第7話 緊張









 あれから半年が過ぎた。


 結果から言うと、俺はドイツで演奏することになった。


 もちろん、そこから現地の人とリモートで顔合わせや、日程の調整、滞在費用の捻出まで、数日に渡って打ち合わせをした。


 父さんと母さんは……かなり喜んでくれた。


 父さんと母さんも音楽をかじっているため、ベルリン・フィルハーモニーを知っていたらしい。

 

 まさか俺がそこで演奏するだなんて夢にも思っていなかったらしく、お祝いも盛大にしてくれた。


 期待に応えなきゃいけないというプレッシャーも感じつつ、俺は今ベルリン・フィルハーモニーにいた。


「ギンちゃんがこんな大きなホールで演奏するだなんて…………お母さん嬉しいわあ」


「しかも、テレビも来ているらしいぞ。日本やドイツ、あと他の国からも!」


 父さんが驚きに満ちた声でそう言う。


 そ、そんなに来るのか……。確かにメディアも来るとはこっちの人が言っていたけど、そんな何局も来るとは思わなかった。それに、メディアと言っても新聞ぐらいだと思っていたしな……


 驚いていると、前から足音がした。誰かと思っていると、その足音の主は俺に声をかける。


「やあギンジ。調子はどうかな?」


 低く、穏やかな声。ハンス先生だ。


「…………ま、まあまあです」


「ふむ……彼女がいなくて不安かね?」


 彼女って……今はつっこむ気にもなれないし、まあいいや。


 春は来ると言っていたが……まだ会っていない。元は一緒に来るはずだったが、母さんが飛行機のファーストクラスを取るとかいう余計なことをしたせいで、春は別々の便で来ることになった。


「春ちゃんも律儀よねえ。飛行機代くらいうちが出してもいいのに」


「全くだな。なんなら滞在費用もうちが持っていいぐらいだ。なにせ、ギンの応援に来てくれるのだからな」

 

 春はこの日のためにバイトをしていたらしく、旅費は持っているからいいと父さんの提案を断っていた。


 さすがにファーストクラスを取るとは思っていなかったらしく、普通のクラスに乗ろうとしたが普通のクラスが埋まってしまい、違う便で遅れて来ることになった。


「春の奴、1人で来てるんだろ? 大丈夫かな……」


「…………ふっ」


 父さんが俺の頭をわしゃわしゃと撫でる。


「や、やめろよっ、せっかく整えてもらったのに崩れるだろ!」


 そんなやり取りをしていた時だった。


 遠くから、春の声がした。



「お~い! ギ~ン!」


「は、春?」


「やっと見つけた! あ、そうだ。Ich danke Ihnen vielmals」


 ん、え?


 春がなにやら知らない言葉を言い、こちらに駆け寄ってくる。


「な、なにを言ったんだ?」


「ん? ああ、ここに住んでいる人に案内してもらったの。だからお礼を言ってた」


「お礼って……ドイツ語で? 話せたのか?」


「ふっ、これでも私、勉強はできるからね。この半年ずっとドイツ語を勉強していたし、こんなもんだよ。……まあ、基本的な会話だけだけどね。国際情勢とか、難しいことは話せない」


 いや、そこまで話せたらもうこの国住めるだろ。半年で現地の人と話せるって……すごいな。


 驚いていると、急に母さんが叫びだした。



「キャー! 春ちゃん可愛いー!!」


「え、ちょ、お母さん!?」


 たぶん抱き着いてるな。これは。


「おい母さん、なにしてんだよ」


「こんな綺麗な赤いドレスを着ちゃって、物凄く似合ってるわよ!」


「あ、ありがとうございます。でもに、似合ってるって……お母さん、目見えるんですか?」


「ふふっ、実は、この日のために特殊なメガネを発注したの。まあ元々見えていた時よりは見えないけど、大分見えるようになったわ」


「あ、その眼鏡ってそういう…………それってもしかして、ギンも見えるようになったりするんですか!?」


 おお、急に俺が出てきたな。


 春は期待するようにそう聞くけど、たぶんそれは無理だ。案の定、母さんは残念そうな声を出す。


「…………私の場合は後天で、完全に見えなくなったわけじゃないから……。でもギンは先天の上全盲で、いわば失陥なのよ。だから……この眼鏡じゃダメかなぁ」


「あ、そ、そうなんですか。すみません……。ギンもごめんね」


「謝ることはないのよ! 謝る所も可愛いーッ!!」


「ちょっ、お、お母さんっ」


「そうだぞ。それに、俺は目が見えなくても問題ない。生まれてからこれだしな」


 まあ、死ぬ前に見てみたいという思いは少しあるけどな。この先の技術の進歩に期待だ。


 …………はあ、春が来てくれてよかった。大分緊張も落ち着いた。


 ……うん? なんで春が来たからって緊張が落ち着くんだ? 春は演奏しないから、関係ないはずなのに……


 騒がしい我が家の前で、ハンス先生が咳払いをする。



「家族の邪魔をしちゃいけないね。ギンジ、ちゃんと時間は見ておくんだよ」


「は、はい。ありがとうございます。ハンス先生」


「うん、また後で会おうね」


 そう言ってハンス先生の足音は遠ざかっていった。






 





