火曜日 火を放つ

 あれから数日。七月に入って本格的に夏はやってきた。

「暑い……」

 頬に流れた汗を腕で拭う。家の中にいるとエアコンの風が涼しくて、つい忘れてしまうけれど、外は焼けるように暑いのだ。

 セミが鳴いている。まだうるさいという程ではないけれど、あちこちから聞こえてきて、家から出たばかりだというのにちょっぴり疲れてしまう。

 ぱたぱたと服をあおりながら、夏の日差しの中を歩く。こんなお天気に家に籠もっているのがなんだか勿体なくて家から出たけれど、行き先もない。これなら涼しい部屋の中にいた方がマシだったかもしれない。ため息が思わず漏れた。さて、どこに行こうか。

「そうだな……」

 目星を付けて歩き出す。それは思いつきと呼べる程のものでもなく、単に木陰が涼しそう、という考えだった。歩いてすぐ、川沿いに進んだ先にある小さな神社に行こうと決めた。

 神社への道にも木々は植えられており、また、川沿いということもあって、アスファルトの上を歩くよりかは、いくらか涼しく感じた。無意識の内に歩幅も大きくなった。

「ふう」

 神社に到着して、苔の生えた古いベンチに座った。ちょうど木の陰になっていて涼しい。タオルで汗を拭きながら、神社を見回した。

 この神社は八幡神社というらしい。鎌倉の大きな神社も八幡宮というので、何か関係があるのかな、とちょっぴり期待していたのだけど、全く何の関係もないらしい。というより、八幡という言葉はよく神社の名前につけられるようで、おじいちゃんの家の近くの神社も八幡神社というらしかった。人間でいうところの太郎、花子、みたいなものかもしれない。

 この八幡神社は、鎌倉の八幡宮と比べるのも申し訳ないほど狭く、古い。古いといっても歴史があるわけではなく、単に手入れがされていないだけだ。歴史でいったら鎌倉の方が遙かに長いはずだ。

 目の前の建物にはあちこちに苔が生えており、所々穴も開いている。神様もこんな所に住むのは嫌だろう。この神社には何の御利益もないかもしれない。

 そんな古く狭い神社に人が集まるはずもなく、今は僕が独り占めしている。涼んだ僕は立ち上がってぶらぶらと歩いた。

 そして賽銭箱の前に立って、

「……」

 一応お参りをした。御利益はなさそうだけれど、あんまり失礼なことをするとバチは当たりそうだ。

 そして礼を終え、顔を上げて

「あ」

 ふと思い出した。

「そういえば、この神社だったっけ」

 ついこの間、この神社で事件が起こったのだ。未遂だったけれど、この神社に放火しようとした人がいる。そして、それはただの放火事件ではない。奇妙な点がいくつもあったのだ。あの事件は、結局なんだったのだろう。

 ぼんやりと考えてみるけれど、暑くて頭がまわらない。えっと、何が奇妙だったんだっけ?

 うんうんと頭を捻っていると、小道に人影が見えた。どうやら若い女の人のようだった。この神社は古く、狭い。だからおじいちゃんやおばあちゃんが散歩に来ることはあっても、若い人は滅多に来ない。僕だって、日差しを避けるために来ただけだ。だからその人影を見ながら「珍しいなぁ」なんて思っていた。

「あれ?」

 その人影が近づいて、顔がはっきりと見えた。その顔を僕はよく知っている。その女の人も、驚いたように僕を見た。

「千夏さん!」

 思わず駆け寄る。お姉さんは不思議そうに尋ねた。

「凄い偶然。……なにしてんの、こんなところで」

「僕はちょっと散歩に来ただけ。近所なんだ」

「ふうん」

「っていうか、千夏さんはなんで?」

 お姉さんは首を傾げて少し考え

「私もおんなじ。割と近くて、ここ。よく来るんだ」

 曖昧なことを言った。……何となく、はぐらかされた気がした。

「そうなんだ?」

 僕はお姉さんがどこに住んでいるのか知らないけれど、意外とご近所さんなのかもしれない。お姉さんはそのまま神社唯一の建物に向かい、賽銭箱にお金を投げ入れ、二礼二拍手一礼。

 お姉さんの瞑想は少し長かった。何か大きな願い事をしているのかもしれない。

「お待たせ」

 お参りが終わって、お姉さんは振り返った。お姉さんは、無地の白いTシャツにジーパンという、お世辞にもオシャレとは言えない格好をしていた。頭には男の子みたいなキャップを被っている。ジロジロと見ていると

「えっち」

 お姉さんはニヤニヤと笑った。

「そ、そんなつもりじゃ……」

「わかってるよ。ゴメンゴメン」

 お姉さんはさっきまで僕が座っていたベンチに腰掛けた。

「言ったでしょ? 私も散歩に来ただけなの。それに、神様は地味な格好の方がお気に召すの」

「そうなの?」

「さあ? そんな気がするってだけ」

 お姉さんは帽子を脱いで、パタパタとあおいだ。

「今日、暑いね」

 お姉さんの額にも汗が滲んでいる。

「うん、暑い」

 僕はそのままお姉さんの隣に座った。元々目的があって神社に来たわけではなく、暇をもてあましていたところだ。お姉さんが話し相手になってくれるのならば、願ったり叶ったりだ。

 優しい風が吹いて、木陰がさらさらと揺れた。生温い風ではあるけれど、熱気を流してくれるので体温は下がる気がした。

 視界に映る青空はどこまでも広がり、眩しかった。木陰にいなければ見つめることもできなかったかもしれない。小さく浮かぶ雲が、青空を渡っていく。

 こうしてセミの声を聞きながら空を見上げていると、なんだか時間がゆっくりになったように感じる。僕は暑いのは苦手だけれども、夏という季節は嫌いではなかった。こうして夏を全身で感じながらじっとするのも悪くない。退屈だとは少しも思わなかった。

