第4話 先生
「失礼しますっ!」
春が叫びながら教室の中に入る。
席へと手を引かれていると、穏やかな声がした。
「遅刻だぞハル。もっと時間にユトリを持たないと」
そう、春は一コマ目の授業を担当している先生に注意される。
「す、すみません」
日本人であれば、なんとなく違和感を持つようなカタコトな日本語。
この先生は音楽の本場・ドイツから来た、ハンス・ヴァーグナー先生だ。
音楽の歴史を主に教えていて、西洋音楽史からピアノ音楽史、管弦音楽史など、中高生で習うものをもっと細分化して教わっている。
席に着き、俺はジョンにお座りをさせる。
「ハンス先生ってほんと、ギンに甘々だよね。2人で遅刻してるのに、毎回私にだけ注意してさ」
「いや、俺が遅刻している原因のほとんどがお前だからだろ」
「今日は公平のせいじゃん」
「お前が米を侮辱しなければ遅刻しなかったろ」
「侮辱はしてない――」
「こらハル、静かにしなさい」
「……くっ」
春が不満気な声を漏らす。俺は呆れていると、前からこちらに向かってくる足音がした。
「ギンジ、これ今日のやつね」
「いつもありがとうございます」
「うん、どういたしまして」
ハンス先生から渡されたのは、一冊の本のようなものだった。
これは今日授業で教わる内容を点字でまとめたもので、なんとハンス先生の手作りだ。
頑張って動画を見ながら作ったらしく、俺は毎度この本に助けられている。
ハンス先生が教壇へ戻り、黒板に文字を書く。
カッカカカッ
その音と同時に俺は本を開き、指で一番上の部分をなぞった。
今日は……ピアノ音楽史か。
音大と言っても座学がほとんどだ。もちろん楽器なんかも使うが、この大学は座学が圧倒的に多い。
「今日はピアノ音楽史だ。みんな、バッハやベートーヴェン、シューマンは知っているね? 今日はそんな彼らが紡ぎあげてきた、いわば”ピアノの物語”だ。どんな人、どんな物にも物語がある。ピアノはそんな物語の中でも、数えきれないほどの人達が紡ぎあげている稀有な物語だ。ここにいる人のほとんどはピアノが弾けるよね。そんな君達だって、この物語を紡ぐ一員となっているんだよ。自分にそんな自覚はなくとも、ね」
俺はそんなハンス先生の言葉を聞きながら、本に打たれた文字をなぞっていく。
”ギンジはどう物語を築きたい? ピアノに限った話じゃない。君の人生の物語もだ。どんな人間も、大きかれ少なかれ、この世界に影響を与えている。君の人生は、世界にどんな影響を与えたい?”
時々ハンス先生は、この本を通して俺に語りかけてくる。
ちょっとおちゃめなジョークだったり、ユーモア溢れる言葉だったり。
時々一人でにやけてしまい、春にキモイと言われてしまうほどだ。
一通りなぞって読んでいくと、途中の文に俺は引っかかる。
”話がある。後で私の下に来なさい。ああ、君の彼女を連れてきてもいいよ”
彼女って……やっぱり先生はおちゃめだな。
俺は先生の話を聞きつつ、本の内容を再度なぞっていった。
♢♢♢
「じゃあ音楽の父、バッハが作曲した中でも有名な、『平均律クラヴィーラ』の第一巻一番をCDで流してみよう」
ハンス先生がカバンの中を漁る音がする。
ガチャ、ガチャガチャ
…………いや、物ありすぎだろ。見えなくても分かるわ。
「しまった、家に忘れてきちゃったよ」
そう言うと、ハンス先生は声を一段階大きくして皆に尋ねた。
「誰か、この曲を弾ける人はいないかい?」
すると、春が肘で俺を突っついてくる。
「ギン弾けるでしょ? この前弾いてたじゃん」
「いやそうだけど……」
さすがに皆の前で弾くのは気が引けるというか恥ずかしいというか……
もちろんピアニストというのは人に見てもらってなんぼなのだろうが、やっぱり大勢の人の前で弾くのは恥ずかしい。
そんなことを思っていると、ハンス先生が俺を指名してきた。
「おお、ギンジはこの曲弾けるんだね。じゃあ弾いてみてくれよ」
マジか。今の聞こえていたのか。春も俺も小声で喋っていたのに、さすが音楽プロ。耳の鋭さも一流だな。
「…………分かりました」
すると先生が俺のそばへと近寄ってきて、手を引く。
俺は引かれるがまま歩いていくと、ピアノの鍵盤に手を当てられた。
ピアノの位置を確認し、椅子に座る。
するとハンス先生に肩を二回優しく叩かれた。いつでも弾いていいという合図だ。
俺は息を吸って、吐いた後、流れるようにピアノを弾いた。
やっぱりピアノはいい。
この鍵盤を押す感触。押せば音が鳴るという単純で明確な動作。
そして、そんな単純な動作にある深い奥深さ。
ピアノは俺を、別の世界へと引き込んでくれる。
2分弱の曲を弾き終えると、盛大な拍手が起こった。
先生も拍手をしながら、俺を称賛する。
「素晴らしかったよギンジ」
「ありがとうございます」
「じゃあハル、君の彼氏を迎えに来てくれ」
「……っ、もう!」
すると教室が笑いに包まれ、春がカツカツと俺の方に向かってきた。
そして強引に手を引かれる。
「お、おい痛いって」
「あ、ご、ごめん」
席へと戻り、腰を下ろす。
するとちょうどそのタイミングでチャイムが鳴った。
「ああ、もう終わってしまったね。じゃあ今日はここまでにしよう」
ハンス先生の言葉に、皆それぞれのタイミングで教室を出て行った。
俺はジョンと春を連れて、ハンス先生の下へと向かう。
「先生、それで話したいことってなんですか?」
そう聞くと、ハンス先生は真剣な声でこう尋ねてきた。
「…………ギンジ。君、ドイツのベルリン・フィルハーモニーホールで演奏をしてみないかい?」
「…………え?」
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