木曜日 変な木

「いらっしゃい! 外、暑かったでしょう」

 学校終わり。ヒロトくんの家に遊びに行ったら、ヒロトくんのお母さんが出迎えてくれた。

「おじゃまします」

 僕は軽く頭を下げて、家から持ってきたお菓子を差し出した。

「あら、ありがとう。……ヒロト! 何してるの! 早くおいで!」

 ヒロトくんのお母さんが二階に向って言うと「今、手が離せないから、二階に来てくれ!」という声が響いた。

「……ごめんね。折角来てくれたのに」

「いえ、いつものことですから」

「あとでお菓子持って行くから、待っててね」

「はい。ありがとうございます」

 軽く頭を下げて、階段を上る。そして右手に曲り、

「ヒロトくん、来たよ!」

「おう、良く来たな! ちょっと待っててくれ。コイツが、あと少しで……」

 ヒロトくんは何かゲームをしていた。テレビの画面には、大きなドラゴンが映っており、ヒロトくんが操作しているキャラクターが、これまた大きな剣でそのドラゴンを攻撃している。

「そいつ、強いの?」

「いや、別に強くはない。けど、しぶとい」

「ふうん」

 ヒロトくんの言う通り、そのドラゴンは中々倒れなかった。すでにボロボロであるにも関わらず、何度攻撃してもすぐに起き上がるのだった。

「あ、あと、もう少し……!」

 僕はぼんやりとその画面を見つめた。僕の持っていないゲームだったので、見ているだけで新鮮で、特に退屈というわけでもなかった。

 その時だった。

「こら、ヒロト。折角友達が来てるのに、一人で遊んでんじゃねえぞ」

 引き戸が開いて、隣の部屋から人が入って来た。

「あ、ユキオさん。こんにちは」

「おう、こんにちは」

 ユキオさんは、ヒロトくんのお兄ちゃんだ。こうして家に居る時は、一緒に遊んでくれるのだ。

「ユキオさん、今日大学は?」

 思わず尋ねる。ユキオさんは大学生である。大学やサークルがある日は、家にいないのだ。

「今日は午前で終わり。サークルもなんか怠くてな」

「お兄ちゃん、木曜日は暇なんだってさ」

 ヒロトくんが気怠そうに言うと、ユキオさんは不服そうな顔をした。

「ばか、お前。こう見えても俺は結構忙しいんだぞ。バイトに、サークルに……あと、課題も少しある」

「忙しいのはバイトとサークルじゃんか」

 ヒロトくんの指摘に、ユキオさんは何も言い返せないようで、ただただ苦い顔をしていた。その時、部屋のドアが開いて、ヒロトくんのお母さんがお菓子とジュースを持ってきてくれた。

 そして先ほどまでの会話を聞いていたのか、ユキオさんを見てニヤリと笑った。

「昨日なんて、お昼過ぎまで寝てたんだから。少しはキチンとして欲しいわ」

 ユキオさんは「わかってるよ……」とがっくりと項垂れてしまった。僕はそんなやりとりを聞いて、くすりと笑った。

「凄い。大学生って本当に暇なんだ」

「こんなに怠けてるのはユキオくらいよ。他の人はもっとちゃんと、英語とか資格とかの勉強してるんだから」

「そんなの誰もしてねえよ。みんなこんな感じだってば」

「本当? ほらこの前、お友達が宿題に追われて徹夜したって言ってたじゃない」

「そりゃ、アイツは理系だからだよ。実験とかあるから、忙しいんだと」

 その言葉に、思わず首を傾げる。

「理系は忙しいの?」

「そら、忙しいだろ。授業もぎっちり入っているらしいしな。実験レポートも毎週提出しなきゃなんだってさ」

「そうなの? バイトとかは?」

「ん? まあ、バイトはできるんじゃないか? というか、俺の知り合いのほとんどがバイトしてるぜ。家庭教師とか」

「そうなんだ」

 僕は少し安心した。千夏さんは理系の大学生だ。それなのにバイトをしているので、もしかして本当は凄く忙しいんじゃないかと心配してしまった。けれど、ユキオさんの話を聞く限り、そこまで忙しいわけじゃなさそうだ。

「それに、学期によっても変わるんだよ。とある学期だと、授業がある日が一週間に一日だけになるんだってさ。まあそれは、今まで単位をちゃんと取ってきた三年生だけらしいけど」

 一週間に一日だけ? 僕は思わず目を見開いた。そんなの、ほとんど毎日が休みみたいなものじゃないか!

