水曜日 水に濡れる

 夏といえば暑くて、青空で、快晴のイメージだけれども、実際はずっと晴れているわけでもない。むしろ、暖められた空気が昇って、大きな雲を作りやすいのだという。夏は雨と風の季節なのだ。

 そんなことを窓の外を見ながらぼんやりと考えた。雨だ。雨が降っている。大きく天気が荒れているわけではないけれど、雨粒は大きく、道に溢れる水が川のように流れていた。

 それを見て、大きくため息を吐いた。こうも薄暗いと、なんだか気分が落ち込んでしまう。ただでさえ今日は憂鬱だというのに……。

 ぼんやりしているとお母さんが「遅刻しちゃうよ」と僕を急かした。今日は体が重いけれど、学校を休むわけにもいかない。ランドセルを引きずりながら玄関に向かう。

 長靴を履いて、傘を持つ。そして消え入るような声で家に呟く。

「行ってきます……」

 外に出て、思わず顔をしかめる。気温自体は高くないらしいけれど、じっとりと暑い。その不愉快な熱気に苛立ちながら学校に向かった。

 ……今日は、今日だけは。学校に行きたくない。思わず歩幅が小さくなってしまう。それは今日が雨だから、という理由だけではなかった。

 今日は水曜日。そして水曜日の六時間目は「学活」の時間だ。学活といえば、レクリエーションがあったり、学校の問題について話し合ったり、学校の授業の中では面白い時間である。いつもなら水曜日は楽しみな日なのだ。

 しかし今日は違う。今日の学活は楽しくない。それどころか、とても憂鬱なのだ。

「先生は非常に残念です」

 その先生の一言が耳から離れない。

「今週の学活の時間は、今回の事件について話し合おうと思います」

 先日、事件が起こった。とっても残酷で、悲しい事件だった。今日の学活では、その事件について話し合うのだ。そして

「先生は、今回の事件を起こした生徒が名乗り出るまで、学活を終わりにしません」

 今日の学活は、その事件を起こした「犯人探し」なのだった。


 事件は一昨日起こった。その日は今日と違って、雲一つ見えない青空だった。セミの鳴き声が降り注ぎ、汗を拭いても拭いても、服が滲んでしまうほど暑い日だった。

 僕はいつもどおり、水筒の麦茶を飲みながら学校までの道を歩いた。氷をいっぱい入れてキンキンに冷えた麦茶。真夏日の猛暑の中で飲む冷たい麦茶は、とても美味しいのだ。

「よっ」

「おはよう。ヒロトくん」

 歩いていると、ヒロトくんと会った。ヒロトくんとは家を出る時間が大体同じなので、近くのお地蔵さんで待ち合わせて毎朝一緒に登校している。

 木陰で少し休み、二人で学校へ向かった。

「僕、今日夢の中で夢を見たよ」

「どういうことだよ」

「だから、夢の中の自分が、その中で夢を見てたんだってば」

「嘘吐け。そんなことあるわけねーだろ!」

「本当だってば!」

 学校に向かう途中、僕達はいつもこんな下らない話をする。昨日あったこととか、お母さんに叱られたこととか、ゲームのこととか、アニメのこととか。

 そんな話をいくつかする内に、あっという間に学校に着いた。

「お前、ブレイブジャーニー見てないんだっけ?」

 下駄箱で靴を取り出しながら、ヒロトくんが尋ねた。

「うん。見てない」

 ブレイブジャーニーは学校で流行っているアニメだ。けれど、僕は見ていない。別に何か理由があって見ていないわけじゃないけれど、今さら見始めるのもなんだか手遅れの気がしてしまう。

「なんだよ。シュウだったら話できたのに」

 ヒロトくんは退屈そうに言った。それを聞いて僕は少しムッとした。確かにアニメを見ていない僕が悪いかもしれないけれど、なにもそんな風に言わなくてもいいじゃないか。

 と思うけれど、わざわざ口に出すほどのことでもない。

「シュウくんじゃなくて、僕が生物係だったらよかったのにね」

 だからこんな風な嫌味を言うだけにしておいた。

 シュウくんも僕達と家が近い。いつもは一緒に待ち合わせて三人で登校している。しかし、この日は一緒ではなかった。

 シュウくんは生物係なのだ。そしてこの夏、生物係にはある仕事があった。その仕事こそが、今朝シュウくんと一緒ではない理由だ。

「それにしてもツバメの観察だなんて、よくやるよな」

 ヒロトくんの呟きに思わず頷く。そう、ツバメ。生物係の仕事とは、ツバメの観察である。

 今年の四月か五月のことだったと思う。校舎裏にツバメが巣を作った。理科の授業で外に出た時、僕達のクラスの女子が発見したのだ。授業は中断になって、僕達はツバメを観察した。巣を見上げてもツバメの姿は中々見えないけれど、それでもたまにヒナが顔を覗かせて、それがとても可愛らしかった。

 僕とシュウくんは同じクラスなので、一緒に巣を見ていた。

 その時だった。

「ねえ、シュウくん」

 授業中、一人の女子がシュウくんに話し掛けた。

「どうしたの。カナちゃん」

 シュウくんが振り返って微笑んだ。カナちゃんは僕のクラスメイトの女子であり、そしてシュウくんと同じ生物係だった。

 彼女は巣を見上げながら言った。

「ねえ、私達って生物係でしょ?」

「そうだね」

「それでね、このツバメの巣は私達が見つけたんだから、私達が見守ってあげたいの」

「見守る?」

「うん。この子達はこれから巣立ちでしょ? だから、その様子を観察したいの。私達は生物係。だから私達でツバメの様子を見てあげない?」

 そのカナちゃんの提案を聞いて、僕は思わず顔をしかめた。僕は生物係ではないけれど、聞いているだけで面倒臭そうだ。

 しかしシュウくんは微笑んで

「うん、いいよ。そうしよう。先生に相談しに行こうか」

「本当? 嬉しい! ありがとう!」

 二人は仲良く先生に相談に行った。

 それ以降、生物係の仕事にツバメの観察が加わったのだ。朝早くに行って巣を観察したり、写真を撮って学級新聞に載せたり、時には落ちてしまったヒナを巣に戻してあげたこともあったそうだ。

 現在は七月。そろそろ巣立ちの時期だ。ここのところ、シュウくんは毎朝早起きしてツバメの巣を観察していたのだった。

 そんなわけで、最近はシュウくんと一緒に登校できなくなってしまった。

「まったく、ツバメの観察なんて、何がおもしろいんだろうな」

「さあ」

 確かにツバメは可愛いけれど、毎日観察するなんて飽きてしまう。どうせ勝手に巣立ちするのだから、放っておけばいいのに。

 そんなことを考えながら階段を上る。時刻は八時。早起きというわけでもないけれど、朝の会まではまだ時間がある。

「じゃあ、俺はこっちだから」

「うん。またね」

 ヒロトくんは一組。そして僕は三組だ。階段を上ったところでヒロトくんと別れて、自分の教室に向かった。

「あ、シュウくん! おはよう!」

 教室の前の水道にシュウくんがいた。喉が渇いたのか、水を飲んでいる。僕に気づいたシュウくんが顔を上げた。

「あ、ああ。おはよう」

 その顔を見て、僕は少しぎょっとした。額は汗ばんでおり、どこか具合も悪そうだったのだ。

「大丈夫? 何か顔色悪いけど……」

「……大丈夫」

 シュウくんはそのまま教室に戻ってしまった。

「……そう」

 少し心配だったけれど、シュウくんがあまり話したくなさそうにしているので、無理に訊くこともできなかった。

 僕もシュウくんの後について、教室に入った。その瞬間、ジメッとした暑さを感じて、僕は少しだけウンザリした。教室のエアコンは電源が入っていない。先生が来るまでつけちゃ駄目な決まりだったのだ。エアコンの代わりに、窓を開けて扇風機を回しているけれど、それで涼しくなるはずもない。

