一話

 彼女と出会ったあの日から、もう数十年になろうか。

 当時の私は売れない作家であった。それなりの家庭に生まれ育ち、人並み以上の教養を身につけて、周りに勧められるがまま、十八の時に筆を執った。仲間内で小さな同人誌を

作り発表すると、それがきっかけで出版社に入り、そこから五年間は書けば売れる生活が続いた。あちらに行けば大先生、こちらに行けば天才だと持て囃されて、若かった私は自身の才能に溺れていった。

良家の令嬢であった妻と、大恋愛の末に駆け落ち同然で結婚をしたのもこの頃である。順風満帆で非の打ち所のない幸せに包まれていたがそんなものは束の間の出来事で、次第に世間は私の書いたものを必要としなくなった。金がなくなって二年間は、妻も慣れない貧乏生活の中で懸命に尽くしてくれたが、徐々に私達の心は互いから離れていき、言葉を交わすこともなくなっていった。明日の食事さえもままならなくなり、それでも尚私が作家であることにしがみ付いたのは、私の中に確かに存在した成功体験に縋っていたからに他ならない。自分はものを書くために生まれた選ばれし人間であり、それ以外のことは何もできない憐れな天才であると信じていたかった。わずかばかりの金で酒を浴び、酔いに溺れて焦燥感を紛らわしていると、気が付いた頃には、妻の心は私の元から遠く離れていた。

 

 彼女と出会った日も、私は酷く酔い潰れていた。雨が地を打ち付ける様な荒れた空の日であったと、後になって聞いた。

 あの日のことはどうも記憶が朧げで、全て彼女から聞いた話となって仕舞うのだが、寒さに震えながらも身体を濡らす雨の冷たさに気が付けない程、私は正気ではなかったのだ。

 その時私は傷だらけになって、路地裏の、彼女の店の前をごみの様に放浪していたらしい。当時は酒のために手当たり次第金を集めていたから、恐らく借金取りにでも追われていたのであろう。彼女はそんな私を見かねて、客の捌けた朝方に介抱してくれた。「呂律も回らず意識が朦朧としていた貴方には随分と手を焼かされたものだわ」と、幾度となく聞かされてきた。

 彼女は私より十は上と思われて、派手な顔に似つかわしい、よく通る声をいつも店内に響かせていた。

 私はその後も数え切れない程彼女の世話になった。彼女は私が店に行く度に、店の残りの具材を挟んだサンドヰッチを振る舞ってくれた。それというのがとてつもなく絶品で、未だに忘れられず、サンドウイヰッチを置いている店とあらば飛んで食べに行くのだが、あれ以上の味に出会ったことは一度としてない。気が狂いそうなほどの空腹の中、愛情にまで飢えたあの時だからこそ味わえたものであったのだろうか。

 そして彼女を語るならば、やはりストレイトウヰスキーは外せない。

 彼女は客が居ても居なくても、陽が傾くと決まってグラスを仰いだ。今も記憶を辿りながら筆を執っているのだが、息を吸い込めばウヰスキーの匂いが鼻の奥をくすぐっているかの様に錯覚する程である。当時酒に溺れていた私は、その姿を見て、自分にも酒を寄越せと暴れまわったこともあったそうだが、それでも彼女は私に一口たりとも与えなかった。お陰で彼女の店にいる間だけは、少しばかりまともな人間の様に振る舞えていたと思う。

 この店は特別繁盛しているとは云い難かったが、かといって閑散としているわけでもなく、一晩に三、四人はちらりほらりとやってきていた。ある者は口も聞かず静かに呑み、ある者は語合いながら酌み交わした。店には、懐中時計を片手に髭を蓄えた紳士もあれば、未だ襤褸雑巾みたいな和服に身を包んでいる者もあったが、その多くは彼女を目当てにやって来ていた。種々雑多な客達の愚痴を通して様々な人生を垣間見れば少しは筆も進むであろうと、机の上に原稿用紙を広げることも少なくなかったが、大方の理由は彼女の手前で多少の格好を付けることであったため、家で書くのと差して変わりはしなかった。

 

 店に通い始めてひと月余りが経った頃、客が一時捌けた時に、彼女は私に書くのは好きかと尋ねたことがあった。それまでは碌に口も聞いたことがなかったので、私は大変驚き戸惑った。彼女からすれば、ひと月もの間、口も開かず金も払わずサンドヰッチを貪り食うだけの男に、何とかして見つけ出した会話の切り口であったのだろうが、私はこの問いかけに多少腹を立てた。こんなにも苦しい生活を送っているのに好きな訳があるか、無責任なことを口走るな、など様々な文句が出てきたが、要するに痛いところを突かれたのである。確かに売れて金があった頃は、美しいものを見た時思わず筆を取って仕舞う様な、そんなこともあったが、次第に自身が天才であるが為に何かに抗う様にして書いていた気がする。それを後ろめたく思う気持ちもあり、だからこそ彼女の質問には腹が立ったのだが、生来の気の弱さに加え、彼女の前で格好を付けたいという自尊心のお陰で、私はキザな言葉で答えをはぐらかすことしかできなかった。

「いや、他にできることを探すのが面倒だから書いてるだけさ」

「あら素敵ね」

「何故」

「書くことが、あなたにとってそれだけ大きな物だということでしょう」

「その結果が今の僕ならば、貴女の言う様な善い物ではない」

「でも私達は出会った」

 埒が開かないので、代わりにどうして私にこんなにも善くしてくれるのかを聞いた。

「残り物を捨ててしまうのが勿体無いからよ」

 白澄んだ空が晴れた頃、私達の夢は覚める。彼女は眠り、私は帰路に着いた。

 店を出るとまだ多くの者が眠りの中にいるようで、二、三人の老紳士がステッキ片手に歩いているだけであった。

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