「きみさ」

 隣でお姉さんが呟いた。

「その、さ」

 何か言いづらそうに、口籠もっている。僕はお姉さんの方を見て、次の言葉を待った。風が吹いて、お姉さんの黒髪がさらりと流れた。

 そして、

「学校には、行かないの?」

 お姉さんは少し、小さな声で言った。

「え?」

「いや、あんまり言いたくないならいいんだけど。というか、私なんかが首を突っ込むのも烏滸がましいんだけどさ。でも、どうしたのかなって」

「えっと?」

「あ、勘違いしないでね? 別に、説教しようってわけじゃないの。でも、何か困っているなら相談に乗るよ、ってだけで」

 はて。僕は頭を傾けた。お姉さんが言っていることがわからなかった。僕は自分が真面目だとは思わないけれど、それでも毎日学校には行っている。一体、お姉さんは何を言っているのだろう。

 と、考えたところで、思い出した。

「ああ、千夏さん。今日、学校休みなんだ」

「え?」

 今日は火曜日。祝日でもない平日だ。だからお姉さんは僕が学校をサボって神社に来たと思ったのだろう。

 でも、僕の小学校だけは違う。

「創立記念日なんだって、今日。羨ましいでしょ」

 僕は自慢げに胸を張った。何十年も昔の今日、僕の小学校ができたらしい。そんなことで学校を休みにしてしまってもいいのかな、と不思議に思うけれど、でも誕生日は祝われなきゃいけない。学校も、今日くらいは休みたいのだろう。何より暑いし。

「なんだ、びっくりした」

 お姉さんは微笑んだ。

「サボりかと思った」

「サボんないよ。学校楽しいもん」

 そしてふと疑問に思った。

「千夏さん、大学は?」

 今日がお休みなのは僕の小学校だけだ。お姉さんの大学は、当然休みではないと思うのだけれど。

 するとお姉さんは僕の真似をして、少し胸を張った。

「大学生は、暇なのだ」

「そうなの?」

「そうなの。それはもう自由なんだから。一日中授業があるわけじゃないし、授業の無い時間は帰ってもいいんだよ。時間割は自分で決められるから、一時間目に授業を入れなければ、早起きだってしなくていいし。羨ましいでしょ」

「二度寝もできるの?」

「できる、できる」

 それは本当に羨ましい!

「あーあ。僕も早く大学生になりたいな。大学生って、楽しいことばっかりでしょ?」

「でも、小学校は楽しいんでしょ?」

「そうだけどさ……」

 そういえばヒロトくんのお兄ちゃんも「大学は自由。宿題もないし、夏休みは二ヶ月もある」って言っていた気がする。

 ……やっぱり羨ましい。

 そう思っていると、不意にお姉さんは優しいまなざしを向けた。そして、また

「学校、楽しい?」

 と僕に尋ねた。その声は、語りかけるように柔らかかった。

「うん、楽しいよ」

 僕は頷く。

「もちろん、友達とケンカしたり、先生に怒られたり、宿題が多かったり、嫌なこともあるけどさ、でも、楽しいよ。ドッジボールとか、プールとか、ドロケーとか」

 お姉さんはクスリと笑った。

「スポーツばっかり」

 言われて見れば。僕は少しだけ恥ずかしくなって、目を逸らした。確かに小学校の楽しさではないのかもしれない。どっちかっていうと、

「友達と一緒だから、かな」

「え?」

「多分、学校とかスポーツだから、じゃなくて、僕は友達と一緒にいられたら、多分なんでもいいんだ。学校に行けば友達もいるでしょ? だから学校に行くんだと思う」

 そうでなければ、あんな勉強ばっかりする建物に、好き好んで行くはずがない。そもそも、僕はスポーツだって得意ではないのだ。体育の授業じゃ足を引っ張ってばかりいるし、かけっこだって誰よりも遅い。持久走なんて、世界で一番嫌いだ。

 それでも、友達と遊ぶのはとても楽しい。下手なのはちょっぴり悔しいけれど、でもそんなの全然関係なくて、ただただ楽しいのだ。

「……そっか」

「?」

 それを聞いたお姉さんは、何故だか少し悲しそうな顔をした。その顔を見て、僕はそれ以上小学校について何も言えなくなってしまった。

 何となく静かになってしまい、しばらく二人で空を見た。

「……そういえばさ」

 夏の空を見ながらお姉さんに話し掛ける。話題程度のつもりで、口にした。

「千夏さん、放火事件のこと知ってる?」

 千夏さんは首を傾けた。

「放火? 知らないけど……物騒ね。どこか燃えたの?」

 お姉さんは何も知らないようだ。

「ここ」

 僕は目の前の建物を指さした。

「……まさか」

「本当だよ。まあ、阻止できたらしいけど」

 それを聞いて、お姉さんは少し安心した様子だった。

「でも、酷いことをする人もいるんだね」

 その言葉に「本当にね」と言おうとして、思いとどまる。この放火事件はそう単純な話ではない。愉快犯でも、恨みによる犯行でもない、とても奇妙な事件なのだ。

 お姉さんの横顔を盗み見る。

「……」

 放火について、僕は話題程度にしか思っていなかったし、解決するつもりもなかった。でも、この間の月曜日、お姉さんは手紙の謎をいとも簡単に解いてみせた。ならば、この事件だって解決できるかもしれない。

