第7話

 ある夜、レッスンから帰ってきたばかりの涼香を、春は少し強引にレンタルスタジオに連れ込んだ。



「俺やりたい曲があるんだけど、それヴァイオリン二本の楽譜なんだよね。ちょっと練習付き合ってくれない?」



 音楽への恐怖心は、音楽で癒す。

 あまりに荒っぽい方法ではあるが、今の春にはそれができるだけの自信と技量が備わっていた。



「……私が、ですか」

「そうだよ。だって聴かせてくれるんでしょ、機会があれば」



 そう口にした途端、わかりやすく歪んだ涼香の表情。春の方もその様子を見て少し不安になる。しかしここで引き下がるわけにはいかない。

 春はただ、涼香に思い出してほしかった。音楽の楽しさ、誰かと弾き合うことの尊さ。そして、彼女の演奏が何よりも自由だからこそできる、明るい世界を作り上げていくあの感覚を。

 有無を言わさず、進めていく準備。やがて涼香が困ったように唇を噛んだ。



「……あの、春さん、やっぱり私はちょっと、」

「涼香ちゃん」



 彼女の言葉を、春の力強い呼び声が遮る。

 今の君の音が聴きたい、どうしても。



「誰でもいいんじゃなくて、涼香ちゃんに弾いてほしいんだよ、本気で」



 少しずつ後ずさっていた涼香の瞳が、春のその言葉で小さく見開かれる。

 嘘でも誇張でもない、彼女の音楽こそが春の全てだった。




 少し緊迫した沈黙を乗り越えたふたり。やがて楽器を取り出し、春の隣でそっと構えた涼香。ずっと望んできたこの展開、春はたった今自分の中を駆け巡った熱い感情につられて、いつかのように自分が微笑んでいることに気が付く。



 やっと、ここまで追いついた。

 君のすぐ隣まで来られた。



 そっと彼女の弓が、弦に触れる。その一瞬の動きでさえもため息が溢れそうなほど繊細で、待ち遠しかった。今にも泣き出しそうな涼香を、自分が必ずこちらへ連れ戻す。そんな強い意志と共に、春はゆっくりと呼吸を合わせ、始まりの合図を送った。

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