 シュウくんの具合が悪そうな理由も、この暑さかもしれないと僕は思った。この日は特に気温が高かったのだ。

「あ、そうだ」

 シュウくんが振り返った。

「カナちゃんのこと見なかった?」

「カナちゃん?」

 思わず首を傾げる。生物係のカナちゃん。カナちゃんはとても真面目な子で、学校に来るのは一番早い。いつもなら、僕が学校に来る時には、必ずカナちゃんは学校にいた。

「まだ来てないの?」

 聞くとシュウくんは頷いた。どこか焦るような、そんな様子だった。しかし何を焦っているのか全くわからなかった。多分、生物係関係のことなのだろうけれど、それ以上のことは予想もできない。

 僕は自分の席に着き、一時間目に必要なものだけを取り出し、ランドセルを教室の後ろにあるロッカーに運んだ。ロッカーには扉がついている。扉を開け、ランドセルと水筒を乱雑に押し込み、溢れないように強引に扉を閉めた。

「……あれ?」

 ふとシュウくんの机を見てみると、まだランドセルが置かれている。

「シュウくん。ランドセルしまわないの?」

 訊いてみると

「ああ……ちょっと」

 と口籠もった。やっぱりどこか調子が悪そうだ。じっと椅子に座って、落ち着かない様子で腕を組んでいた。

 普段、朝の会までの時間はシュウくんと話すのだけれど、なんだかその日は話し掛けづらく、僕は他のクラスメイトと話していた。

 そして八時十五分。

「おはよう」

「カナ! おはよう。今日どうしたの? 休みかと思った」

「うん、ごめん。お母さんが目覚ましかけ忘れてて」

 カナちゃんが教室に入って来た。普段と比べると遅いけれど、でも遅刻じゃない。僕はあまり気にせず、友達との会話に戻ろうとした。その時だった。

「遅いよ! カナちゃん!」

 女子を押しのけ、シュウくんがカナちゃんに迫った。

「え……えっと、ごめん? 私、何か当番だったっけ?」

 シュウくんは何も答えず、困惑するカナちゃんの腕を掴んだ。

「ちょっと、シュウくん。痛いよ……」

 しかしシュウくんは気に留める様子もなく、カナちゃんを教室の後ろに連れて行った。

「どいて!」

 シュウくんはロッカーの前で雑談していた男子達を追い払い、彼のロッカーの前に立って

「……」

 何も言わず、ロッカーを開けた。

 シュウくんの行動に驚いていたみんなの目線は、ロッカーの中に集中していた。僕も普段と様子が違うシュウくんの行動が気になり、ロッカーを覗き込む。

 ロッカーの中は少し奇妙だった。濡れたハンカチが、何かを包んで置いてあった。洗った手を拭いたとかいう程度ではなく、明確にそのハンカチは濡れていた。

「あ……」

 それを見たシュウくんが、小さく声を漏らした……ように見えた。シュウくんは恐る恐るハンカチに手を伸ばし、ゆっくりと持ち上げた。ぽたり、と濡れたハンカチから水滴が落ちた。

「ねえ、それ、何?」

 カナちゃんが不愉快そうな顔つきで、湿ったハンカチを睨んだ。けれどシュウくんはやはり何も言わなかった。そして、ハンカチをほどき、その中身を露わにした。

「きゃ!」

「うわ!」

 それを見て、みんなが悲鳴を上げた。僕も思わず息をのむ。

 それは、ツバメのヒナの死骸だった。

 濡れたハンカチに包まれて、湿っている。

「あの、これ……」

 ざわめく教室で、ひとり冷静にシュウくんが何かを言おうとして

「酷い!」

 カナちゃんが叫んだ。

「なんで、なんでこんなこと! シュウくんが殺したの? なんで濡れてるの?」

 甲高い声が教室に響いた。カナちゃんの大きな瞳から、涙が溢れている。それを聞いて、シュウくんは慌てて首を横に振った。

「違う。違うよ! 僕じゃない。これは……」

 そして少し考え

「これは今朝、僕のロッカーに入っていたんだ! 誰かがヒナを殺して、濡らしたんだ!」

 それを聞いて、教室中がざわめいた。ツバメで盛り上がったのは、あの理科の時間くらいで、今も興味を持っている子なんて多くはないはずだ。けれど話題にすることはあったし、校舎裏に用事があった時はなんとなくみんなで巣を見上げた。……ツバメを憎まなければならない理由なんて、思い浮かばない。

 しかし、ヒナは死んだ。そして死骸をハンカチで包んで濡らし、シュウくんのロッカーの中に入れたのだ。

「一体誰がこんなことしたの?」

 朝の会の時間も近づき、クラスメイトは全員教室に集まっていた。その全員を睨み付け、女子達は口調を荒くした。

「誰よ! 誰のイタズラ?」

「弱いヒナを殺すなんて、なんでそんな残酷なことができるの?」

 ツバメに関心なんて持ってなかったであろう女子まで、カナちゃんを庇うように立っている。

 僕達は何となく顔を見合わせ、そして俯いてしまう。きっと、誰もがそうだっただろう。そんな僕達を見て、女子達は一層苛立ったようだ。

「誰って訊いてるの!」

「っせえな。大体、お前達だって自分が犯人じゃないって証明できんのかよ。男子だって決めつけてんじゃねえよ!」

「な……! 私達はカナちゃんの友達なんだよ! そんな酷いことするわけないじゃん!」

 言い合いは激しさを増していき、もう誰が何を言っているのか聴き取れない。朝の会が始まる時間……どこの教室でも静かになるこの時間。僕達の教室だけが、怒号と悲鳴で満たされていた。

「ちょ、ちょっと! 何やってるの!」

 騒ぎを聞きつけた担任の坂本先生が、焦ったように教室のドアを開けた。

 先生を見て、怒りと悲しみで興奮した生徒達が口々に状況を説明する。というより、感情をそのまま先生にぶつけていた。

 そして生徒達の膨らんだ感情を直接受け取った先生もまた、それの影響で感情が昂ぶっていく。

 先生の怒りは、シュウくんの掌に乗ったヒナを見て頂点に達したようだ。先生は大きくため息を吐いて、言ったのだった。

「先生は非常に残念です」


 あの日のことを思い出し、また気分が落ち込んでしまった。あの日以来、教室の空気がなんだか悪くなった。あんなイタズラをするのは男子に違いないと怒る女子と、その決めつけに不満を持つ男子。