 僕は唾を飲み込んだ。

「お姉さん。この放火事件は少し奇妙なんだ」

「奇妙?」

 僕は頷いた。

「放火事件の犯人は、小学二年生の子供。それも、この神社が大好きな子供なんだ」


 たくさん休んだおかげで、少し頭がまわるようになってきた。事件の詳細を僕はだんだんと思い出していた。

 その事件は、先週の火曜日に起こったのだ。午後七時。日は傾いているけれど、辺りはまだ明るい時間帯だ。とはいえ小学生が一人で出歩くには遅い時間である。

 その時間に、この神社にやって来た子供が一人。彼は神社の境内を歩き、古びた建物の正面に立った。

 そして、そこでマッチを擦り始めたのだ。

 幸い、その子はマッチを擦るのが下手だった。何度擦っても、そのたび火花を上げるだけで、火は灯らなかった。

 神社でマッチを擦る子供なんて目立って仕方がない。子供が手間取っている内に、散歩中のお年寄りが神社に訪れ、少年を目撃。そして放火は防がれたのだった。

 これが事件の大まかな内容だ。

 しかし、この事件には奇妙な点があったのだ。それを説明するためには、まず放火を試みた子供について話さなければいけないだろう。

 その子は、この近所に住む小学二年生の男の子だ。学年が違うので僕も詳しいことを知っているわけではないけれど、それでも、少しばかり有名な子だった。

 その子は気が弱く、身体も少し弱いらしい。それで、というわけでもないかもしれないけれど、他の二年生からどうも嫌がらせを受けているらしいのだった。実際僕も、その子が何か嫌がらせを受けているのを何度も見ている。一応見掛ける度、友達と一緒にいじめを止めたりしているのだけれど、学年が違う僕達にできることなんて限られている。嫌がらせが止むはずもなかった。

 何より、意地悪グループのリーダー的存在、タケルくんが厄介だった。彼には中学生のお兄ちゃんがいて、信じられないことに、そのお兄ちゃんもたまにいじめに加わっていたらしい。中学生からの意地悪はとっても怖いはずだ。その恐怖を、男の子は感じていたのだ。

 そんな可哀想な少年だけれど、追い打ちをかけるような不幸が彼を襲った。

 それは、彼の母親の病気だ。

「命の危険があるような病気じゃないみたいだけど、でも手術は必要な、ちょっと大きな病気だったみたいなんだ」

「病気……」

 お姉さんは眉をひそめた。僕は頷いて説明を続けた。

「それでその男の子は、神社にお参りしていたんだ」

「お参り?」

「うん。手術が成功することを祈って、ここ一ヶ月、毎日この神社に来てたみたいだよ」

「なるほど。確かにたくさんお参りした方が御利益はあるかもね」

 僕はさらに思い出したことを伝えた。

「それだけじゃなくて、毎日お賽銭もしてたみたい」

「毎日?」

 千夏さんは目を丸くした。

 小学二年生のお小遣い。家によってその金額は違うだろうけど、そこまでたくさん貰えるとは思えない。その中からお賽銭をするのだから、自由に使えるお金はほとんどなかったのかもしれない。

「男の子にとって、この神社のお参りはとても大切なことだったんだ。お参りの時、やっぱりタケルくんたちに意地悪されたみたいだけど、それでもお参りの時だけは屈しなかったみたいだよ」

 お母さんの手術に関わることなのだ。一生懸命になるのも当然かもしれない。

「……つまり」

 話を聞いて、お姉さんは呟いた。

「その男の子には、この神社に祈るべき願いがあった。そして毎日お参りしていた。それなのに……」

 僕は頷いた。

「その男の子は、この神社に火を放とうとした」

 そう、これこそこの事件が不可解な理由。不思議な放火事件なのだった。


「ぱっと思いつくとするのなら」

 そう言って、お姉さんは少し口籠もった。

「あんまり良い話じゃないけど……願いごとが叶わなくて、その腹いせ、とか」

 つまり、お母さんの手術が失敗して、願いを叶えてくれなかった神社に対して復讐を行った、というわけだ。なるほど、筋は通っている。けれど

「でも千夏さん。それはないよ。だって、手術はまだなんだもん」

 だからまだ成功も失敗もない。男の子がこの神社を恨む理由は、ない。

「そっか、でも、私の想像が外れていて良かったよ」

「うん」

 とは言え、謎は謎。さっきまで大して気になっていたわけでもなかったのに、一度お姉さんに話してしまうと、なんだか気になってしまう。僕はお姉さんのことを見つめた。

「ねえ、千夏さん」

「ん?」

「この謎、解いてみない?」

 放火は防がれた。これ以上調べたって、真相がわかったからといって、何かが変わるわけではない。それでも、気になってしまう。

「だめかな?」

 僕は恐る恐るお姉さんを見上げた。僕みたいな人間のことを、ヤジウマというらしい。最近学んだ言葉だ。事件に関係ないくせに、気になるからという理由であれこれ嗅ぎまわる人のことだ。

 それはあまり褒められたことじゃない。犯人の男の子だって、これ以上事件のことについて触れられたくないかもしれない。

 でも、それでも。

「気になるんだ」

 お姉さんのことをじっと見つめる。お姉さんも僕の瞳を見つめた。僕は、お姉さんが反対するんじゃないかと思っていた。

 しかし、その返答は思ってよりあっけらかんとしていて、拍子抜けしてしまった。

「うん。いいんじゃない? 一緒に考えようか」

 お姉さんは涼しい顔をしている。それどころか、心なしか少し楽しそうでもあった。

「うん!」

 安心して、胸をなで下ろす。

 きっと、お姉さんならこの謎も軽々と解いてしまうのだろう。僕は期待に胸を膨らませて、お姉さんのことを見た。

 お姉さんはその期待に応えるように、微笑んだ。

 そして

「じゃあ、早速調査してきたまえ」

「へ?」

 お姉さんは建物を指で示した。

「へ? じゃないでしょ? 事件はここで起きたんだよ。謎解きの基本は調査、だよ。ほら、あの拝殿で放火が起ころうとしたんでしょ? だったら、調べなきゃ」

 へえ、あの建物は拝殿っていうのか。僕はこの夏、また一つ賢くなった。

 ……じゃ、なくて。

「考えるだけじゃ駄目なの?」

「駄目なの。調査しなきゃ」

「……まあ、それはいいけど、お姉さんは?」

 調査する、と言ったくせにお姉さんはベンチから動こうとしない。お姉さんは気怠げに手を振った。

「やだよ。暑いもん。きみが調査してきてよ。そしたら私が考えるから」

「……」

 呆れた! 本当に大学生って面倒くさがりだ!