 しかし、少し気になることもある。

「単位って何?」

「ん? ああ、単位っていうのは、なんていうのかな……」

 ユキオさんは頭を捻って

「そうだな……。大学は小学校と違って、テストの点が低いと進級できないんだよ」

「え! そうなの?」

「うん。で、授業ごとに単位っていうのがあって、テストで良い点取れたら、単位が貰えるんだ。それで、進級するのに必要な単位の数っていうのが決まってて、それを超えるように授業を選んで、単位を集めるんだよ」

「そっか、自分で選ぶんだ……」

 そういえばこの間、千夏さんもそんなことを言っていた気がする。時間割を自分で決めるなんて、なんだか難しそうだ。それに、テストの点が低いと進級できないなんて、僕は大学生にはなれないかもしれない。

 まだ小学生なのに、僕はなんだか不安になってしまった。すると、ヒロトくんが横目にニヤリと笑った。

「心配しなくても大丈夫だぜ。お兄ちゃんはすっげーバカな上に、勉強せずにバイトとサークルだけしてるのに、進級できてるから」

 そしてヒロトくんのお母さんもニヤリと笑った。

「そうよ。ずっとごろごろしてるくせにもう二年生なんだから」

 それを聞いて、僕の不安は少し紛れた。と同時に、僕は感心した。大学は、進級ができるかどうかがテストで決まる。そのテストに合格できるなんて、なんだかんだしっかりと勉強していたのだろう。

「すごいね、ユキオさん」

 ヒロトくんと、ヒロトくんのお母さんは「ユキオさんは怠け者」と言っているけれど、ユキオさんは勉強を頑張っているのだ。

 と、思ったのだけれど。

「違うぜ。兄ちゃんはな、過去問を使っただけだよ」

 とヒロトくんは言った。

「過去問?」

「ああ。過去問っていうのは、去年とか一昨年のテスト問題のことだよ。大学のテストは使い回されることが多いから、前年度の問題がそのまま出ることもあるんだってさ。兄ちゃんはな、先輩から問題を貰って、テストの内容を前もって把握していたんだ。しかも、答えつき!」

「つまり……?」

「つまり、カンニングと一緒だな」

 僕は唖然とした。がっかり!

「兄ちゃんはバカだけど進級できてるって言っただろ。兄ちゃんはな、問題を把握したり、宿題を写したり……とにかく、そういうズルばっかりして進級してんの」

「……」

 呆れて何も言えなかった。少しでも感心した自分がバカみたいだ。

「兄ちゃん、明日の一時間目にもテストがあるらしいけど、それも全部ズルだもんな」

「……お、おいおい。ズルとは失敬な。これはな、生存戦略なんだぞ。金曜一限の講義なんて、毎週起きているだけで精一杯。眠くて何もわからないんだから。みんなそうやって進級してんの」

「ふうん」

 言い訳をするユキオさんを見ながら、僕は呆れていた。大学生、なんて怠惰なんだ!

 僕とヒロトくんの冷たい目線を受けながら、ユキオさんは弱々しく笑った。

「少年達よ。これは仕方がないんだ……。もう勉強じゃなくて進級が目的になってしまうのだよ……。君達もいつか理解するはずだ。大学生の授業は長く、退屈で、難しい。本当に、何言ってるのかわからないんだ……」