 完全に男子と女子が対立してしまったわけではないけれど、でも、なんとなく女子と話しづらくなってしまった。

 そして、男女関係なくクラスに漂う不信感。犯人の決めつけが行われていたのだった。何をするにしても、何を話していても、疑惑の視線が飛び交ってしまう。

 僕だって無関係じゃない。犯人の手がかりが無いので、「シュウくんとよく話す」という関連性のみによって、僕が犯人だと決めつける人も少なくはなかった。

 しかし。

 それもまた、僕にとっては大した問題ではなかった。

 誰が誰を疑おうと、僕が疑われてしまっても、そんなのはどうでもよかった。何故なら、僕は今回の事件の犯人を知っているからだ。

「……あのハンカチ」

 ぽつりと呟く。その声は雨音でかき消されてしまう。

「あのハンカチ。シュウくんのだった……」

 間違いなかった。僕はシュウくんと一緒にいることが多いので、見間違うはずなんてない。ツバメのヒナを包んでいたハンカチは、シュウくんのものだ。

 当然、ハンカチがシュウくんのものだからといって、犯人もシュウくんだとは限らない。別の子がシュウくんのハンカチを盗んだ可能性もあるからだ。

 しかし、ハンカチはポケットに入れるものだ。盗むのは難しい。それに、あの日のシュウくんの様子はどこか変だった。僕には、シュウくんが犯人に思えて仕方なかった。

 僕の気分を憂鬱にさせているのは、この状況だ。自分だけが核心的な情報を握っている。僕一人の判断で、この事件の全てをコントロールできてしまう。

 僕が「犯人はシュウくんだ」と言ってハンカチを証拠に挙げれば、みんな納得するだろう。ツバメを殺し、死骸を水で濡らした残酷な犯人は見つかり、それで事件は終わる。

 ……けれど。

「本当に、シュウくんなのかな」

 シュウくんは生物係。それも押しつけられたわけではなく、自分から立候補していた。少なくとも、生物が嫌いというわけではないだろう。

 カナちゃんにツバメの観察を提案された時だって、微笑んで受け入れていた。実際ここ数ヶ月、シュウくんは楽しそうにツバメを観察していた。訊いてもないのに、ツバメの様子をよく話してくれたのだ。

 そのシュウくんが、どうしてこんな事件を起こしたのか、僕には全くわからなかった。

 勿論、ヒナを殺したのがシュウくんだとは限らないし、僕はシュウくんではないと信じている。けれど、ロッカーの中に入れたのは恐らくシュウくんだし、なにより、死骸を水で濡らした理由が全くわからない。

 僕は、何度もシュウくんと話そうとした。けれど、訊けなかった。

 シュウくんが犯人だったとして、何か事情があったはずだ、と僕は思っている。……でも、何もなかったら? 僕の知らないシュウくんの一面があるだけで、単に楽しみのために死骸を濡らしたとしたら?

 いや、それだけじゃない。シュウくんがここまで隠そうとしているのだ。僕が訊いたところで答えてくれるかわからない。それどころか、シュウくんが僕を避けるようになってしまったら。……僕にはそれが恐ろしい。

「……」

 考えてもわからなかった。しかしどれほど悩んだところで今日の六時間目には決着がついてしまう。いや、僕がつけなければいけなくなる。

 それを考えると憂鬱で、僕は立ち止まって空を見上げた。薄汚れたネズミのような雲が、空を押しつぶしている。

 一体どのくらいの時間そうしていただろう。一度立ち止まってしまうと、歩きだすのは難しい。

 それでも学校には行かなければならない。やっとのことで重い足を持ち上げた、その時だった。

 車が凄まじい速度で、僕の横を過ぎ去った。

「……」

 その車は、水溜まりを踏むことを楽しんでいるように走っていた。大きな水しぶきを上げながら、道を進んでいる。

 楽しく運転することは結構だけれど。しかし、水しぶきを上げるのはいただけない。水しぶきを上げては、歩行者にかかってしまうのだ。

 そして当然、あの車が生み出した水しぶきは、僕にかかった。

「……ああ!」

 苛立って、思わず拳を握る。車が踏んだのは大きな水溜まりで、そのため発生した水しぶきも大きく、僕はそれをまともに食らった。

 横から飛んできたので傘で防ぐこともできない。服は濡れ、鬱陶しく肌に張り付いた。そして長靴の中にも水滴は入り込み、靴下は濡れ、歩く度ぐちゃぐちゃと嫌な感触がした。

「……」

 その瞬間、僕はもう、何もかもが嫌になってしまった。一度振上げたはずの拳には力が入らず、傘を持つ手もだらんと下げてしまった。

「もう、いい」

 僕は来た道を戻って、学校とは反対の方向へ進んでいく。もう、いい。今日は学校には行かない。誰が犯人だって、もう僕の知ったことではない。勝手に疑い合って、勝手に決めつければいい。

 僕は雨に打たれながら、薄暗い道を歩いた。


 今日はもう、学校には行かない。それは決めた。けれど、どこに行くかはまだ決まっていない。

 家に戻っては、お母さんに叱られて結局学校に行かなければいけなくなるだろう。神社でもいいけれど、この雨だ。どこか建物の方が良い。

 そして悩んだ結果

「科学館に行こう」

 そう決めた。

 別に、お姉さんに会いに行くわけではない。お姉さんは、水曜日に科学館のバイトを入れていない。

 けれど僕にとって科学館は、すでに居場所の一つになっていた。田舎町の科学館。騒がしくなく、スタッフのお兄さんお姉さんは温かく僕を迎えてくれる。ちょっぴり退屈だけど、くつろげる場所なのだ。

 僕は科学館に向って歩き出す。科学館に行こうと決めた途端、足は軽くなった。濡れた服も、水の入った長靴も気にならない。もう意味がないだろうけれど、一応傘も差して雨を防ぐ。

 科学館にはいつも自転車で行くので、普段よりも景色はゆっくり流れている。平日の朝。僕だけが学校とは反対の道を進んでいる。

 僕はなんだかワクワクした。本当ならば、行けないはずの場所にいる。まるで別の世界を歩いているような、自分だけが自由になったような、そんな気がした。

 歩いて三十分とちょっと。森を無理矢理切り開いたような、薄暗い土地に科学館はある。大通りとは反対の方向に正面入り口があるので、一見すると何処から入ればいいのかわからない。これがお客さんの少ない理由だと僕は思っている。

 入り口に向う階段を目指し、木々が生い茂った道を進む。

「あ」

 時計が目に入った。そして、それで気づいた。

「まだ開いてないじゃん」

 時刻は八時半の少し前。朝の会が今まさに行われる時間だ。そして、科学館が開く時間は午前九時。開館にはまだ三十分もある。

 あと三十分。一体どこで時間を潰そうか。

「……ヒロトくんとシュウくん、置いてきちゃったな」

 ふと考える。普段ヒロトくんとシュウくんとは、待ち合わせて学校に行っている。けれど今朝、僕は待ち合わせ場所に行かなかった。もしかしたら、二人は僕のことをずっと待っていてくれたかもしれない。二人は遅刻していないだろうか。

 それに、心配を掛けてしまったかもしれない。もうそろそろ朝の会が始まり、出欠確認が行われる。無断で休んだ僕のことを、シュウくんは心配するかもしれない。……いや、シュウくんだけではない。先生とお母さんが心配して、大騒ぎになるかもしれない。