「もう、わかったよ。調べてくるよ」

 僕は渋々一人立ち上がり、拝殿へと向かう。

「熱中症には気をつけるんだよー」

 どの口が言っているのか! 僕は振り返りもせず、ひらひらと手を振った。

 ともかく、調査だ。確かにお姉さんの言う通り、この神社を調べることで明らかになる事実があるかもしれない。

 一体、どんな真相が待っているのだろう。僕は少し緊張しながら石の道を歩いた。


 石の畳を歩くと、左右に狛犬が見える。狛犬も石で作られており、片方が口を開け、片方が口を閉じている。シーサーと同じだ。

 そしてその狛犬とすれ違うと、そこに拝殿がある。正面に立つと目の前に賽銭箱が見えた。

「ここだ」

 思わず、呟く。ここで少年はマッチを擦っていた。拝殿の正面に立って、火を起こしていたのだ。

 僕は左右を見回し、足下を見る。しかし、やっぱり調査したところで、何かが見つかるわけでもなさそうだ。できることと言えば、情報の確認くらいだろうか。

 僕は左を向いた。拝殿の向かって左側には、町へと繋がる歩道がある。木が植えられており、視界が開けている方ではないけれど、でも歩道からも拝殿は見えるだろう。

 つまり、拝殿の正面でマッチを擦っている姿は、歩道から丸見えだ。もしも散歩している人がいたなら、少年の行動に気づいたはずだ。近所のおじいさんが目撃した、という情報との矛盾はない。

 他に何か無いだろうか。僕は拝殿をぐるりと一周することにした。さっき確認した通り、左側は歩道だ。

 僕はそのまま裏側へと回った。裏側は木がたくさん生えていて薄暗かった。それに、仏様みたいな形の石が、何故かいくつも置かれていて、少し不気味だ。僕は少し早足に拝殿の裏を歩いた。

 右側も、裏側ほどではないけれど、木が植えられていて薄暗い。それに左側と違って道は無く、塀があるだけで窮屈な感じがする。

 そしてまた正面。

「ううむ」

 中に入るわけにもいかず、拝殿に関する情報がこれ以上手に入るとは思えなかった。まあ、そもそも拝殿の中で事件は起こっていないので、入ったところで意味なんてないだろうけれど。

 正面に立って、拝殿を見つめてみる。ぼろぼろ、というわけではないけれど、やっぱり古い。腐っているのか、カビが生えているのか、所々黒ずみ、緑色に濁っている。

 次に視線を落とし、賽銭箱を見つめる。金属製の箱でそこそこ大きい。両手を伸ばしても抱えられるか怪しい。その上、台の上に乗っているので高さもある。

 僕は賽銭箱をそっと覗いた。何枚か仕切りがあるだけで、中を覗くことは簡単だった。やはりというか、中にあるのは小銭ばかりで、見える限りでいえばお札は千円札が一枚、小銭の上に乗っているだけだった。

 あんまり覗くのも罰当たりな気がして、僕は直ぐに顔を上げた。

「ふう」

 額に浮かんだ汗を拭って、一呼吸。

「これで一体、何がわかるんだよ」

 ぽたりと汗が流れ落ちた。


 ざっと調査を終えて、お姉さんの待つベンチへと向かった。

「おかえり」

 そう言って、お姉さんはサイダーを僕に渡した。僕が拝殿の周りをうろうろしていた間に、神社内の自動販売機で買ったのだろう。サイダーはまだキンキンに冷えており、持った手が少し痛いくらいだ。

「いいの?」

「うん。調査お疲れ様」

 今日は暑いので冷たい飲み物は嬉しい。それに、お母さんはあまりジュースを買ってくれないので、サイダーは僕にとって最高の飲み物なのだ。

 僕は早速キャップを開けた。ぷしゅっとサイダーがしぶきを上げて、甘い匂いが香った。そのまま乾いた喉に流し込む。しゅわしゅわとした感覚を、喉の奥で感じた。ちょっぴり炭酸が痛いけれど、身体が潤っていくのがわかる。僕はこの感覚が好きだった。

 隣でも、ぱしゅ、という音が鳴った。「ほんと、暑いね」と言いながら、お姉さんがサイダーを飲んでいる。ごくんごくん、と豪快に飲む喉の動きが、見ていて気持ちよかった。

「やっぱ夏は炭酸に限るね」

 千夏さんは心地よさそうに言った。

「うん」

 僕も頷く。まだ熱気が漂う首に、ペットボトルを押しつけた。ひんやりとして、籠もった熱が吹き飛んでいくようだった。僕のまわりだけ、気温が下がっているような感じがして、心地良い。

「それで」

 その冷たさをしばらく感じていると、お姉さんが切り出した。

「調査はどうだった?」

「ううん……」

 思わず呻き声を上げてしまった。一応調査したけれど、だからといって大きな手がかりは見つかりそうにない。だって、事件は一週間も前なのだ。何か残っているほうがおかしいじゃないか。

 そう思いつつ、念のため、先ほどの調査で得られた情報をお姉さんに伝えてみた。全く関係がなさそうなことでも、そこにヒントがあるかもしれない。僕は神社について……特に拝殿については、できるだけ詳しく伝えるように心がけた。