 そのぼやきに、ヒロトくんのお母さんは「学費返してほしいわ」と深くため息を吐き、僕は思わず笑った。


 その後、ヒロトくんとユキオさんと遊んで、午後五時半。

「じゃあ、今日は帰るよ」

 僕は立ち上がった。

「え、早くないか? 門限は七時のはずだろ?」

「うん。でも、ちょっとだけ用事があって」

「なんだよ。つまんねー」

 ヒロトくんが不満そうな顔をすると、ユキオさんが苦笑した。

「こら、用事の間を縫って来てくれたのに、そんなこと言うなって」

「まあ、しょうがねえか」

「ごめんね、ヒロトくん。また今度遊ぼうね」

 僕はヒロトくんのお母さんが出してくれたオレンジジュースをぐびりと飲み干し、家を後にした。

「じゃあね」

「おう。また明日な」

 ヒロトくんと、ユキオさんと、そのお母さんにお礼をして、家を出る。外はまだ明るく、セミも鳴いていた。もう五時だけど、まだ夕方の気配すらしない。

 僕は歩き出した。

 今日は用事がある。

 それは、千夏お姉さんと会う約束だ。

 会って見せたいものがあるのだ。

 徒歩で目的地へ向かう。ここから歩いて十分もかからない山の麓で、待ち合わせている。そして、道路脇のベンチに、見覚えのある人影が一つ。

「千夏さん!」

 手を振って駆け寄る。と、お姉さんも気づいて小さく手を振った。

「ごめん、待った?」

「ううん。バイトが少し長引いちゃって、今来たとこだから大丈夫だよ」

 お姉さんは読んでいた小説を閉じて、立ち上がった。

「それで、今日はどんな謎が待っているのかな」

「うん。この山の上に謎があるよ」

 僕は山の上を指した。そう。お姉さんに見せたいものは、この山の上にある。そして、それに関する謎を解いて欲しいと言って、お姉さんに来てもらったのだ。

 千夏さんは木曜日、科学館のバイトがある。バイト終わりで疲れているのに申し訳ないけれど、それでも見て欲しいものが山の上にあるのだ。

「ふうん。山の上ね。じゃ、早速行こうか」

「うん。僕が案内するから着いてきて」

 まだ明るいけれど、ゆっくりしていると日が暮れてしまう。ここで話している時間は無いだろう。僕達は山に入った。

 山と言っても、山道は整備されていて、安全に歩けるようになっている。それに、僕達が目指している場所は、そこまで高い場所でも、深い場所でもない。三十分も歩けば着くだろう。

 蝉時雨の降り注ぐ山中を歩く。やはり山はセミが多いらしく、少しうるさいくらいだ。

「凄い鳴き声」

 お姉さんも少し驚いた様子で、木々をぐるりと見回した。

「夕方になると、やっぱりヒグラシが増えるね」

 お姉さんはそう言って微笑んだけれど、僕は聞き覚えのない言葉に首を傾げる。

「ヒグラシって?」

「セミの一種だよ。ミンミンゼミとか、アブラゼミとか、そういう感じの。ほら、今『かなかなかな』って鳴いてるセミがいるでしょう? それがヒグラシだよ」

「ふうん」

 鳴き声に耳を傾ける。

 確かに、ミーンミンミンミーンとか、ジジジジといった聞き覚えのある鳴き声に混ざって、かなかなかな、という鳴き声が聞こえる。

「これがヒグラシか」

「そう。ヒグラシは夕方に鳴くんだよ。日暮れ時に鳴くから、日暮らし」

 ふと立ち止まって、その鳴き声に耳を傾ける。言われてみれば、夕方にこの鳴き声をよく気がする。一日の終わり、友達と遊んだ帰り道。

 ……なんだか少し寂しい鳴き声だ。

「どうしたの?」

 千夏さんが振り返って、僕を見た。

「ううん。なんでもない」

 僕は小走りで、千夏さんのもとへと走った。

 そうして歩くこと約三十分。

「登り坂、きっつい……」

 お姉さんの息は切れ切れで、ついに屈んでしまった。

「もう少しだから頑張って」

「小学生は元気がいいね……。やっぱり体育って大切なのかな……」

 そういえばこの間、大学には体育が無いと言っていた。お姉さんにとっては久々の運動なのかもしれない。

 だとすれば、無理をさせるのは良くない。僕はお姉さんの顔を覗き込んだ。

「少し休む?」

「ううん。大丈夫。もうすぐなんでしょ?」

「うん。まあ、あと五分くらい? それに、上り坂はもう無いよ」

 僕がそう言うと、お姉さんは不思議そうな顔をした。

「でも見た感じ、しばらく上り坂が続きそうだけど……」

 確かにお姉さんの言う通り、目の前の山道はずっと山を登っていく。けれど、僕は首を横に振った。

「僕達が行くのはこの道じゃないよ。目的地は、こっち」

 そう言って、僕は今の山道から少し逸れた方向を指す。お姉さんの顔が少し引きつった。

「こっちって、まさか、これ?」

「うん。これ」

 僕が指し示した方向。木々が覆い被さって見えにくいけれど、そこにも確かに道はある。しかし、先ほどまで歩いていた山道とは異なり、地面は舗装されていない。左右に木の杭でできた柵があるので、一応道ではあるのだろうけれど、木々が近くて枝が道に乗りだしている。少々歩きにくい道だ。

