第6話
春はその日から、毎週レッスン後の涼香と会うようになった。
夜な夜な顔を合わせるふたり。しかし涼香は遠い記憶とは全く別人のような顔で、極力ヴァイオリンの話を避けているように見える。その姿を、幼かった自分と重ねた春。
楽器を弾くのが楽しくない。足掻いても足掻いても、満足できない。そんな時期が春にもあった。
音楽を目一杯に楽しむ彼女はもういない。春はそう悟りながらも、あの日の涼香の音楽が忘れられずに、諦めきれずにいた。
あの演奏が、自分に未来を与えてくれたから。
「……今日も、いっぱい弾いたんだね」
「……」
夜闇の真ん中、となりを歩く彼女の指先を見つけ、言わずにはいられなかった。一生懸命に弾き尽くした、そんな痕が見える左手の細い指たち。
「涼香ちゃんの指が、たくさん弾きました〜って言ってる」
「……カッコ悪いです、私」
「全然。そんな風に思う人がどこにいるの」
春の隣で、彼女が俯く。あっという間にコートの袖に隠されてしまった指先には、秘めようがないほどの努力が滲んでいる。疲労に飲み込まれた表情で、ぎゅっと握られた手のひら。
心が痛いほどに締め付けられる。何が君の芽を摘んでしまったのかわからないけど、またあの日のように笑って弾く姿が見たい。俺に未来をくれた君の演奏をまた聴きたい。どうしたら、戻ってきてくれるのかな。
「充分だよもう。たくさん練習したの、俺にはわかる」
「……」
「いつか聴かせてくれる?そのヴァイオリンの音」
彼女がすっかり音楽に光を見出せなくなっているであろうことは、春にもなんとなくわかっていた。しかし問わずにはいられなかった。やっと貫井涼香を見つけたのに、そんなに簡単に諦めたくなかった。
だって、あまりにも悲しいじゃないか。あんなに音楽とひとつだった彼女が、誰よりも音楽を楽しんでいた彼女が、それと向き合えずにいるなんて。
「……じゃあ、機会があれば」
小さく頼りなさげな声で返ってきた返事。はっきりと断らなかったのは、音楽への未練からか彼女の優しさか。春の頭が、音を立てて回転し始める。彼女の音楽を取り戻したい、自分のために。彼女のために。
俺が今、彼女にできることはなんだろう。
必死に考える。となりを歩きながら、涼香が自分に与えてくれた確かな夢をもう一度見つめ直す。
……あの時の俺は、確か。
「……ふふ、うん、楽しみ」
その時、とある答えに辿り着き、不意に溢れた微笑み。涼香は何も応えずに、ただひたすらに足を動かす。少し荒療治になるかもしれない、しかし今の春にはこの答え以外は思いつかなかった。
肩を並べて歩くふたりを、月が見守る。
今の春が涼香のためにできること。それは、ただひとつだった。
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