「なるほど、確かに……」

 伝えてみると、早速お姉さんは何か考えているようだった。さすがお姉さんだ。もしかすると、もう真相にも辿り着いているかもしれない。

「確かに?」

 僕は期待を胸に膨らませ、お姉さんをじっと見つめた。

 そして、お姉さんは顔を上げ、

「うん。確かに、狛犬とシーサーって似てるよね」

 がっくし。思わず肩を落とす。いや、確かに似ているけど。

「どっちが先なのかな? もしかして先も後もなくて、沖縄と本州の両方で、似たような神の使いを崇めたのかな。だとしたら面白いよ。狛犬、あるいはシーサーは実在していて、だから離れた二つの地域で同じような形になったのかも」

「知らないよ……」

「まあ、多分インドか中国に起源があって、それが違う形で発展した、とかだろうけどね」

 お姉さんは少し退屈そうに言った。しかし、狛犬とシーサーの違いが、今回の放火事件に関係するとは思えない。というか絶対関係ない。

「それで」

 僕はお姉さんの話を遮って、話を促した。

「放火について、何かわかったことはある?」

「そうね」

 お姉さんはまた、じっくりと考えて

「うん、あるね。ちょっぴり不思議なところが」

 平然と、そう言った。

「……!」

 僕は思わず目を見開いた。

「本当に? あんな情報の中に?」

「本当に。きみの情報の中に」

 思わず身を乗り出してしまった僕の隣で、お姉さんは涼しい顔をしている。

 僕はもう一度調査のことを思い出し、何か手がかりがないか考えた。でも、何度考えても、何もわからない。お願い事があった男の子がこの神社に放火する理由なんて、全く思い浮かばない。

 しかし、お姉さんは違うようだった。

 お姉さんは数回頷きながら、考えを纏めているようだった。そして

「うん。なんとなく見えてきたね」

 お姉さんは僕に微笑んで、言った。

「この事件の真相が、わかってきたよ」


 僕のあんな調査で一体何がわかったというのだろうか。僕にはさっぱりわからない。だけれども、お姉さんは真相を見抜いたみたいだ。やっぱり少し悔しい。

 お姉さんはやっぱり大人で、頭が良くて、僕じゃまだまだ届かない。手紙の謎を解いた時と同じように、今回も話を聞いただけで解いてしまったのだ。

「……それで、真相って?」

 僕は早速尋ねた。しかし。

「その前に、色々整理していこっか」

 お姉さんは真相を直ぐに教えてくれなかった。

「私も、まだ全部理解できているわけじゃないんだ。ゆっくり、順番に話しながら整理していくね」

 僕は頷いた。僕も順番に説明を聞きたい。

 僕の調査を聞いて、お姉さんは「ちょっぴり不思議なところがある」と言っていた。まずは僕の調査のどこに不思議があるのか、そこからだろう。

「千夏さん。僕の調査で気づいたことって、何?」

「そうだね。そこから話そうか」

 お姉さんは拝殿を指した。

「ねえ、きみが拝殿に放火したいって思ったら、どうする?」

「え?」

 その突然の質問に、ちょっとだけ混乱した。その問いが一体、僕の調査とどんな関係があるのだろう。不思議に思いながら、答える。

「えっと、どうだろう。でも、あの男の子とあんまり変わらないんじゃないかな。マッチとか持って、拝殿の前に行って……」

 火を付ける、と言おうとしたところで、お姉さんが遮った。

「本当に?」

「え?」

 だって拝殿に火を付けるのだから、火を付けるものを持って、拝殿に近づくしかないじゃないか。

 そう言うとお姉さんは首を横に振った。

「それはそうかもしれない。でも」

 お姉さんは強調して言った。

「拝殿の前に、行く?」

「え? ……あ」

 言われて、気づいた。そうだ。確かに少し変だ。

「そっか。僕なら、正面には立たない……!」

 男の子は石の敷かれた道を通って、狛犬の間を通り、拝殿の正面に立った。そこでマッチを擦っていたのだ。

 しかし、拝殿の前には大きい賽銭箱がある。参拝客と拝殿の間に存在しているのだ。

 そこから拝殿に火を付けようとすれば、賽銭箱が邪魔になる。身を乗り出すしかない。いや、小学低学年だったら、身を乗り出したって届かないかもしれない。

「それに」

 お姉さんは付け加えるように言った。

「少年が火を付けようとした時は七時。まだ辺りは明るかったはずだよ。そんな時に正面から火を付けようとしたら、近所の人に見つかるのなんて当然じゃない? 火を付けたいなら、木々がたくさん生えている裏側とか、塀が迫っている右側から付けた方が、バレにくいと思わない?」

 言われて見れば。神社に火を放つなんて、どう考えたって悪事だ。火を付ける時、後ろめたさが少しはあったはずだ。ならば人目を避けようとするのが普通だろう。

「じゃあ、どうして男の子は拝殿の前に立っていたんだろう……」

 「人目を避けなかった」はともかくとしても、「賽銭箱を避けようとしなかった」は明らかにおかしい。拝殿に火を付けようとしているのに、拝殿に手が届かないのでは意味が無い。