「……こっちで本当に合っているの?」

「うん。こっちだよ」

 僕は何度も来ているので、躊躇うことなく進む。しかし、お姉さんは警戒するように道を覗き込んだ。

「大丈夫だよ。見た目ほど険しい道じゃないから」

「そう?」

 恐る恐る、お姉さんは道を進んだ。はぐれないように手を握る。

 こっちの道は木々が茂って薄暗いけれど、一本道なので迷う心配もない。そして、この道を進んだ先に、僕の見せたいものがある。僕は少し緊張しながら道を進んだ。

「それで、この先に何があるの?」

 道中、ふとお姉さんが尋ねた。その問いに、僕は笑顔で答える。

「僕達の、秘密基地」


 薄暗い道を進むこと五分。その小道の先で、夕暮れ時の涼しい風が吹いた。

 その景色を見て、僕は思わず息を飲む。

 小道の先。そこは小さな展望台になっているのだ。町を一望できる山の中腹。そこからの景色は、何度見ても美しいと感じる。僕達の暮らす町が、そこにある。

 山道から外れた薄暗い道の先にあるため、この展望台に辿り着く人は滅多にいない。僕と、シュウくんと、ヒロトくんだけの、秘密の場所なのだ。

「素敵な場所ね」

 その景色を見て、お姉さんが小さく呟いた。僕はお姉さんの横顔を盗み見て、わざとらしく胸を張った。

「ここは、僕達の秘密基地なんだ」

「良い場所を見つけたね」

 お姉さんはクスリと笑った。

「でもいいの? 私に教えちゃって」

「本当はだめ。だから、内緒ね」

「うん、わかった」

 お姉さんは呆れたように笑った。

「それで、解いて欲しい謎っていうのは、どれ?」

 お姉さんは辺りを見回した。

「あ、そうだった」

 お姉さんを呼ぶ時にした説明を忘れるところだった。僕は、「謎を解いて欲しい」と言って、お姉さんを呼んだのだ。

「うん。不思議なのは、この木なんだ」

 僕は一本の木のもとに、お姉さんを案内した。小さな展望台に、一本だけ生えている木。両手でも抱えられないくらい太い、一本の大きな木だ。

「この木が?」

 僕は頷く。この木は少しだけ不思議な木なのだ。

「見て。ここ」

 根元付近を指す。そこには薄汚れた、ボロボロの布が巻かれていた。いや、巻かれていたとも呼べない程古く、千切れていた。

「これだけでも充分変でしょ?」

「うん、まあ」

「しかも、これだけじゃないんだ」

 僕は回り込んで、反対側を見せる。

「……ふむ」

 お姉さんは小さく呟いた。

 先ほどとは反対側の、布が巻かれている箇所。ただ、そこの布は特にボロボロになっており、本来巻かれていたはずの部分は露出していた。そして、その部分が奇妙な状態なのだ。

 そこには大きな穴が開いていた。自然の穴ではない。チェンソーか、のこぎりで切られたような菱形の穴が開いているのだった。それも大きな穴だ。菱形の一辺は、三十センチはありそうだ。

 その穴を覗いてみると、木の中は空洞になっている。そして、その壁はごつごつとしており、つまり、空洞は自然にできたものであるようだった。空洞に至る入り口は人工的に作られ、中の空洞は自然とできたもの、ということだ。そして、それを隠すように、布が巻かれた跡がある。

 まとめると今回の謎はこうである。

「誰かがこの木に穴を開けて、元々あった空洞の存在をあらわにした。それなのに、わざわざ布を巻いて隠したんだよ。これって不思議じゃない?」

 目立たせたいのか、それとも隠したいのか。これが木の謎だ。

「この不思議な木こそ、千夏さんに解いて欲しい謎だよ」

「……なるほどね」

 お姉さんは小さく呟き、屈んでその空洞を覗き込んだ。そして何かじっくりと考えるように、しばらく黙った。

「えっと、じゃあ、この状態を初めて見た時のことを、詳しく話すね」

 僕は状況を説明しようとした。しかしその時

「ううん。大丈夫」

 千夏さんが、それを片手で制した。

「え? でも……」

 これではあまりにも情報不足ではないだろうか。推理が難しくなってしまう。

 ……いや違う。

 この段階で、お姉さんは僕からの情報を断ったのだ。つまり、もう……。

「まさか」

 僕の呟きに、お姉さんは小さく頷いた。

「うん。そのまさかだよ。すでに謎は解けてるよ」


 僕は思わず呆然としてしまった。たった、たったあれだけの情報から、全てを推理してしまったというのだろうか。

「えっと」

 僕が口籠もっていると、お姉さんはにこりと笑った。

「じゃあ早速、解説を始めようか」

「……うん」

 僕は小さく頷いた。まだお姉さんの推理が間違っている可能性だってある。それに、まさか、全てを見抜いているわけでもないだろう。僕は少し緊張しながら、お姉さんの話を聞いた。

「この謎は、そう難しい話でも、珍しい話でもない。どこにだってあり得る話だよ」

 そう言って、お姉さんは木の空洞を指さした。

「まず、この空洞。これは自然にできたものだよね。きっと、腐敗か何かで空洞になっちゃったんだ。当然、これは一日二日で完成する空洞じゃない。長い時間をかけてゆっくりできたものだ。だから、事件の時系列的には、この空洞ができたのが最初ってことになるね」

