特別講師 西野圭子

「天神教授が言ってた特別講師って誰だろうね?」


 優美は梨子の隣に座ると、そう話しかけた。


「さあ、講義をまともに聞いてない私には分からないよ。」

「聞いときなさいよ。せっかく皆勤賞で出席してるんだからさあ。」

「……と言ってもなあ……。


 もし、西野圭子が講義してくれるなら真剣に話を聞くのになあ。」


 梨子は冗談めかしてそう言った。


「なんで、小説家が大学で経済の講義するのよ?」

「例え話よ、例え話。」


 梨子は冗談めかして笑うと、講義室に天神教授が入って来る。天神教授は荷物を置いて、マイクを持ち、話始めた。


「……ええ、今回の講義は、前回言っていた通り、特別講師をお迎えします。」


 天神教授はそう言うと、講義室の外に向かって、どうぞと声をかけた。


 すると、講義室にその特別講師が入って来る。梨子はその特別講師を見るや否や、目を見開いて驚く。


「ええ、小説家として有名な西野圭子さんです。」


 目の前に現れた実在の西野圭子の顔は、本の作者紹介欄に貼りつけられている顔写真よりもきれいだった。ピアノ線で吊り下げられているかのようにピンと張った背筋から強調される恵まれた美貌は、小説家だけを生業とするにはもったいないほどだった。


「もう、冴利ったら!


 かしこまらなくっても、圭子でいいのに!」


 そう微笑む彼女の笑顔は無邪気で、可愛らしかった。同性である梨子ですら、少し心ときめくものがあった。これが、小説家のカリスマ性というものだろうか?