「……知るもんか」

 僕は一人で首をぶんぶんと振った。今日は休むと決めたのだ。この決断に対して、僕は後悔なんてしていない。それに今さら遅い。朝の会はもう始まる。

 ……けれど。今日は休むのだけれど。でも警察に連絡されたら、それは迷惑をかけてしまう。せめて電話だけでも入れようか。

 そう考えた時だった。

「……何してんの?」

 聞き覚えのある声がした。その声の方へと振り返ると、やはり、見覚えのある顔がそこにあった。

「千夏さん!」

 僕はお姉さんのもとへ駆け寄った。するとお姉さんはぎょっとしたように目を見開いて

「ど、どうしたの? びしょびしょじゃん!」

 鞄からタオルと出して、僕の頭を乱暴に拭いた。

「もごご、な、なんでお姉さんが科学館にいる、の? 今日は水曜日だよ」

 頭を左右に揺られながらもお姉さんに尋ねる。

「え、え? それはバイトを増やしたからで……って、それは私の台詞! なんできみがここにいるの? 学校は?」

「……創立記念日」

「嘘。創立記念日はついこの間だったでしょう!」

「……」

 僕が口籠もると、お姉さんはタオルで僕の両頬を包み

「本当のこと、教えて?」

 優しく言った。

「……」

 確かに嫌なことがあったけれど、そこまで心配されるようなことでもない。僕は正直にお姉さんに話すことにした。

「ちょっと、行きたくなくて。サボり」

「……」

「別に、大したことじゃないんだよ。でも、学校でちょっとだけ嫌なことがあって。その上、さ」

 僕はTシャツの裾を引っ張った。

「車に雨掛けられて。それで、なんかもう、どうでも良くなった」

 それを言うと、お姉さんは二回まばたきをして

「……よかった」

 小さく息を漏らし、微笑んだ。

「こんな雨の日にびしょ濡れでいるんだもん。何かあったんじゃないかって心配したよ」

「……まあ、嫌なことはあったんだけどね」

 あまり心配を掛けたくないけれど、それでも少しは心配して欲しくて、ついそんなことを口にした。

「はいはい。まあ詳しい話は中で聞くよ」

 そう言って、お姉さんは科学館を指している。僕はそれを不思議に思った。

「……学校に行けって言わないの?」

「だって、行きたくないんでしょ?」

「……うん!」

「じゃ、行かなくていいんじゃない? 一日くらい。何か罰があるわけでもないでしょうし」

「でも、皆勤賞が無くなる」

 お姉さんは笑った。

「いいよ、そんなの。捨てちゃえ、捨てちゃえ」

 それでなんだか僕も可笑しくなった。

「わかった。捨てちゃう」

 そして、お姉さんの後ろについて、科学館へ向った。

「あ」

 そこで思い出した。

「お姉さん。電話貸してくれない?」

「え? いいけど、どうして?」

「学校に連絡してないんだ」

 お姉さんは目を見開いた。

「まさか、無断で休んだの?」

「だって、学校行く途中で急に休みたくなったんだもん」

 お姉さんは苦笑した。

「呆れた。本当、しょうがない子だ」


 お姉さんについて行くと、普段は入れない部屋に入れてくれた。その部屋には大人の人が沢山いて、僕を見ると驚いたような顔をした。お姉さんは少し焦ったように、僕のことを説明していた。……なんだか、お姉さんに迷惑を掛けてしまっている。僕は申し訳なくなった。

「こんにちは」

 おじいさんが屈んで、僕の顔をみた。

「今日は学校に行かないのかい?」

「……」

 こう訊かれると、なんだか居心地が悪くなってくる。僕は無言で頷いた。

「そうか」

 すると、おじいさんは立ち上がって、電話を取った。

「今、学校に連絡するからね」

「……ありがとうございます」

 あまりに簡単に休ませてくれるので、拍子抜けしてしまった。それと同時に、やっぱり罪悪感もあって、明日からはちゃんと学校に行こうと思った。

 ぼうっとしていると、今度はおばさんが僕の元に来て、優しく微笑んだ。

「じゃ、ちょっと別の部屋に行こっか」

 僕が頷くのを見て、おばさんは振り返った。

「千夏ちゃん、この子のことお願いできる?」

「え、私ですか? 今日は私、受付でずっと座ってなきゃなんですけど……」

「いいよ。私が代わるから、あなたはこの子のこと見てて」

 お姉さんはちらりと僕を見て

「はい。わかりました」

 頷いた。「じゃあ行こうか」と手を引いて、別の部屋に移動した。

 移動した先の部屋は、先ほどの部屋と比べると狭く、小さなテーブルに椅子が二つあるだけだった。その椅子に、僕とお姉さんは座る。

「……」

「……」

 しばらくの間、沈黙が訪れる。お姉さんは話し掛けてもいいのか迷っている様子だったし、僕もまさかこんな部屋に通されるなんて思ってもいなかったので、少し緊張していた。

 けれど、このままずっと黙っているのも気まずい。

「お姉さんはさ」

 今までお姉さんが答えてくれなかったことを、改めて訊いてみた。

「どうして科学館で働いているの?」

「え……」

 お姉さんは少し驚いたように目を見開いて、その後すぐに視線を逸らした。やはり自分のことはあまり話したくないのだろうか。

 そう思っていると、

「科学館がね、好きだったんだ」

 ぽつりと呟いた。

「科学館って言っても、ここのじゃないよ。地元の科学館。家から近かったんだ」

「よく行ってたの?」

「うん。というより、暇さえあれば行ってた」

「科学館に?」

 思わず首を傾げる。僕はここ以外の科学館には行ったことがないけれど、でもどこの科学館も似たようなもので、何度も行くような施設じゃないであろうことは想像できた。

 その科学館に暇さえあれば行くなんて、少し考えられない。

 お姉さんは苦笑した。

「地元の科学館には自習スペースがあったんだ。科学館に自習スペースがあるなんて、大半の高校生は知らないから、いつも空いてて。穴場だったんだ」

「ふうん」

 家で勉強すればいいのにと思ったけれど、図書館とか塾じゃないと勉強に集中できない人もいると、どこかで聞いた気がする。

「それに……」

 ふと、お姉さんは懐かしむような顔をした。

「それに、私にとって科学館はちょっとした逃げ場になっててさ」

「逃げ場?」

 お姉さんは小さく頷いた。

「高校生にもなると、科学館になんて誰も行かないの。だから科学館に知り合いは滅多に来ない。私だけの、秘密基地みたいになってたんだ」

「秘密基地」

 確かに、僕にも逃げ場はある。学校にも家にも居たくない時、僕だけが知っている場所があるのだ。

「私、あんまり学校が好きじゃなくってさ。休むことも少なくなかったんだ。そんなとき、科学館に行ってたの。科学館にいるときだけは、安心できた。科学館は私の居場所だったんだ」

「そうなんだ」

 少し意外だった。お姉さんは真面目なので、学校を休んだことなんてなさそうだと思っていた。千夏さんにも逃げたくなる時があるなんて、想像できない。

 そんなことを考えていると「それにね」とお姉さんは僕の顔を見た。

「それに、科学館にはお姉さんがいたの」

「お姉さん?」

「うん。科学館で働いていた、お姉さん。凄く頭が良くて、優しくて、大人のお姉さん。お姉さんと話していると、なんだか落ち着いたんだ」

 僕は少し驚いた。僕はお姉さん……千夏さんのことを大人だと思っていた。けれど、そんな千夏さんにも、大人だと思う人がいたのだ。

「そのお姉さんとは色んな話をしたよ。楽しかったことも、嫌だったことも、なんでも聞いてくれたんだ。そしてお姉さんの話は全部面白かった。私の知らない世界のことを、沢山教えてくれたんだ。勉強を教えてもらったこともあるんだよ」