 僕は頷く。確かにお姉さんの言う通り、布が巻かれた時より前、そして穴を開けた時よりも前に、この空洞はできたのだろう。

 しかし、問題はその次だ。恐る恐る尋ねる。

「犯人はどうして穴を開けて、空洞を目立たせたの?」

「別に、空洞を目立たせたかったわけじゃないと思うよ」

 お姉さんは穴……チェンソーで切られた断面を指でなぞった。

「多分、穴自体はずっとあったんだ。今よりも小さいものが、自然にできたんだろうね。そうじゃなきゃ、空洞の位置に合わせて穴を開けるなんてできない。元々穴が開いていて、そこに空洞があることは明らかだった。だから、正確に言えば、穴を開けたんじゃなくて、穴を広げたってことになるね」

「じゃあ、なんで穴を広げたの?」

「そう。それを考える必要がある」

 お姉さんは空洞を覗き込んだ。

「空洞を観察したいなら、元々ある穴を覗けばいい。まあ、そもそも空洞を観察したいっていうのも変だよね。だから、見るだけじゃなくて、他の目的があったんだ」

「他の目的?」

 お姉さんは頷いた。

「木に空洞ができたからといって、その空洞に何もなかったとは限らない。この空洞ができた後、何かがその空間に入り込んだ可能性だってある。そう考えれば、穴を開けた理由は明白だ」

 お姉さんは「つまり」と勿体ぶって、言った。

「この空洞にあった『何か』を取り出そうとしたんだ」

「……」

「そしてその『何か』は、元々あった小さな穴からじゃ取り出せなかった。だから穴を広げて取り出せるようにしたってことじゃないかな」

「……」

 僕は思わず小さく息を吐いた。お姉さんは本当に、この謎を解いてしまっているのかもしれない。

 そんな僕に構わず、お姉さんは話を続けた。

「じゃあ、一体何を取り出したかったんだろう。中に何があったんだろう。こんなに大きな穴を開けたんだ。小さいものじゃないよね。でもそう考えると、ここで一つ疑問があるんだ」

 お姉さんは指を一本立てた。

「そんな大きな物が、どうやってこの空洞に入ったのかな。単純に考えれば、穴を広げる前に、そんな大きなものを空洞に入れるのは無理だよね。取り出すのに必要な大きさの穴が、入れる時にも必要になっちゃう。じゃあここで、考え方を変えてみよう」

「と言うと?」

 お姉さんは小さく頷いた。

「空洞にあった『何か』は入った時は小さくて、取り出す時は大きかった。つまり、中で成長したんだ」

 確かにそれならば、入る時は小さな穴で充分だが、取り出す時には穴を広げる必要が出てくる。僕はお姉さんの言葉に相づちを打った。

 そしてお姉さんは「ここでもう一つ疑問」と言って指を立てた。

「そもそもなんだけど、木に穴を開けるって、そんなこと普通できる? 物理的に、じゃなくて、気持ちの問題でさ。小さな穴ならまだしも、こんなに大きな穴だよ。イタズラでもこんな穴開けられないと思うんだ。しかもこの断面。これはきっと大人が開けた穴だよ。大人が、大した理由も無くこんなことするかな」

「しないとも言い切れないんじゃない?」

 僕が笑って反論すると、お姉さんは返答に困ってしまったようだ。お姉さんは僕の反論を無視した。

「……まあ、つまり、普通に考えて、この行為には重要な意味があったってことになる」

 そしてお姉さんはもう一度、木の空洞を覗き込んだ。

「じゃあ、最後。結局木の空洞に入っていたものは何だったんだろう。何が入り込んだんだろう。それは、今の状態にヒントがあるんじゃないかな。今だって空洞は完全な空じゃないんだよ」

 お姉さんは僕を手招きして、空洞を見せた。その空洞の中にはカナブンとかハエとか、小さな虫が沢山這い回っていた。

「当然、木には虫が寄ってくる。というか虫の住処だ。だから、初めにこの空洞に入り込んだのも、虫の可能性があるよね」

 そう言ったところでお姉さんは立ち上がって、腰を伸ばした。そして腰を軽く回しながら、微笑んだ。

「さて、これでヒントは出そろったよ」

 お姉さんはもう一度、話を整理した。

「まず一つ目。空洞に入り込んだのは、虫の可能性が高い。そして二つ目。その虫は空洞に入った後、成長して大きくなった。或いは空洞の中で何か大きい物を作った。そして三つ目。その『何か』は取り除かれる必要があった。つまり、放置したままでは不都合があった。危険があった」