 初対面の受講生は、彼女の笑顔に心動かされているが、教授は見慣れたものであるかのように、自然な笑顔で笑い返す。


「一応、講義中だから最初だけかしこまっただけだよ。


 ……ああ、一応、説明しておくと、私と圭子は同級生で、この大学の同じ研究室を出たんだ。


 もう、年収は大学教授の何百倍ももらっているだろうな。」

「そんなにもらってないわ。


 せいぜい、50倍程度よ。」


 梨子はすぐに、ポケットに入れてあるスマホで、大学教授の平均年収を検索する。


 ……すごい。


 金額を50倍した梨子はそう心で呟いた。


「そんなことはさておき、今回は私のゲーム理論はさておき、圭子大先生のお話を聞く会としましょう。」


 圭子は教授が発した大先生という言葉にクスリと笑みをこぼした。教授はマイクを圭子に渡すと、教卓の場所を譲った。


 圭子は渡されたマイクに指をトントンつついてマイクチェックをし、咳払いをして話始めた。


「ええ、冴利と違って、経済学から逃げおおせたしがない小説家こと西野圭子です。


 正直、私はゲーム理論と聞いて、そんなもの大学時代習ったかな?とおもってしまうほど、この大学で経済を習った記憶が遥か彼方へと飛び去っているわけです。


 そうと言うのも、私は親の支援がなく、学費を自ら稼がねばならないために、来る日も来る日もアルバイトに明け暮れていたことが大きかったでしょう。


 上手いこと、留年にならないギリギリを責めて、卒業要件ギリギリで卒業しました。


 その時、冴利にも出席の代理を頼んだり、過去問を借りたりしました。


 その節はありがとうございました。と今改めて礼を言いたいと思います。」


 圭子は教授に向かって、頭を下げた。教授はニコリと顔に笑みを浮かべた。


「ええ、なので、その恩もあって、今回の特別講師の依頼を断ることができなかった訳です。


 なので、恩をなるだけ返せるように、有意義な講義にしたいわけですが、私はフィクション作家であるために、ノンフィクションの話は得意ではないのです。


 ……ですが、1つだけ自信のあるノンフィクションがあります。


 そのノンフィクションを題材として、私の処女作である【底抜けの壺】は描かれ、いきなりのミリオンセラーを記録しました。」


 梨子は【底抜けの壺】の言葉を聞いた時、1週間前に読み切ったために、彼女に心を覗かれているようで驚いた。


「皆さんも題名くらいは聞いたことがあるかもしれません。映画により映像化され、これもまた大ヒットしました。


 自分で言うのも恥ずかしいですが、社会現象になったと言ってもいいと自負しています。


 そんな底抜けの壺ですが、実は、マリーは私自身、ジェームスは私の弟をモチーフをしています。


 かと言っても、私には、難破した豪華客船に乗っていた過去も、宝島に漂着した過去もございません。


 しかし、私と弟が過ごした日々は、底抜けの壺に記した通りのものでした。


 小説の通り、無人島のような極限の空間で、2人で協力して暮らしていました。」


 圭子はそこで1つ深呼吸をし、少し間を置いた。


「私の父親は、ある会社の社長でした。


 何をしているかは知りませんでしたが、かなりお金を持っていたようで、中庭のあるとても広い一軒家に住んでいました。


 そこでは、私の欲しいものはすべて買ってもらいましたし、もちろん、食べるものに困ったことはありませんでした。


 ですが、私が10歳の時、その豊かな生活は終わりました。


 父親の会社が倒産したんです。


 その上、父親は莫大な借金を残し、1人だけで蒸発しました。


 結局、破産することで何とかすることは出来ましたが、稼ぎ頭の父親がいない私達は、もちろん豪邸を手放し、その家の自分の家ほどの大きさしかないアパートの一室に引っ越すことにになりました。


 母親は、私達を養うために、新しく仕事を始めました。昼は清掃、夜は水商売、絵に描いたような貧乏生活の出来上がりです。


 このような貧乏家庭で付きものなのは、忙しさで壊れてしまう母親で、例にも漏れず、私の場合もそうでした。


 母親はいつもは私と弟の2人分の食事を料理していたのですが、それは段々、菓子パンや賞味期限切れの弁当になりました。さらに、母親が家自体にも帰ってくることも少なくなりました。


 あの時、母親は私達のことが嫌いなんだと思いました。


 直接手を上げることはなかったですが、食料を減らすことで、間接的にじわりじわりといじめていきました。


 そんな日々が続くと、案の定、弟は痩せていきました。


 顔は頬骨が出るようになり、背中を触ると、あばら骨のごつごつした感触が皮膚越しに伝わるだけで、肉や脂肪と言ったものを感じることはありませんでした。


 そして、弟は動き回る体力がないのか、一日中、布団で寝たままでいることが多くなりました。


 私はいつか、弟が一生動かなくなるのではないかと思いました。

 

 それでも、私にはどうしようもありませんでした。


 何もすることができないまま、骸骨の様になっていく弟を見守ることしかできませんでした。


 しかし、このまま弟を死なせてしまうのは惜しいと思うようになりました。


 せめて、弟の最後には、幸せだったと感じてもらいたかった。


 だから、私は宝探しゲームと言って、狭い部屋の中に小さなおもちゃを隠す遊びを始めました。


 寝たきりの弟は宝探しの時は喜んで探してくれました。その時ばかりは、弟の笑顔を見ることができました。


 確かに、体力のない弟にそのように動かすことは、駄目だと考える人もいるかもしれません。


 しかし、弟の笑顔を見ると、このまま寝たきりのまま死んでしまうより、このまま笑顔のまま死ぬ方がいいと思いました。


 少し歪んだ感情かもしれませんが、私にはそのようなことを本気で信じるほど、極限状態であったと思います。


 そして、弟は死にました。


 宝探しの途中、弟は操り人形の糸が切られたかのように、倒れ込みました。私は倒れた弟に駆け寄り、弟の体を持ち上げましたが、私が想像するより、弟の体重は軽くなっていました。


 中身に綿が詰まっているのかと思うほど、軽かった。


 私は今でも、その手に残った弟の軽さと弟の少しほほ笑んだ死に顔を忘れることができません。




 そして、弟が死んでから3日後に帰ってきた母親は弟の亡骸を見るなり、静かに警察へと通報しました。


 それから、私は児童養護施設に預けられました。その施設で、母親が逮捕されたというニュースを聞きました。


 私はそれから、ずっと施設で暮らしました。


 私は勉強はできた方なので、高校にも、そして、この大学にも進学することができました。


 そして、大学在学中、バイトに明け暮れていると、段々と母親の辛さを理解するようになりました。


 周りの皆は、親の支援があって、自堕落に大学で友達作りやサークルで自分を消費している。


 そんな中、私は空虚な金を稼ぐために、弟を犠牲にした自分を消費している。


 そんなことを感じた時、私は【底抜けの壺】を書いていました。


 あの時を少しずつ思い出しながら、弟を忘れないように、ただあの日々を書き留めました。


 そして、その作品は先ほど説明した通り、大ヒットとなりました。


 その作品で稼いだ大金が自分の下に入って来ると、私は思いました。


 天国の弟は、私をどう見ているのだろうか?」


 西野圭子はそう言うと、話をやめた。


 講義室には、重く、悲しい空気が支配していた。

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