 笑顔で話す横顔を見て、僕も少し笑顔になった。そしてお姉さんの話を聞いて、ふと思った。少しだけ違うところもあるけれど、そのお姉さんは、まるで……まるで。

「千夏さんみたいな人だね」

 何気なく言った一言だった。

 けれど、千夏さんはピクリ、と体を固くした。そして、少しだけ悲しそうな顔をした。

「……私とお姉さんは、違うよ。だって、だって私は……」

 口籠もって

「……アルバイトだし」

 イタズラな笑顔を浮かべた。

「……」

 けれど、その笑顔は無理矢理作ったようで、目の奥に悲しみがあるように感じた。僕は何か言おうと思って口を開けたが、言葉は何も出てこなかった。

「でも、私、なんだか嬉しいな」

 お姉さんはすぐに、また笑顔を作った。

「きみの中でも、科学館は安心できる場所になってたのかなってさ」

 その言葉に、大きく頷く。

 お姉さんの逃げ場が科学館だったように、科学館は最早、僕にとっての逃げ場になっているのだ。だから今、ここにいる。学校にも家にも居場所がない今、ここに来た。

「千夏さんと一緒だね」

 お姉さんに笑いかけると

「そうね」

 お姉さんも笑った。

 千夏さんは否定したけれど、やっぱり千夏さんの言う「お姉さん」と、僕にとっての千夏さんは同じなのだ。

 頭が良くて、優しくて、大人のお姉さん。自分のことを何も教えてくれない点は違うかもしれないけれど、それ以外は一緒なのだ。

 そして僕は思う。僕の逃げ場はきっと、科学館だけではない。千夏さんが、僕にとっての居場所なのだ。千夏さんと一緒に居ることが、僕にとっての幸せなのだ。

「それで、さ」

 千夏さんは遠慮がちに尋ねた。

「何があったの? 嫌なことがあったって言ってたけど」

「うん……」

 僕は頷いた。けれど話すかどうか迷った。これは結局のところ僕の問題だ。お姉さんに話したところで、どうにかなる問題ではない。

 ……いや、そうだろうか。

 ふと考える。この間の月曜日、お姉さんは月夜に浮かべられた手紙の謎を解いた。そして火曜日、神社に放火する少年の謎を解いた。

 それで僕は思ったのだ。千夏さんはまるで、名探偵みたいだと。

 僕はお姉さんの顔を盗み見た。

 ……お姉さんなら。

 僕は思う。

 お姉さんならば、解けるかもしれない。

 お姉さんはまるで名探偵だった。その鋭い推理で、謎を二つも解いてしまったのだ。

 だから今回の事件だって解けるかもしれない。ツバメが死んだ理由も、死骸を濡らした理由も……シュウくんの隠し事が全て、わかるかもしれないのだ。

 そうなれば、この事件は解決する。僕は、シュウくんの行動に悪意はなかったはずだ、と考えている。だからシュウくんの行動の理由が判明して、その真意を確信できれば、僕は話し合える。事件の解決を促せるかもしれない。

 僕は真っ直ぐお姉さんの顔を見つめる。

「あのね……」

 僕はお姉さんに、事件について話すことにした。


「……ツバメが、ねえ」

 お姉さんは顎に手を当てて、じっと考えた。

 僕は事件について、できるだけ詳しく話した。月曜日の謎も、火曜日の謎も、お姉さんは小さな手がかりから謎を解いていった。納得できる真相を導き出したのだ。

 だから僕は、あの日見たこと、聞いたこと、感じたこと、その全てを話した。何が手がかりになるのか、僕にはわからない。だから全てを話すしかなかった。

 当然、僕の記憶にある情報で答えが出るとは限らない。でも祈るしかない。これで答えが出ると信じるしかない。

「どうかな」

 お姉さんを見上げる。するとお姉さんはさらりと言った。

「まあ、確実に言えるとすれば、ツバメが亡くなったのはシュウって男の子のせいじゃないってことぐらいかな」

「……! そうなの?」

 思わず尋ねる。確かに僕だって、シュウくんがツバメを殺したとは思っていない。けれど、確証もなかった。お姉さんはどうして、シュウくんがツバメを殺していないと言い切れるのだろう。

 お姉さんは微笑んだ。

「簡単だよ。ツバメの巣は高い所にあったんでしょ?」

「……あ、そうか」

 確かに、言われてみればそうだ。ツバメの巣は高い所に作られ、観察する時はいつも見上げていた。その巣からヒナを奪って命を奪うなんて、難しいはずだ。

 当然、はしごでも使えば可能かもしれないけれど、一人ではしごを使うのは危険だし、そもそもはしごは倉庫の中にあって、生徒が勝手に持ち出すことはできない。

「多分、そのヒナは巣から落ちて死んじゃったんだろうね。巣はヒナでぎゅうぎゅうだから、意外と落ちやすいんだよ。それにもう夏だからね。巣立ちの時期で、巣から飛び立とうとしたのかもしれない。それで失敗して死んじゃったのかも」

「失敗することもあるの?」

「そりゃあ、失敗するヒナだっているだろうさ」

「そっか……」

 しかし、少しだけ安心した。ヒナが亡くなったのは悲しいけれど、それは自然に起きてしまったことで、シュウくんが殺したわけではないのだ。……僕のクラスの誰も、ヒナを殺していないのだ。

「ヒナが死んじゃった詳しい理由はわかんないけど、シュウくんじゃないんだね」

 僕がお姉さんに確認すると、「多分ね」と微笑んだ。

 しかし。

 シュウくんがヒナを殺していないのは良かったけれど、問題はその後なのだ。

「どうして、死体を濡らしたのかな」

 ぽつりと呟く。ツバメを殺したのはシュウくんではない。けれど、シュウくんはツバメをハンカチで包み、水で濡らし、ロッカーの中に入れた。

 その行動の理由が全くわからない。

「まずは、順序を追っていこうか」

 お姉さんは落ち着いた声で言った。

「まず、シュウくんは生物係として、早朝に登校した。そして、ヒナが亡くなっているのを発見した」

「うん」

「じゃあ、その後。シュウくんは生物係として、その死骸を放っておくことができなかった。だから取り敢えず教室に運ぼうとしてハンカチにくるんだ。この行動に違和感は無いと思うんだけど、どうかな」

「……うん。無いと思う」

 ヒナの死骸を素手で触るのは気が引けたのだろう。だから持っていたハンカチで包んで、教室に運んだ。ここまでは変じゃない。

「問題はその次だよね。シュウくんはそのハンカチを濡らした……。なんでだろう」

 お姉さんはじっと考え、

「死体を綺麗にしようとした、とか。土とかで汚れたままだと可哀想だから、濡れたハンカチで拭いてあげたっていうのはどう?」

 その可能性は僕も考えていた。けれど

「違うと思う。ツバメは汚れたままだったんだよ。それに、拭くときにはハンカチは絞るはずでしょ? でも、初めシュウくんが持ち上げた時、水滴が落ちたんだ。あれはただ濡らしたって感じだった」

「そっか」

「あと、ハンカチは全体的に濡れてたわけじゃないんだよ。濡れた部分と乾いた部分があったんだ」

「ふうん。適当に濡らしたのかな」

「さあ……」

 千夏さんはまた考え込んで、

「質問。その液体は、本当に水だった?」

 そう尋ねた。

「……多分? でも、どうだろう」

 僕はあの液体を間近で見た訳ではない。あの液体が何であったかなんて、断言はできない。

「あ、でも」

 僕はあの日のことを思い出す。確かなことは言えないけれど、特徴を伝えることならできる。

「シュウくんのハンカチは白だったんだ。それで、ツバメは怪我をしていたみたいで、所々赤い点々があったけど、でも、液体で濡れていた部分に色はついてなかったよ。少なくとも、透明な液体だった」