 「ここまで言えばわかるよね」とお姉さんは僕を見た。僕も諦めたように笑う。

「つまり、ここにはスズメバチの巣があったんだ」


「じゃあ、巻かれていた布は?」

 と尋ねてみた。お姉さんは頭をひねることすらなく、

「そりゃあ、木の空洞なんて絶好の場所、中々無いからね。スズメバチが巣を作りやすい最高の環境なんだよ。それが分かっているなら、空洞を塞いで予防するよね。……まあ、もう布はボロボロで機能してないみたいだけど」

 と平然と答えた。

「……さすがだね」

 僕は思わずため息を吐いた。まさか本当に、この木を見ただけで、謎を解いてしまうなんて。

「お姉さんは凄いね」

 僕が言うと、お姉さんは少し照れたような顔をした。

「やめてよ、このくらいで。最初に言ったでしょ? こんなのよくある出来事だって。こういう木、テレビで見たことあるんだよ。それを論理立てて話しただけ」

「そうなの?」

「そうだよ。それに、結局合ってる確信はないし。それこそ、愉快な大人がふざけて穴を開けた可能性だって捨てきれないよね」

「確かに、そうだね」

 その光景を思い浮かべて、僕は少し可笑しくなった。それで笑っていると

「でも、きみには真相がわかるんじゃない?」

 お姉さんが、にやりと笑った。

「……」

 その言葉にぎくりとして、僕はお姉さんの顔を直視できなかった。

「……どういう意味?」

 恐る恐る尋ねる。お姉さんは嫌な笑みを浮かべたまま「わかってるくせに」と言った。そして、次の言葉を続けた。……僕が、ひた隠しにしていた真相を、お姉さんは見抜いていた。

「きみは、本当は全部の真相を知っていたんじゃない? わかってて、私に出題したんじゃない?」

 その瞬間、セミが一斉に鳴き止んだ気がした。


「……なんで?」

 顔を逸らしたまま、千夏さんに尋ねた。お姉さんは「そうね」と微笑んで

「だって、スズメバチの巣を取り除かれたってことは、巣の存在を知ってる誰かがいないとおかしいから」

「え?」

「ここに来るには、広い山道から逸れた小道を通る必要がある。でも、あの道は鬱蒼としていて、注意して見ないと道があることさえわからない。もし道を発見したとしても、とても通る気にはならない。つまりね、ここに来る人なんて少ないはずなの」

 お姉さんは辺りを見回して「実際、今いるのも私達だけだし」と言った。

「もし、ここに誰も来ないなら、スズメバチの巣が取り除かれるはずがない。だって、刺される人はいないもの」

「……そうだね」

「じゃあ、一体誰がスズメバチの巣を発見したんだろうね。誰が、こんなところに来てたんだろう」

 少し考え、反論する。

「……それが僕とは限らないんじゃない? ここに他の人も来ていたかもよ」

 実際、ここで他の人を見たことだって無いわけじゃない。しかし、お姉さんは首を横に振った。

「確かに、きみ以外にもこの場所を知っている人はいるかもしれない。綺麗な場所だし。でも、きみがスズメバチの巣の存在を知らなかった、とは思えないんだよ」

「どうして?」

「だって、スズメバチの巣は長い時間を掛けて作られるから。穴から考えるに、スズメバチの巣はそこそこの大きさだったはず。二、三ヶ月はかかるんじゃないかな。その期間の間にこの場所に訪れれば、かなりの確率でスズメバチに遭遇するはずなんだよ。

 そこで、きみだ。きみはここのことを『秘密基地』と言ったね。だったら、ここには定期的に来るんじゃない? ここに来る時も、馴れた様子だったよね。きみは、スズメバチの巣がこの木にあったことを知っていたんじゃない?」

 お姉さんは僕をじっと見つめた。

「……」

 僕は小さくため息を吐いた。

「そうだよ。僕達だ。僕達がスズメバチの巣を見つけて、取り除いてもらったんだ」

 認めるしかなかった。僕は諦めて、本当のことを話した。

 ……初めてこの場所に来たのは、二年生の時だった。シュウくんと一緒にヒロトくんの家に遊びに行った時、今日みたいにユキオさんがいた。そしてユキオさんが自慢げに言ったのだ。

「おい! お前達! いいところに連れていってやる!」

 そして連れられたのが、この展望台だった。

「俺ももう大学生だ。この場所は、お前達に譲ってやるよ。誰にも言っちゃだめだぞ」

 その日から、この場所は僕とヒロトくんとシュウくんの秘密基地になったのだった。

 町からこの展望台まで約三十分。日常的に行くような場所ではなかった。それでも秘密基地という場所は僕達にとって特別で、定期的には遊びに来ていた。

 そして、三年生の夏。夏休みということもあって、久しぶりに展望台に行こうという話になった。ひょっとすると、二、三ヶ月行っていなかったかもしれない。久々ということもあって、僕達は少しワクワクしていた。

