tp19 三日目の正直者たち③ ――Run, Reflection, Re……――

 いけない。

 それは、俺の心の中で上がった声であり、笙真の上げた肉声でもあった。

 

 焦燥の向こうで、彼女の《まほう》が少年の右の頬を浅く切り裂いていた。

 緋色が、風に散った。


 気がつけば、俺たちの身体は駆け出していた。


「待って、待ってよ、――待つんだリベ!」

「駄目です、レベッカ様!」


 仔狐の嗅覚が、風に紛れた血の匂いを捉えた。耳朶を打つ笙真とペギーの声が、近づきかけ、すぐに遠ざかる。


 落ち着かなきゃ。思うほどに、心は空を掴むみたいだった。

 鋏を四散させようとして、すぐに放棄する。激しく揺れる視界に、とてもじゃないけど、集中できない。不可能だと悟らされる。

 魔法じゃなくて、俺が落ち着かなきゃ。この子を止められない。ううん、この子を止めたい。

 早鐘を打つ心臓。止まって、止まって――!


 必死に思っていると、少しだけ前足が思い通りになった。ぜいぜいと途絶えそうな呼吸を捉えた。氷の上に置かれたみたいで、きっかけの無かったつま先が、ようやく手にした取っ掛かり。

 全力でブレーキを踏む。

 

 いや……!

 心の中から、又叫ぶレベッカの声がした。

 再び振るわれた赤銅色の《鋏》が、膨らみきった尻尾の先を掠める。無視して、さらに踏み込む。幸いにも痛みは感じなかった。

 ほとんど同時に、下草の感触が肉球の先に戻ってきた。


 ふわりと、全身を絡め取られる感覚。

 ペギーの《鳥》の魔法だ。じたばた藻掻く身体を、内側から大声で叱責した。 

 放して、じゃない、止まれってば!!


 横殴りするような怒声に、怯えた身体が女の子の姿をとる。

 七色にじいろに染め上げられた赤毛が絡まる指先。三度みたび呼び出された鋏を、追いついた笙真が握りしめて、物理的に無力化する。


 朝の冷えた空気と恐怖に晒されて、かたかたと鳴り始めた小さな肩や背中を、頬から血を流し続けていた笙真の上着が、覆い隠した。

 

 俺主導で見上げた、少年の姿を目の当たりにしたことで、レベッカはようやく、冷静さを取り戻したらしい。


「ごめんなさい」


 二度目の謝罪。

 力のない幼子の呟きが、森の静かなざわめきの中に、ぽつんと流れ、鋏と一緒に掻き消えた。


「…………魔法は止まったようだな。宮代笙真。お嬢様に、お召し物を」

「こんな状態じゃあ無理でしょ。レベッカ嬢が落ち着くまで、休憩にしよう」


 拾い集めた洋服を手にしたペギーが、こわごわと瞳を覗き込んでくる。

 魔法の状態を確かめていた侍女の少女を、苛立たしげに振り返った笙真は、空っぽになった拳で乱雑に頬を拭って、目を伏せた。


「笙真君。ほっぺと手に、血が」


 胡座を組んだ彼の胸元で、縮こまっていたお嬢様がゆるゆると指を伸ばす。

 頬に届きかけた俺たちの手を、袖口でさりげなく遠ざけて、笙真が大きく息を吐いた。

 

「……よければ、俺がかわりに仕度しようか?」


 あまりにも見ていられない。自分の心だけに従って、俺は声を上げてしまった。やらかしたと思い知らされるまで、一秒もかからなかった。

 少年が示した表情は、痛いだとか、悔しいとか、とにかく一言にはできない複雑なものだったからだ。


 憔悴しきった彼の顔を見せつけられて、お嬢様は、ますます所在なさげに背中を丸めてしまう。

 彼女にあわせて、俺だって引き下がるしかない。笙真の顔が見えなくなる。

 入れ替わるように視界に飛び込んできた小さな握りこぶしが、きゅっと握り直された。


 ねえ、お嬢様。内心で呼びかけた俺に、途切れ途切れの涙声が鼓膜経由で返ってくる。


 リベのせい。

 何度も震えていた喉が、上げたはずの声。

 それなのに、辛うじて俺が聞き取れたのは、たったこれしかなかった。


 そんなことない。君のせいじゃない。


 彼女の心を軽くするために、ごめんと思い浮かべたけれど、返事は戻ってこなかった。


 一方通行に規制された、彼女と俺のやり取りルートに、やりにくいなと、心から思わされる。


「……キミたちに任せていたら、お嬢様に風邪をひかせかねないな。お預かりするよ」

 