「簡単だよ」

 お姉さんは言った。

「男の子が燃やしたかったのは、拝殿じゃないんだよ」

「……」

 正面に立っては、拝殿は燃やせない。ならば、男の子の目的は拝殿ではない。

 今まで考えてもみなかったけれど、確かにその通りかもしれない。しかし

「じゃあ、男の子の目的は一体なんだったの?」

「そりゃあ」

 お姉さんは拝殿……拝殿の正面を見つめた。

「男の子は、あそこに立ってたんだ。だったら、男の子の目的はそこにあるはず」

 僕も拝殿を見つめる。

「……」

 男の子は拝殿の目の前に立っていた。けれど、男の子の目の前にあったのは拝殿じゃない。拝殿の前に、それはある。

 小さく、僕は呟いた。

「……賽銭箱」


 男の子のターゲットがわかった今、僕は全てを理解した。

「わかったよ。千夏さん!」

「お、本当?」

 僕は大きく頷く。男の子の狙いが賽銭箱だったというのなら、放火の理由なんて一目瞭然だ。

「千夏さん。男の子には、願い事があったんだ。お母さんの手術の成功を願って、この神社に来ていた」

「そうだね」

「だけど、神社にお願い事をする時、必要なものがあるよね。……お賽銭だよ」

 神様に願いを叶えて欲しいなら、何かをお供えしなければいけない。当然のルールだ。そう……神様にお願いするにも、お金が必要なのだ。

「でも、あの男の子はまだ小学二年生。お金をたくさん持っているわけじゃない」

 それに、あの男の子は毎日お参りしていたという。たとえ一回のお参りに十円だったとしても、一ヶ月で大体三百円。当然、お賽銭以外のことにだってお金は必要だ。その全部がお小遣いだけで足りるかどうか。

 だから僕は考えたのだ。もし、もしも。男の子がお参りに必要なだけのお金を持っていなかったとするならば。

「千夏さん。男の子は、お金がなかったんだ。そして、男の子はお賽銭箱に火を付けようとした。そう考えたら、男の子の狙いは簡単だ」

 当然、お賽銭箱の中にはお金がたくさん入っている。そして火を付ければ、箱は壊れる。

 つまり

「男の子は火を付けて、お賽銭箱を壊そうとした。箱が壊れれば、中からお金が出てくる。……そうすればお金が手に入る!」

 それが男の子の狙い。お賽銭のお金を手に入れようとしたのだ。お賽銭箱を壊すことに……よって……? あれれ?

 思わず頭を捻ってしまう。そうだ。男の子はお賽銭がしたかった。それなのに、お賽銭箱を壊すなんて……神社のお金を奪うなんて、変じゃないだろうか。

 僕が疑問に思っていると、お姉さんも苦笑いした。

「そうだね。神様にお願い事をしようっていうのに、神社のお金を奪うなんて、罰当たりもいいところだよ。それじゃあ、神様はお願いを聞いてくれないんじゃないかな」

「……そうだよね」

 お姉さんの言う通りだ。思いついた時は「これだ!」と思って、そのおかしさに気づかなかった。でも、これは明らかに変だ。

「ううん……」

 もう一度考えてみる。お金を奪う目的以外に、一体どんな理由があるだろう。いずれにせよ、神社のお賽銭箱に火を付けようとしたならば、やっぱり罰当たりになって男の子の願いは叶わなくなってしまうのではないだろうか。

「そもそも、お賽銭箱は鉄だよ。火はつかないんじゃないかな?」

 考えれば考えるほど、疑問は出てくる。僕にはもうお手上げだ。

「千夏さん」

 僕は隣に座るお姉さんを見上げた。僕には解けない。でも、お姉さんなら、きっと……。じっと見つめると、お姉さんは静かに頷いた。

「うん。謎を解いて行こうか」

 お姉さんは拝殿……賽銭箱を見つめた。

「じゃあまずは、さっきの疑問から。賽銭箱は鉄製だって言ってたよね」

「うん」

「火で鉄を溶かせないわけじゃないけど、でも賽銭箱だから頑丈に作られているはず。マッチ程度の火じゃ、きっと壊れない。……っていう実際の話はともかく、まあ鉄だから燃えないってことは、小学二年生でもわかるよね」