「そっか。まあ、液体の正体がわかったからといって、濡らした理由がわかるとも思えないけど」

 濡らした理由を二人で考えてみる。けれど、何も思い浮かばなかった。しばらく考え、お姉さんは言った。

「やっぱり順番を追って考えてみようか。もうちょっと詳しく、考えていこう」

 僕は頷く。ツバメの死骸を液体で濡らした理由は、いくら考えてわからない。だからこそ、その前にあった出来事から考えていく必要があるだろう。

「シュウくんは、取り敢えず発見したツバメの亡骸を教室に運んだ。それはいいよね」

 お姉さんは僕に尋ねた。僕は頷きかけて

「いや、やっぱりちょっと待って」

 僕は止めた。

「どうして教室に運んだのかな」

 お姉さんに尋ねる。

「どうしてって?」

「だって、ツバメはすでに亡くなっていたんでしょ? だったら、その場で埋葬してあげれば良かったのに」

「……確かに」

 お姉さんは数秒黙り込んで、

「もう一人の子を待ったのかも」

「もう一人の子?」

 こくりとお姉さんは頷く。

「生物係は二人。シュウくんとカナちゃんでしょ? ツバメの観察をしていたのはその二人。なのに勝手に一人で埋葬しちゃうのは、ちょっと冷たくない?」

「……そっか」

 シュウくんはツバメの観察を熱心に行っていたけれど、カナちゃんも負けず劣らずツバメに愛情を注いでいた。

 毎日、とは言わずとも、何か巣に関する発見があれば必ず話題にしていたのだ。シュウくんに報告したり、友達に自慢したり、僕に話してくれたこともあった。

 そのカナちゃんに無断で埋葬するのは、確かに気が引けるだろう。

「だから教室に持っていった。これでどう?」

 千夏さんの確認に頷く。お姉さんの説明で納得がいった。

 その時だった。

「あ」

 お姉さんが小さく声を漏らした。

「……そうか、シュウくんはカナちゃんを待っていた」

 そう言って、お姉さんは考え込んだ。

「……」

 僕は何も言わず、お姉さんのことを見つめた。

 これまで千夏さんは、僕の話を聞いて手がかりを見つけ、謎を解いてきた。そして今、お姉さんはその手がかりを掴みかけている。

 ……僕には、考えてもわからない。だからこそ、今の僕にできることは一つ。千夏さんの言葉を待つことだけだ。

「……そっか、だからか」

 数秒後、お姉さんは小さく笑った。僕は期待に胸を膨らませ、

「千夏さん、まさか」

 お姉さんに微笑みかけた。そして、お姉さんは大きく頷く。

「うん。そのまさか。謎は解けたよ!」

「……!」

 さすがお姉さんだ! 僕の話を聞いただけで、全ての謎を解き明かしてしまうなんて!


 僕は尊敬の眼差しを千夏さんに向けた。すると、お姉さんは苦笑した。

「でも、やっぱり、確証は無いかな。さすがに話を聞いただけじゃ限界があるかも。小学校に乗り込むわけにもいかないし」

「そっか」

「だから、私が出せるのはあくまで可能性の一つ。少なくとも、論理的な行動の結果だった可能性がある、って程度の話になっちゃうけど……」

 お姉さんは「それでもいい?」と尋ねた。僕は頷く。千夏さんの推理がないと、「シュウくんは悪意で死体を濡らした酷い人」という結論になってしまう。

 たとえ可能性の一つだとしても、たとえ間違いだとしても、それでも納得のいく理由があるのなら、僕は安心できる。シュウくんと話し合える。

 だって

「僕は、シュウくんが悪い人じゃないって信じてる。だから、お姉さんの推理が納得できるものなら、僕はそれを信じる。それが真実だって信じるよ」

「……そっか」

 お姉さんは微笑んで

「じゃ、推理を始めていこうか」

「うん!」

「まず、私が変に思った所から話していこうかな」

「変に思った所?」

 確かに、手紙の謎でも、放火の謎でも、お姉さんは僕の話にある奇妙な点を指摘して、そこから謎を解いてきた。

 今回の話でも、それがあっただろうか。少し思い返してみるけれど、僕にはわからなかった。お姉さんは「まあ、今回は変って程でもないんだけどね」と前置きして

「きみが登校した時、シュウくんは水道で水を飲んでたって言ったよね」

「え? うん」

 あの日の朝、教室の前の水道でシュウくんは水を飲んでいた。それのどこが変だというのだろう。

「きみの学校は、水筒の持参が認められていたんだよね」

「うん」

「だったら、水道で水を飲んでいるのは少しだけ変じゃない? きみがシュウくんと会ったのは朝。水筒の中身はまだ沢山残っているはず。なのに、どうして水道で水を飲んでいたのかな」

 そう言われて「確かに」と納得しかけ、思い留まる。

「水道で飲めるから、水筒を飲まなかったのかもしれないよ。学校にいる間に水筒を全部飲んじゃったら、帰り道で飲む分が無くなっちゃうじゃん。それに、あの日は暑かったから、登校中に全部飲んじゃっても不思議じゃないよ」

 僕が言い返すと、お姉さんは

「うん、そうだね。だからシュウくんの行動は、変ってほどじゃない」

 と、涼しい顔で言った。

「じゃあ、もう一つ。これは変っていうより気になる点なんだけど。ロッカーを開けた時、シュウくんは何か、驚いている様子だったって言ったよね」

「うん」

 ロッカーを開けて、濡れたハンカチを見た時、シュウくんは小さく「あ……」と声を漏らしていたのだ。

「確かに、あの時シュウくんは何に驚いていたんだろう」

 考えてみる。あの時シュウくんは、カナちゃんの手を引いてロッカーの前に立った。そして扉を開けた。つまり、カナちゃんに見せたい「何か」がロッカーの中にあって、それを見せるために扉を開けたのだ。

 シュウくんが扉を開けた時に驚いたということは、シュウくんが見せたかった「何か」と、実際にロッカーに入っていたものが違ったから驚いたのだろうか。

 ……多分それはない。確かにシュウくんはロッカーを開けた時は驚いていた。けれど、ハンカチの中身を見た時、シュウくんは別に驚いていなかったのだ。ツバメの死骸が入っていることを知っていた様子だった。

 それに、ツバメを包んでいたハンカチはシュウくんの物だ。ロッカーにツバメの死骸を入れたのは他でもなくシュウくんであり、つまりシュウくんの見せたかったものは間違いなくツバメの死骸だ。そこに矛盾はない。

 ……じゃあ、シュウくんは一体何に驚いたのだろう。

「それは、奇妙な状況になっていたから、驚いたんだろうね」

 千夏さんは言う。

「みんなも、それを見て驚いていたんじゃない?」

 僕達も驚いたこと。あのロッカーの奇妙な状況。ハンカチに包まれた死骸以外に奇妙だったことがあるとするならば。

「……あのハンカチは、濡れていた」

 ツバメの死骸は濡れていた。僕の呟きにお姉さんは頷いた。

「シュウくんが驚いたこと、つまり、シュウくんにとって想定外だったことは一つ。ロッカーの中が濡れてしまったことなんだ」

 ……もしも、それが正しいとするなら、前提が変わる。僕達はずっと「シュウくんは、どうしてツバメを包んだハンカチを濡らしたのか」という謎を考えてきた。

 しかし、シュウくんにとって濡れていたことが想定外だとするならば、ロッカーに入れた段階では、濡れていなかったことになる。

「……じゃあ、ツバメの死骸を濡らしたのはシュウくんじゃないってこと?」

 お姉さんは曖昧に首を振った。

「シュウくんじゃない、とは言えない。でも、シュウくんはこうなるなんて思わなかったんだ」

「……?」

 ここまで二つ、お姉さんが気づいたことを聞いた。水筒ではなく水道の水を飲んでいたこと。そして死骸が濡れてしまったのは、シュウくんの意思じゃないということ。

 けれど、その二つを聞いても、僕は何も思いつかない。シュウくんの意思じゃないなら、一体どうしてツバメの死骸は濡れてしまったのだろう。あの日の朝、男子達がシュウくんのロッカーを塞いでいた。つまりロッカーの中は密室だった。一体いつ、どうやって濡れてしまったのだろうか。

「あの日、シュウくんにとっての不幸が、たくさんあったんだ」

 千夏さんは小さく呟いた。考えてもわからないので、千夏さんの言葉に耳を傾ける。

「まず一つ。カナちゃんが遅くなってしまったこと」

 千夏さんは指を一本立てた。

「カナちゃんは本来、学校には一番乗りで来るはずだった。でもその日、カナちゃんはたまたま寝坊して、朝の会ギリギリになっちゃったんだ。でも、これがシュウくんにとっては不幸だった」