 わざとらしい嘆息を洩らした《鳥》の少女の、有無を言わせない硬い口調。その声と同時に、笙真の背中が跳ねた気配が、俺に伝わってきた。


 おんなじように、彼の苦悩を感じ取ったに違いない小さな主の身体を、上着ごと抱き上げると、ペギーは、侍女としての仕事を開始した。


 込み入った立ち木の合間へ下ろされる。

 剥き出しのままだった両方の足先へ、再び下草が触れたのだろう。

 ちくりとした感触が、足の裏やふくらはぎの辺りから這い上がってきた。


 一月前に教えられた通り、絶対に下を見ないように顎を上げた俺の視界へ、樹冠と思しきわずかに明るい緑色と、彼女の菫色が入ってくる。


 凍った湖面のようなペギーの瞳は、いつもより強い緊張感を湛えていたのかもしれない。

 ぼやけた視界のせいで、実際に判別できたのは、単純に色と明るさのみだったけれど。


 鮮やかすぎる手際で、ペギーはお嬢様の身支度を終えた。

 ようやく下を向くことを許された俺は、ペギーに手を引かれるままに歩きながら、目元を拭った。手の甲でも、顎先まで届いていた雫の存在を感じ取る。


 さっきまでと比べれば、格段に目が利くようになった俺の眼前で、目隠しの役割を終えた笙真の上着を、彼の腕に押し込む。


 あなたの手当はいたしませんからね。


 平然とうそぶいた侍女の声が、耳に届いた。

 それでも、上着と一緒に、何枚か絆創膏を渡しているあたりは、さすがペギーといえた。


 改めて、適当な切り株に掛けさせてもらった俺たちの長い髪を、侍女の少女が掬い上げた。

 出掛ける前と同じ、二つのお団子に結い直してもらう。


 ペギーの指に巻かれている、白い包帯の結び目を、お嬢様といっしょに追いかけながら、俺はどう口火を切ろうか考えていた。

 お嬢様も、同じだったらしい。俺よりほんの僅か早く口を開いたのは、レベッカのほうだった。


「ねえ、ペギー、そのお指」

「指のことなら、言わないでくださいまし。昨日ちゃんと謝っていただいております」

「でも、痛く見えるもの」

「でしたら、『ありがとう、ペギー』って、おっしゃってくださいな。痛いのは本当ですけどね、お礼を言われれば、痛いのなんてどこかに飛んでいってしまいますから」

「……ありがとう、ペギー。あたしね、髪の毛もお洋服も、ちゃんとしてくれて嬉しかった。ペギーの手が、痛かったのに、ありがとう。あと……あとね、ペギーとポーリャの二人ともだけど……」


 たどたどしく紡がれた言葉。その続きを手繰り寄せようと努力している五歳のお嬢様を慌てさせないよう、俺もペギーもじっと待つことにする。


「リベを止めてくれて、ありがと。……リベ、笙真君にも、謝ったり、ありがとうって、言わなきゃ」


 結わえてもらったばかりの、ふわふわした赤い毛束を手の中でもてあそびながら、吐露し終えた彼女は、決意を込めて切り株から飛び降りた。


 柔らかいスエードのショートブーツを翻して、俺と一緒に笙真のいるほうを振り返る。

 

 少し離れた場所で、彼はまだ地べたに腰を下ろしたままだった。

 上着は着ていなかった。後ろに投げ出した右腕で、仰け反り気味になった白いシャツの背中を支えている。


 数分前まで、お嬢様を守っていた膝は、もちろん空っぽだった。俺たちの身体のかわりに、左腕が添えられている。


 俺がつけてしまった右手の引っ掻き傷は然程さほどでもなさそうだけれど、お嬢様の《鋏》が傷つけた右頬のほうは如何にも痛々しい。貼られたばかりの絆創膏に、薄赤色がにじみ出ていた。


 お嬢様と俺が傷口に向けた視線や、近づいてくる軽い足音に気がついているだろうに、彼は宮代家「明かし」に伝わる魔法、「読み」を使う気配を見せなかった。

 それどころか、気まずそうに目を逸らされる。


 彼女が思い描いていたのと、全く違う反応だったのだろう。

 明後日の方向を見つめたまま、こっくりと黙ってしまった少年の姿に、お嬢様が、戸惑ったように声をこぼした。


「笙真君は、リベが、痛くしちゃったから、怒ってるの……?」

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