 しかし、展望台は既に僕達の秘密基地ではなくなっていたのだ。

 小道を抜けた先、そこはおびただしい数のスズメバチによって占領されていた。驚いた僕達は一目散に逃げ出し、小道を引き返した。そのおかげか、大事に至ることはなかった。しかし、全く被害がなかったか、と言われると、それも違った。

 僕とシュウくんが一カ所ずつ、ヒロトくんが二カ所も刺されてしまったのだ。

 命に別状はなかったので、僕達は特に騒ぐつもりはなかった。しかし、僕達の親は違う。腫れた痕を見て、僕達の親は顔を真っ青にした。どこで刺されたのかを僕達から聞き出し、市に連絡してスズメバチの巣を取り払ったのだ。

 こうして危機は去った。

 後日、僕達はもう一度展望台に上ってみた。

 そして、布がぐるぐるに巻かれた木を見て、巣がそこにあったことを僕達は初めて知ったのだった。

「それは大変だったね」

 全て話し終えると、お姉さんは心配そうな目で僕を見た。

「アナフィラキシーショックに気をつけるんだよ」

 僕は頷いた。アナフィラキシーショック。刺された後、お母さんから耳にたこができるほど聞いた言葉だ。なんでも、二回目に刺されるとアレルギー症状が出てとても危険なんだそうだ。

 ともかく。

 これが事件の全貌だ。僕は蜂の巣の存在を知っていたし、つまり当然、奇妙な木の正体も知っていた。全て、お姉さんの推理通りだ。

「でもさ」

 お姉さんは不思議そうな顔をして僕の顔を覗き込んだ。

「どうして、真相を知っていたのに、わざわざ私に謎解きを頼んだの?」

「……」

 僕は目を逸らした。

 お姉さんが不思議に思うのも当然だ。こんな山に連れてきて、すでに解明されている謎の推理を頼んだのだ。……僕が真相を知っているとバレた以上、この質問は避けられない。

 僕がなんと言えばいいかわからず、口籠もっていると

「わかった」

 お姉さんはニヤリと微笑んだ。僕はじっと指を組み、固唾を飲んだ。千夏さんが口を開ける速度が、なんだかとてもゆっくりであるような錯覚があった。

 そして、お姉さんは言った。

「私に挑戦したかったんでしょ」

「……え?」

「今まで私、きみの出題にいくつも答えてきたでしょ? その内に、きみは段々悔しくなってきちゃったんじゃない? 次こそは絶対に解かれない謎を持って来ようって。それで今回、不思議な木のことを思い出して私に出題した、って感じかな。どう?」

 お姉さんは自信に満ちた瞳で僕を見た。僕はその瞳を見て、二、三度目を瞬かせ、そして顔を逸らした。

「……まあ、嘘吐いても仕方ないよね。その通り。僕は千夏さんに挑戦したかったんだ」

 ぽつりと小さく呟く。

 その言葉を聞いて、お姉さんは一層満足そうに微笑んだ。

「やっぱり。でもまあ、過去一で瞬殺だったけどね」

「……今回は絶対解かれないと思ったのに」

「残念でした」

 千夏さんは腕を上げ、腰を伸ばした。

 僕は顔を背けたまま、お姉さんの隣で唇を尖らせる。「次は絶対解かれない謎を持ってくるよ」なんて言って、少し拗ねた。

 ……拗ねたフリをした。


 お姉さんに隠れて、「ほっ」と小さく息を吐き出す。先ほどまで胸を締め付けていたものが、解けて流れ出て行く。

 ……別に、お姉さんに挑戦しようと思ったわけではなかった。

 僕の本当の思惑は、お姉さんにバレずに済んだのだ。

 僕は柵の向こうに目を向ける。そこには視界いっぱいに、町が、空が広がっている。

 ……これだ。これこそが、僕の目的だった。

「良い場所でしょ」

 お姉さんに話しかける。お姉さんは「うん。風が気持ち良い」と、髪をなびかせながら言った。

 先週の水曜日。僕は千夏さんに謎解きの依頼をした。そしてお姉さんは、事件の真相をあっさりと見抜いたのだ。そのお陰で、僕はシュウくんと話し合うことができた。事件を解決へと導くことができたのだ。

 いや、水曜日だけではない。その前の火曜日だって、さらにその前の月曜日だって、お姉さんは謎を解いてくれた。

 僕は本当に感謝しているのだ。僕だけでは絶対に辿り着けなかった真相へ、お姉さんは連れて行ってくれた。

 だから、これはお礼なのだ。

 本当は僕とヒロトくんとシュウくんだけの秘密の場所。子供達だけの秘密基地。でも、この特別な場所を、お姉さんにはどうしても見てほしかった。町を一望できるこの景色を、お姉さんに見てほしかった。