「どうして?」

「シュウくんは、カナちゃんにも看取らせてあげるために、ツバメを教室に運んだ。でもそれは、カナちゃんが一番初めに教室に来ると思っていたからなんだよ。動物の死骸なんて、本来誰かに見せるようなものじゃないからね。カナちゃんだけに見せるつもりだったんじゃないかな」

 カナちゃんが毎日一番乗りに教室に来ることなんて、皆知っていることだ。シュウくんだって知っていただろう。確かにお姉さんの言う通り、カナちゃんにだけツバメの死骸を見せるつもりだったのかもしれない。

 ……でも。

「でも、カナちゃんは来なかった」

 あの日だけ、目覚ましを掛けるのを忘れてしまって、カナちゃんは早起きできなかった。カナちゃんは一番ではなかったのだ。

 お姉さんは頷いた。

「そう。シュウくんは教室でカナちゃんを待った。でも来なかった。ここで、二つ目の不幸があったんだ」

 お姉さんは二本目の指を立てた。

「二つ目の不幸。それはその日の気温が高かったことだよ。シュウくんって、きっと真面目で知恵の回る子なんだろうね。でも、今回ばかりはそれが失敗したんだ。だからそうだね、二つ目の不幸は気温というより、その失敗かな」

「失敗?」

 お姉さんは深く頷いた。

「きみの学校は、勝手にエアコンを付けちゃいけないんだよね」

「うん。生徒が触っていいのは扇風機だけ」

「それが、いけなかったんだ。朝とはいえ、もう真夏。教室の温度はどんどん上がっていった」

「まあ、そうだね」

 僕が教室に入った時、暑くてうんざりしたのだ。扇風機だけでは涼しくならない。

「でもそれが何? シュウくんの知恵って一体何なの?」

「何って、気温はマズいでしょう」

 お姉さんは困ったような顔をして

「亡骸に、気温は大敵でしょう」

「あ……」

 確かに、聞いたことがある。死体をそのまま放っておくと腐ってしまう、と。だから冷やさなくてはいけないのだ。

「しかも、ハンカチに血が付いていたって言ったよね。つまり、ツバメは怪我をしていた。外傷がある死体っていうのは、特に腐敗が進みやすくてね。すぐに腐っちゃうんだ」

「じゃあ、あの暑さで、ツバメの死体はどんどん腐っちゃったの?」

 恐る恐る尋ねる。しかしお姉さんは首を横に振った。

「まさか。いくら暑いからといって、そんなにすぐには腐らないよ」

 そう否定した後で、「でも」と付け加えた。

「でも、そんなのは関係ない。結局問題は、シュウくんがどんな知識を持っていて、何を考えたのか、ってことなんだ。もしもシュウくんが『暑いと死体が腐る』っていう知識だけを持っていたとしたら。……シュウはきっと焦っただろうね」

 外傷を負ったツバメの死骸。そして暑い教室。シュウくんは少しでもツバメを冷やそうとしただろう。……だから。

「だから、ロッカーの中、か」

 僕は呟く。それを聞いてお姉さんは頷いた。

「そうだね。ロッカーには日が入らない。だから多少は涼しいはず。そして、ここでシュウくんはさらに知恵を絞ってしまうんだ」

 知恵を絞って、死骸を冷やそうとした。僕にはもう、お姉さんの考えていることが……シュウくんが考えていたことがわかった。

 残っているはずの水筒の中身を飲まない理由。そして濡れてしまったことが不本意だったというのなら。

 僕はゆっくり口を開けた。

「……シュウくんは、氷を使って冷やそうとしたんだね」

 小さく、呟く。

 千夏さんはゆっくりと頷いた。


 シュウくんはツバメの死骸を冷やそうとした。そして、冷やすためにできることを考え、水筒の氷を使うことを思いついたのだろう。

 しかし、水筒の中から氷だけを取り出すのは難しい。中身を全てひっくり返さないと、取り出せなかった。だからシュウくんは朝なのに水道で水を飲んでいた……のかもしれない。

「本当は、ほんの少しの時間冷やしておくつもりだったんだろうね」

 千夏さんは静かに言った。

「ロッカーの中に入れて、そしてツバメが濡れないように、ハンカチの外側に氷を置いて、カナちゃんを待った。……本当なら、一番に来るはずのカナちゃんを」

「……でも」

 でも、カナちゃんは来なかった。あの日たまたま寝坊して、カナちゃんは朝の会の直前まで来なかったのだ。お姉さんは頷いた。

「そうやって待っている内に、次々と他の生徒達が登校して来ちゃったんだ。さっきも言ったけど、ツバメの死骸なんて他人に見せるようなものじゃない。その上、ツバメはロッカーの中。そんな状況を、事情の知らないクラスメイトに見られたら、気味悪がられるかもしれない。そうして誰にも言えないまま、時間が過ぎていった」

 教室に人が増えれば、それだけツバメを取り出しにくくなる。声の大きい人が騒ぐからだ。実際、ロッカーの中を開けた時、クラスは大騒ぎになった。

「教室の気温は上がるばかり。そんな教室でシュウくんはカナちゃんをずっと待った。結局、カナちゃんは朝の会の直前に来た。シュウくんはもう、どうしたらいいかわからなかったんだろうね。机の上にはランドセルも置いたままだったから、いつかはロッカーを開けなきゃいけない。それに、朝の会が始まって授業になっちゃえば、お昼までツバメの死骸を放置しなくちゃいけなくなる。だからもう、ヤケになってロッカーを開けるしかなかった。そしてロッカーを開けると」

「……氷は全部溶けて、ツバメの死骸は濡れていた」

 お姉さんは頷いた。

 これが、ツバメが濡れていた理由。シュウくんが誰にも言えなかった理由だ。

 僕は小さくため息を吐いた。

「でも」

 僕は呟く。

「でも、こんな事情があったなら、素直に言えば良いのに。これなら、みんな……」

 言いかけて、思い留まる。

 どんな事情があろうと、シュウくんがツバメを濡らしてしまったことに変わりはない。その事実は、あまりに大きな力を持っている。シュウくんが真面目に話をしたとして、クラスのみんなはどれほど真面目に話を聞いてくれるだろう。

 それに、シュウくんは「クラスの中の誰かが犯人だ」と言って、罪をみんなになすりつけた。それは咄嗟の言い訳だったのだろう。けれど、そのせいで今、クラスの空気は悪くなってしまった。今さら、本当のことなんて……。

「ま、言えないよね」

 お姉さんは苦笑して言う。

「そもそも死骸が濡れちゃったのだって、不本意とはいえ、シュウくんの失敗が原因だし。事情があったからって、多分みんなは納得しないんじゃないかな」

「……そうだね。みんな、犯人を絶対に許さないって言ってるから」

 僕は部屋の天井を見上げ、じっと一点を眺めた。

 しばらく考えて、僕は決意する。

「……僕、今から学校に行くよ」

 そう言うと、お姉さんは少し目を見開いた。

「……大丈夫なの?」

「わかんない。僕がどうすればいいのかも、シュウくんがどうすればいいのかも、わかんない。でも、少なくとも、このままじゃ駄目だと思うから」

 本当のことを説明するべきなのか、隠した方がいいのか。それはわからない。話したって、シュウくんが傷つくだけかもしれない。隠したら、クラスの空気は悪いままかもしれない。

