみたり、拳が腫れ上がるほど床を殴りつけてみたり、血が出るほど身体をかき回してみたりもしたことはあったが、そんな形式ばった荒み方では気など収まりはしなかった。

 窓の外に目を向けると、辺りはもう暗い。妻が帰ってきてもおかしくない時分と見えてあのバーに向かうと、不思議と心は落ち着いていった。


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