 


 ♢♢♢













 あれから1時間ほどたち、俺は控室にやってきていた。


 フカフカの椅子に座り込み、ぐったりとする。



「…………もう、ダメかもしれない……」


「ど、どうしたんだいギンジ?」


「……体が落ち着かないんです……先生」


 観客の声が、ざわめきが、俺の耳に入ってくる。


 聞くだけで分かる。どれだけの人が、俺を見るのか。


 今までにないほどのプレッシャーが、緊張が俺を襲う。


 上手く弾けるだろうか。もしも失敗したら、途中で楽譜を忘れてしまい、演奏が止まってしまったら……


 普段だったらありえないことだ。ただ、今は普段じゃない。


 走ってもいないのに息切れがする。



 ここで失敗したら、招待してくれた人だけじゃなくハンス先生にも迷惑がかかる。


 そうなったら、父さんと母さんはどう思うだろうか。春は、どう思うだろうか。


 どうしようもない思いに囚われていると、ハンス先生が静かに語りだした。



「…………前にも言ったね、ギン。人は誰でも、この世界に影響を与えているって」


 あの授業か……よく覚えている。


「君の今の仕草、行動も、世界に影響を与えているんだ。そして、これからやる君の演奏も、この世界に影響を与えるだろう。それが大きなものか、小さなものか。それはまだ、誰にも分らない」


「…………」


「ただね、私はこう思うんだ。まだ若く、可能性に満ち溢れた君が…………。全盲という他の人とは違う環境にあっても、努力し続けてきた君が…………。そんな君が、このベルリン・フィルハーモニーという大舞台で演奏する。その演奏は、この世界にきっと、大きな影響を与えるに違いない、とね」


「…………先生……」


「少し待っていなさい。よく効く薬を持ってこよう」


 先生が部屋から出ていき、俺は椅子に座りながら体を丸める。


 だいぶ、緊張は解けたと思う。


 先生はやっぱりすごい。俺の緊張を和らげてくれるだけでなく、勇気付けてくれる。


 俺が改めて、先生を尊敬している時だった。



「ギンっ! 大丈夫!?」


 突然、春の声がこの部屋に響いた。


「な、は、春!? なんでここに!?」


「ハンス先生に言われたの! ”ギンジが死にかけてる”って!」


「…………はは、なんだそれ」


 まあ確かに、死にかけてはいたかもな。てか、薬って春のことか?


 そう思っていると、春が俺の震えた両手を握ってくる。


「緊張、してるの?」


「……ああ。情けないよ、ほんと」


 これだけ家族から、みんなから期待されているのに、俺は震えている。


 春にだけはこんな姿、見てもらいたくなかったな……


 すると、春が俺を抱きしめてきた。


「――え? は、春?」


「ギンはなんで、ピアノを弾いてるの?」


 なんで? なんでって――なんでだっけ?


 確か、俺がまだ小さい頃、母さんがピアノの音を鳴らしてたんだ。


 それを聞いていたら母さんが俺に弾かせてくれて…………。鍵盤を押したら、音が出る。その隣を押したら、違う音が出る。それがなんだか楽しくて……

 

 ああ、そうだ。俺は、楽しいからピアノを弾いていたんだ。



「楽しいから」


「うん。ギンはピアノを弾く前も、弾くときも、ずっと楽しそうにしていた。でも今は、全然楽しそうじゃない」


 すると、俺のおでこに春のおでこが当たる。春のおでこはやけに、熱かった。


「ただ、ピアノを弾くだけだよ。いつも通りに、楽しく。みんな、ギンがピアノを楽しんでいる姿を見たいから、こんなに集まったんだよ」


「…………春」


「私はギンがピアノを楽しく弾いている姿が好き。そんなギンと一緒に演奏をするのが好き。だからさ、ギン。楽しもうよ」


 やがて、ホールいっぱいに響くドイツ語が聞こえてくる。もうすぐだ。


「ギンジ、もうすぐだよ」


 ハンス先生もそう言った。


 俺は春をゆっくり体から離す。



「ありがとう、春。俺、楽しんでくるよ」


「……っ! うん、楽しんで!」


「ああ」



 震えはもう、収まっていた。


 いつも通り、楽しもう。



 俺はそう思って、案内の人に引かれつつ舞台へと上がっていった。




















 

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