 僕には、わからない。でも、わからないからこそ。

「話し合わなきゃ」

 僕一人では答えが出せない。けれど、誰かに話すことで出る答えもあるだろう。今回の謎だって、お姉さんに話すことで解けたのだ。僕一人では無理だった。

「……そっか」

 千夏さんは小さく微笑んだ。

「千夏さん、今回もありがとうね」

「いえいえ。それに、合っているかわかんないよ」

「うん。でも、お姉さんの推理のおかげで、シュウくんと話し合う勇気が出たよ」

「……そう」

 お姉さんは少し照れたように顔を背け、そして僕をからかうように笑った。

「あーあ。また学校に連絡しなきゃだ。『やっぱり学校に行く気になったみたいです』って」

「……本当、迷惑かけてごめんなさい」

 今回の件で、お姉さん……いや、科学館に迷惑をかけてしまった。僕の行動はあまりにも考え無しだった。僕は大いに反省した。

 しかし

「いいって。科学館は子供の悩みを聞くところだよ」

 そして、お姉さんは顔を近づけ、心なしか小さな声で「それに」と言った。

「……私も人のこと言えないし」

 そういえばさっき、高校生のときは学校をサボって科学館に来ていた、と言っていた。

「学校、行きたくない時は行きたくないもんね」

 お姉さんは笑った。

「……うん、そうだね」

 僕はなんだかお姉さんと秘密を共有したような気分になって、嬉しくなった。僕とお姉さんだけが知っている、平日の科学館。

「そういうことだから、何か困ったことがあったら、またいつでもおいで」

「うん。ありがとう」

 僕は立ち上がった。湿ったランドセルを掴む。

 そして、僕は真っ直ぐお姉さんを見つめた。学校に行くときの挨拶を、お姉さんに言うためだ。

 僕の心は曇りのまま。けれど、そこに一筋の光は差し込んだ。僕は笑顔でお姉さんに言う。

「じゃあ、行ってきます」

 お姉さんは優しく微笑んだ。

「はい、行ってらっしゃい」


 夜。僕は一日の出来事を思い出していた。

 お姉さんの推理は、大体合っていた。

 あの後、僕は学校に行って、シュウくんと話し合った。千夏さんの推理をシュウくんに聞かせたのだ。シュウくんは少し驚いたような顔をして、しばらく黙って僕を見つめた。しかしその後、ため息を吐いて

「うん。そうだよ」

 と認めたのだった。お姉さんの推理は正しかったのだ。

 けれど、お姉さんの推理は完全ではない。それはお姉さんが悪いわけではなく、僕がお姉さんに話していないことが一つだけあったからだろう。

 だってそれは、シュウくんと、ヒロトくんと、僕の間の秘密なのだ。いくらお姉さんでも勝手に話すわけにはいかない。

 シュウくんは俯いて言った。

「良いところを、見せたかったんだ」

「……そっか」

「思いやりのある人なんだって、カナちゃんに思って欲しかった」

 シュウくんは、そう呟く。

 僕達の中の秘密。それは「シュウくんはカナちゃんのことが好き」である。

 シュウくんが生物係に立候補したのも、ツバメの観察なんて面倒なことを受け入れたのも、他でもないカナちゃんのためである。カナちゃんが生き物を好きだから、シュウくんも生物係になったのだ。

「……本当は、氷で冷やすなんてあんまり意味がないことだってわかってた」

 シュウくんは目を細めた。

「でも、氷を使って保冷すれば、カナちゃんも感心してくれると思ったんだ」

 「結局、全部裏目に出ちゃったけどね」とシュウくんは力無く笑った。

「きっと、罰が当たったんだ。ツバメの死を……生物の死を利用しようとしたから」

「……」

 僕は考える。シュウくんの行動は、本当に良くないものだったのだろうか。罰当たりな行為だったのだろうか。

 ……結果的にはそうだろう。生物の死を利用したのだから。

 しかし、腐らないように手段を尽くしたのは、本当に悪いことなのだろうか。たとえ「カナちゃんに良いところを見せたい」という目的があったとしても、その行動自体は、責められるべきものじゃないはずだ。

 それに、あの行動は、生物の死を利用したかっただけではないだろう。シュウくんはああ言うけれど、ツバメのヒナへの思いやりだって確かにあったはずだ。それがから回ってしまっただけなのだ。

 だって、始まりはカナちゃんのためだったかもしれないけれど、シュウくんだって、本当にツバメのことが好きだったのだから。

「……シュウくんは失敗しちゃっただけだよ。ただ、それだけ」

 僕は言った。

「……うん」

 シュウくんは小さく頷いた。そしてお昼休み。シュウくんは一人職員室へと向ったのだった……。

「……」

 長い一日が終わった。シュウくんの背中を思い出しながら、一人きりの部屋で、小さく息を吐く。

 結局、シュウくんは先生に全部話したみたいだった。先生も事情を理解して、みんなの前でシュウくんを叱るようなことはしなかった。学活の時間に「事件は解決した」と簡単に説明して、この事件は一応終了したのだ。

 しかし当然、生徒達はそれでは納得しなかった。今日の放課後だって、誰が真の犯人なのかで話題は持ちきりだった。クラスの雰囲気は、正直言って改善はしていない。

 これから少しでも良くなることを祈るばかりだ。

「『水曜日』っと……」

 日記を書き終え、伸びをする。日記は僕の日課である。その日あった出来事をいつでも思い出せるようにするためだ。

 今日は本当に色々あった。初めて学校をサボって、お姉さんと会って、科学館の秘密の部屋に入って、お姉さんの推理を聞いて、学校に行った。そこでシュウくんと話して、事件は終わったのだ。

 無断で休んだことについては大人達から叱られ……そしていっぱい心配された。僕はもう勝手にサボらないようにしよう、と思った。……できるだけ。

 そして、何より今日は……。

「お姉さんの秘密、知っちゃった」

 科学館のことを思い出す。

 今までお姉さんが話してくれなかった、お姉さん自身のこと。それを今日、教えてくれた。高校生の時、お姉さんは科学館に行っていたらしい。そこで、科学館のお姉さんと沢山お話ししていたのだ。

「僕と似てる」

 思わず、頬が緩む。

 千夏お姉さんにも憧れのお姉さんがいたなんて、なんだか僕には想像もつかない。けれど、だからこそ、お姉さんの知らない一面を知ったようで少し嬉しかった。

 大人びた千夏さんにも、子供みたいな顔があるのだろうか。僕は、子供っぽい千夏さんを想像しようとした。しかし、それはできなかった。僕の知っている千夏さんは大人で、お姉さんなのだ。正直、千夏さんに子供時代があったことすら、なんだか信じられない。

「……もっと、お姉さんのことが知りたいな」

 小さく呟く。

 今日、お姉さんが話してくれたのは、僕が落ち込んでいたからだろう。僕を元気づけるために、「私も学校をサボったことがあるんだよ」と教えてくれたのだ。

 ……その気遣いは嬉しい。嬉しいけれど。でも、お姉さんは僕を信頼したから話してくれたわけではないのだ。ただ、今日が特別だっただけだ。

 お姉さんは高校生の時、科学館のお姉さんに色々な話をしたと言っていた。一体、どんな話をしたのだろう。一体、どんなことを経験して、どんなことを思ったのだろう。

 僕はまだ千夏さんのことを、何も知らないままだ。

「……とにかく、何かお礼したいな」

 今回もお姉さんにお世話になった。いっぱい元気を貰った。だから、今度は僕が千夏さんに何かをあげる番だ。

 僕は机に突っ伏した。

 僕がお礼をして、お姉さんは喜んでくれるだろうか。……千夏さんは僕に、心を許してくれるだろうか。

 僕にはわからない。

 外はまだ、細かい雨が降り続けていた。

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