「……じゃあ、やっぱり、賽銭箱を燃やそうとしたわけじゃないっていうの?」

 だとするならば、男の子は一体何に火を付けようとしたというのか。一体何が目的だったのか。その行動は果たして、お母さんの手術の成功が叶うような行動だったのか。

 お姉さんは首を横に振った。

「男の子の狙いが賽銭箱だったことに間違いはないと思う。でも、火を付けようとしたのは外側じゃないんだよ」

 お姉さんは手で箱を描くと、上からそれを指さした。

「箱の中、だったんだ」

「箱の、中」

 確かに考えなかった可能性だ。でも、思わず首を傾ける。

「中って、お金を燃やそうとしたってこと?」

「そうだね」

「自分もお賽銭している、あのお賽銭箱の中身を?」

「そうだね」

 ……意味がわからない。それじゃあやっぱり罰当たり、というより自分のお願いを取り下げてしまうような行為じゃないか。

「男の子はお母さんとケンカして、お母さんの手術の失敗を望んだ、ってこと?」

 だけれど、それはあまりにも酷い。お母さんとケンカしたからといって、手術の失敗を願うなんてあり得るのだろうか。

「まあ、可能性はゼロじゃないけどね。もうちょっと考えてみようか」

 お姉さんは微笑んだ。

「まあ、私だって真実を見たわけじゃない。あくまで仮説に過ぎないよ。それでもいい?」

 僕は頷く。前回も今回も、僕が勝手に知りたがっているだけだ。だから、僕が納得できれば、それでいいのだ。

「うん、じゃあ、私の考えね」

 一体、どんな真相が隠されているのだろう。男の子は何がしたかったのだろう。お姉さんの言葉に耳を傾ける。

「男の子は自分の願いを取り下げようとしたわけじゃないと思うんだ。多分、逆だよ」

「逆?」

「うん。自分のお願いを守ろうとしたんだ。そのために、お賽銭箱の中身を燃やそうとしたんだよ」

 やっぱり、意味がわからない。

「っていうか、そもそもお金だって金属じゃん。燃えないよ」

「そう?」

 お姉さんはポケットに手を入れた。そして財布を取り出し

「確かに燃えない。小銭は、ね」

「あ」

 それでわかった。お姉さんは財布からお金を取り出した。そうだ。確かにある。燃える、紙のお金。

「お札!」

 お姉さんの手元には千円札。確かに、これならマッチで燃やせる。お姉さんは頷いた。

「その男の子は、賽銭箱のお札を……お札だけを、燃やそうとしたんだ」

「……」

 なるほど、確かにお札は燃える。マッチで燃やせる。それに、賽銭箱の前に立った時、周囲にある燃やせるものはお札だけ。男の子の狙いがお札だというのは納得のいく話だ。

 けれど

「でも、どうしてお札だけ燃やそうとしたの? 大体、賽銭箱の中のお札は、男の子のものじゃないでしょ?」

 あの男の子は小学二年生。そしてあの子の家が特別お金持ちだなんて、聞いたことがない。ならば、お賽銭で千円なんて大金を一度に入れるなんて、少し考えられない。

 だとすると、男の子が燃やそうとしたお札は、他の人が入れたものと考えられる。でも、それを燃やして一体何になるというのか。

 お姉さんは少し困ったように笑った。

「じゃあ、ちょっと考えてみてほしいんだけど、男の子にとって、一番起こって欲しくないことってなんだろうね」

「え?」

 そんなのは決まっている。今さら確認するまでもない。

「お母さんの手術の失敗、でしょ?」

 それを避けるために、男の子は毎日神社に来ていたのだ。

「うん。そうだね。じゃあ、ここで思い出して欲しいんだけど、その男の子は意地悪されてたって言ってたよね?」

 僕は頷く。あの引っ込み事案の男の子は、タケルくん率いる意地悪グループから嫌がらせを受けていた。

「じゃあ、いじめっ子達は男の子に意地悪するために、何をしたのかな?」

 それも、簡単だ。

「この神社にくる時に邪魔をしたって聞いたよ」

 男の子が参拝するのを邪魔したのだ。……でも、それが一体なんだろう。それが賽銭箱の謎とどう繋がるのだろう。

 そう思っていると、お姉さんは言った。

「でも、男の子は決して折れなかった。諦めなかった」

「え?」

「きみ、言ったでしょ。男の子にとって、この参拝は大事なことだったって。だから意地悪されても、邪魔されても、それでも毎日来たって」

「うん。そうだね」

 手術の成功が懸かっているのだ。一生懸命にもなるだろう。

「でも、それでいじめっ子達はおとなしく引き下がるかな。意地悪しても絶対に諦めない男の子を見て、面白く思わなかったんじゃない?」

「……まあ、確かに」

「じゃあ、いじめっ子達は、別の意地悪を考えるわけだ。男の子が、とっても困っちゃうような、悲しんじゃうような、意地悪を」

「別の、意地悪」

 それは一体なんだろう。どんな意地悪だろう。

「ここでもう一回、思い出して。男の子が一番起こって欲しくないことは?」

「……お母さんの手術の失敗」

「そう。裏を返せば、いじめっ子達の願いはそれだった、とも考えられるよね」

 そして、お姉さんはゆっくり、別の言葉で言い換えた。

「つまり、『男の子のお母さんの手術が失敗しますように』って、願ったって考えられるんだ」

「あ……」

 僕は、全てわかった。そういうことか。僕は悔しくなって、思わず拳に力を込める。お姉さんはそのまま続けた。

「そして、いじめっ子達の中には、中学生のお兄ちゃんもいた。……小学生のきみには、ちょっと想像できないかもしれないけど、中学生にとって千円はそこまで大きなお金じゃない。勿論、道ばたに捨てることはできないだろうけど……楽しむためなら、意地悪するためなら、簡単に使えるお金だ」

 僕は頷いた。お姉さんはそこで口を閉ざした。お姉さんの代わりに、僕が続きを口にする。

「つまり、中学生のお兄ちゃんは千円を使って、手術の失敗を願ったんだ。その男の子の、目の前で」

 お姉さんは小さく頷いた。思わず、ため息を吐く。

 その時の男の子の気持ちは、どうだっただろう。千円なんて大金を、ぽんと賽銭箱の中に入れられてしまったのだ。自分が毎日お参りしていた、この神社の、お賽銭箱の中に。

 ……きっと、絶望したに違いない。毎日のお参りが、大金の前に敗北したかのように思えたはずだ。自分の願いが、邪悪な願いに上書きされてしまったような、そんな絶望に襲われたはずだ。……お母さんの手術が失敗しちゃうかもしれないと、怖くなったはずだ。

「だから、男の子は火を付けた」

 小銭は金属。お札は紙。中に火を付ければ、紙のお札だけが燃える。邪悪な願いだけが、取り下げられる。

「これが男の子の目的。お母さんの無事を願った結果の行動だよ」

「……」

 これは、唯の仮説だ。想像だ。だから真実であるとは限らない。

 でも。

「うん。納得した」

 僕は大きく息を吸って、吐いた。


 そよりと風が吹いた。生暖かい風が頬を撫でる。

「……男の子のお願いは、叶わないのかな」

 ぽつりと呟く。男の子が何回お参りして、何円お賽銭したのかはわからない。でも、タケルくん達が入れたのは千円だ。恐らく男の子のお賽銭より上回ってしまっているだろう。

 そうなれば、神様が叶えるのはタケルくん達のお願い、つまり、手術の失敗ということになってしまうのだろうか。男の子のお母さんは、助からないのだろうか。

 悲しくなって、俯いてしまう。

「おばかさん」

 その時、コツンとお姉さんが僕の頭をつついた。

「神様がお金で動くわけないでしょう」

「え?」

「願いを叶えるために対価を要求するなんて、それは悪魔のすることだよ。神様はね、何も要求しない。私達は願うだけでいい」

「……そんなの嘘だよ。だって、お供えは必要じゃん」

 しかし、お姉さんは首を横に振った。

「お供えは対価じゃない。感謝の気持ちを伝えるためにしているんだよ」

「……そうなの?」

 でも神様だって、いっぱいお供えしてくれる人のことを助けたくなるのではないだろうか。まだ納得していない僕を見て、お姉さんは微笑んだ。

「よく考えてみてよ。人が一番神様の力を必要とする時っていつだと思う?」

「え? それは、とっても苦しい時かな?」

「そう。苦しい時だよ。お腹がすいて、動けなくて、傷ついて……お供えするものなんて何も持ってない時こそ、神様は必要なんだ。そんな傷ついた人のことを、神様は見捨てるのかな?」

