第5話

 闇に潤んだ視線が彷徨う。

 思わず声をかけてしまった春だが、相手は春のことを知らないはずだった。ただ同じガイダンスを受けただけで、話をしたこともない。それなのに一方的に知っているという事実を悟られたくもない。しかし、今夜このまま彼女を放っておくわけにもいかなかった。



 彼女が目元を乱暴に擦る。その時、背中に背負われた赤いヴァイオリンケースが春の目に入った。



「……あ、ヴァイオリン弾くの?」

「え……これは、」

「弾くんだね、俺も弾くよ。今大学生なんだけど、大学の部活でやってる」



 彼女は返事をしない。やはり同じ大学とはいえ、春のことを知っている訳ではなさそうだ。

 小さな共通点を見つけ、じんわりと春の中に嬉しさが灯る。そしてまた一段と、鼓動が速くなる。



 ほら、やっぱり俺、この子のこと知ってる。



「どうして泣いてるの」

「……ちょっと……いろいろとうまくいかなくて」

「そうだったんだ、それで泣きたくなっちゃった?」

「……はい、そんな感じです」



 震える声で呟いた後、短く彼女が鼻を啜る。合わなくなった視線、春はガラス玉を扱うように慎重に言葉を選んで声をかける。高鳴った鼓動はそのままに、少しずつ明るくなっていく記憶。

 泣きじゃくる彼女に、確かに見覚えがある。



「ん〜そうか。そういう気持ち、なんとなくわかる気がする。でもこんな時間まで、頑張って弾いたね」

「……」

「……名前、教えてくれる?」



 満月だけが輝く夜の片隅、うるさく暴れる心臓を抱えつつ、ついに春は勇気を振り絞って彼女に問う。やっと見つけた彼女を逃したくない。はやる気持ちに、手のひらが汗をかく。

 今はもう、あの日のような希望に溢れた表情は失われているが、春は彼女が名乗る前からどこか確信していた。



「……貫井涼香です」

「涼香ちゃん、俺は大和田春。よろしく」



 この子があの、貫井涼香だと。

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