 僕は千夏さんの横顔を盗み見た。お姉さんは落ち着いた様子で町を見つめている。その静かな顔を見て、僕は少しだけ不安になった。

 お姉さんは喜んでくれているだろうか。

 この景色を気に入ってくれただろうか。

 お姉さんを騙してここに連れてきたことを、怒ってはいないだろうか。

 ……考えても、わからない。

 僕は展望台にある古びたベンチに座った。お姉さんも、僕の隣に座る。

「あ、そうだ」

 僕は、とある思いつきをして鞄を開けた。中から日記を取り出す。それを、お姉さんが不思議そうに見つめた。

「何それ。日記?」

「うん。毎日書いてるんだ」

「へえ。偉いね」

 僕はパラパラと捲って、今までのことを思い出す。

「この日記には、お姉さんのことも沢山書いてあるんだよ」

「そうなの? ヘンなこと書いてないでしょうね」

「書いてないよ!」

 そして笑顔をお姉さんに向けて、僕は言った。

「お姉さんとの思い出を書いているんだ」

 それは「お姉さんもきっと喜んでくれるだろう」と思ってのことだった。

 しかし、その瞬間だった。

「……」

 お姉さんが僅かに目を細めた……気がした。

「……?」

 それは僕の錯覚だったかもしれない。ただでさえ、僕の大切な場所を気に入ってくれるかどうか不安だったのだ。だから、少し思考がネガティヴになっていたのかもしれない。

 しかし、そうだとわかっていても、千夏さんの些細な行動が僕の心を乱す。そして一度芽生えてしまった不安は、完全に消し去ることはできない。

「……これ読んでみてよ。色んなことを書いたんだよ」

 僕は何か取り繕おうと、日記を半ば強引にお姉さんに押しつけた。深い意味があっての行動ではなかったけれど、とにかく何か行動しなければ落ち着かなかった。

「いいの? 読んじゃって」

 そう尋ねるお姉さんは普段通りの気もするし、何か落ち込んでいるようにも見えた。とにかく僕は頷いた。

 お姉さんは無言で日記を捲った。

「……」

 この静けさが僕を不安にする。やはり先ほどから、お姉さんの様子がどこか変に思えて仕方ない。

 とはいえ原因がわからない。一体、どうしてお姉さんが目を細めたのか、何が悪かったのかわからない。

 勝手に日記に書いたことだろうか。

 それとも、こんな山に連れてきたことで元々不機嫌だったのだろうか。

 様々な考えが頭を巡り、僕はただ必死だった。

「今日のお姉さんも凄かったね」

 僕はお姉さんの機嫌を取ろうと、思いつく言葉をひたすら並べた。

「それに、この景色を一緒に見ることができて良かったよ。素敵な思い出になったよね?」

 しかし、お姉さんは曖昧に頷くだけだった。

 そして、

「……あ」

 千夏さんは、今度は大きく目を見開いて日記を見つめた。

「千夏さん?」

 恐る恐る尋ねた。するとお姉さんは小さく息を吐き出し、ぱたりと日記を閉じてしまった。

「これ、ありがとうね」

 千夏さんは弱々しい笑顔を向けた。

「えっと、何か書いちゃいけないこと書いてあった?」

 僕が尋ねると、お姉さんはきょとんと首を傾げた。

「ううん。そんなことないよ」

「……今日楽しかった?」

「ええ、とても。どうして?」

「……なんでもない」

 お姉さんは「でも、ちょっと疲れちゃった」と言って立ち上がった。そして

「もう、帰ろっか」

 展望台からの眺めに背を向けた。……まるで、見たくないものから目を離すように。

 本当は、もう少しこの眺めを一緒に見るつもりだった。しかし

「そろそろ暗くなるし」

 お姉さんは既に歩きだしてしまった。

 僕も黙ってそれを追いかけるしかなかった。

 ……お姉さんは、別に不機嫌を露わにすることはなかった。しかし、どこか表情は薄暗く、悲しみに染まっている気がした。

 お姉さんが何に傷ついたのか、何が悲しいのか、僕にはわからない。僕の言葉と、僕の日記。それらが原因であることはわかる。しかしどれほど考えても、何が悪いのか見当も付かない。

 僕はただお姉さんの後ろを歩く。登りとは変わって、僕達はあまり話さなかった。ぎこちない世間話がぽつりと溢れるばかりで、気まずい空気が漂っている。

 山道には、ただヒグラシの鳴き声が虚しく響いていた。

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