「あ……」

「確かに、お供えは大切。神様への感謝は忘れちゃいけない。でも、大事なのは量じゃない。気持ちだよ」

 お姉さんは拝殿を見つめた。

「勿論、どんな理由があっても、火を神社につけるなんて駄目。罰とかそういう話以前の問題だよ。でも、そこまでしてお母さんを助けようとした男の子のお願いと、邪悪な意地悪によるお願い。果たして神様が聞くのは、どっちのお願いかな?」

 考えるまでもない。

「そっか」

 僕は笑顔になった。やっぱり、お姉さんに聞いてみてよかった。僕はまだ冷たいサイダーをぐびりと飲んだ。爽やかな味が喉を流れる。

 夏の味がした。


 眩しい太陽が沈んで夜になると、気温も下がる。クーラーも必要ないくらいだ。僕は自分の部屋で日記を開いていた。

「やっぱりお姉さんは凄いな」

 一人呟く。この間の手紙の真相も、今回の事件も、お姉さんはいとも簡単に解いてしまった。現場を見たわけではないのに、話を聞いただけで解いてしまったのだ。

 僕は今日の出来事を日記に書き込んでいく。日記は僕の習慣だ。この日記さえ読めば、その時の事が簡単に思い浮かぶ。

 特に今日みたいな、特別なことが起こった日のことは絶対に書いておきたい。僕はなるべく詳しく今日のことを書いていく。

「お姉さんは不思議な人だな」

 お姉さんの知恵を借りたのはこれで二回目だ。科学館で働くお姉さんは、やっぱり勉強が得意で、頭が良いらしい。

 お姉さんの言う通り、今日の話は想像に過ぎない。真実は違うかもしれないのだ。それはわかっている。けれど考えれば考えるほど、あれ以外男の子が火をつけた理由が思い浮かばない。お姉さんの推理が正しい気がしてくる。

「推理か……」

 ふと「推理」という言葉が気になった。そうだ。推理だ。今日のお姉さんがしてみたそれは、推理というやつだった。

「名探偵、チナツ」

 呟いて、くすりと笑う。探偵という言葉が妙に腑に落ちた。千夏さんはとても落ち着いていて、大人っぽくて、それでいてちょっと面倒くさがり屋で……まさに、僕の想像する探偵にぴったりな人だった。

 お姉さんが探偵ならば、僕は助手といったところだろうか。そう考えて、少し頭を捻った。

 僕が情報を集めて、お姉さんが考える。なるほど、確かに配役は丁度良い。探偵と助手の関係も、それはそれで楽しそうだ。

 けれど。僕は少し考えてしまう。僕は、助手にはなりたくない。探偵がいい。

 別に、お姉さんに探偵役を取られて悔しい、というわけではない。僕はまだ小学生で、お姉さんは大人。だから仕方がないと思う。大半の謎は千夏さんに譲ろうと思う。

 それでも、僕が解きたい謎が一つだけある。

 それは他でもなく、千夏お姉さんの謎だ。千夏さんは僕に何も教えてくれない。謎は解いてくれるけど、でも、お姉さん自身のことは何一つ教えてくれない。

「……」

 今日だって、お姉さんには不思議があった。今日、謎を解いてからというものの、お姉さんはじっと神社を見つめていた。そして言ったのだ。

「子供って、純粋だよね」

 意味が分からず首をひねると、お姉さんは続けた。

「ほら、あの男の子。火をつけたのは、お母さんを助けるための行動だったでしょ? とっても素直で、純粋だよね」

 その説明を聞いてなお、僕はあまり納得できなかった。確かに、あの男の子は純粋かもしれない。けれど、それで「子供が純粋」とは言えないと思った。

 だって、そもそもこの事件の始まりはいじめっ子達の意地悪だ。僕はお姉さんの推理を聞いて、「なんて邪悪なんだ」と感じたのだ。とてもじゃないけれど、「子供って純粋だね」なんて結論にはならない。

 けれど、僕はお姉さんに何も言えなかった。

「……」

 その時のお姉さんの目は、どこか遠くを見つめていて、何か悲しそうな目をしていたのだ。お姉さんはじっと動かず、ペットボトルの表面に結露した水滴が落ちて、お姉さんのジーパンを濡らしていた。

 お姉さんには不思議がいっぱいだ。お姉さんは何者なのか。お姉さんはどうして僕の持ち込む謎を解いてくれるのか。お姉さんが時折見せる悲しみは、一体どこから生まれているのか。

「いつか、解けたらいいな」

 そしていつか、お姉さんの本当の表情が知りたい。大人としてとか、科学館のスタッフとしてとか、探偵としてとか、そういう顔もいいけれど、そればかりでは少し寂しい。

「僕だって、探偵に……」

 呟いて、日記を終える。これから、一体どんな謎が僕を待っているのだろう。僕にはまだ、わからない。

 けれどこの日……お姉さんを探偵だと認識したこの日。僕の心に、何か熱いものが灯ったのだった。


 あの子のお母さんの手術は、今週の土曜に行われたらしい。それを知った僕は、なんとなく土曜日に神社にお参りに行った。関係ない僕なんかが祈ったところで、何の意味もないだろうけれど、それでも祈らずにはいられなかった。

 週明け。登校中、例の男の子を見た。その男の子は、とても明るい笑顔を作っていたのだった。

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