tp7 二人の足取り探し その二 ――gossiping at night――

 俺たちが足を踏み入れた、甲南湖かなごの湖を抱くその森は、俺が子どものころに遊んだ時と同じで、草木の湿った匂いがして、静謐だった。

 もちろん、無音という意味ではない。

 風で揺れた木の葉同士の擦れる音、ウグイスの鳴き声、そのほか雑多な生き物が立てるざわざわんとした環境音で溢れている。

 静かだと思うのは、さっきまで通りを満たしていた人々の営みを示す音が、遠くにしか聞こえなくなったせいだ。

 

「さすがに、警察も引き揚げているみたいだな」

「まあ、一月も経っちゃってるからね」

「一月か。翌日と二日目だけ紛れ込めたんだっけ?」

「うん。師匠に無理言ってね。統の知り合いだって分かったらすぐに帰されちゃった。二日目は、白鼠しろねずのまま黙って潜り込んだんだけど、すぐに見つかって子どもが来るところじゃないからって、問答無用でつまみ出されたよ。あとで師匠からも山ほど小言を聞かされたし」


 大人しそうな見た目のわりに、意外と行動的なところがあるんだな、宮代笙真。もしかして、先生もそうだったのだろうか。彼の背中を見上げながら思った瞬間。


「……わっぷ」


 突然蹴躓けつまずいた、ペギーの背というか、腰のあたりに顔から突っ込んじまった。

 俺の鼻の頭を受け止めた彼女のワンピースは、きちんと手入れされている洗濯物特有の、陽光をたくさん浴びたような、乾いた匂いがした。それから、ほんの少しだけの芯のある甘さも。反射的に、いい匂いだと思ってしまう。


「大丈夫?」

「うん、ペギーは?」

「私なら、平気。――鼻、赤くなってる」


 俺を振り返って、ワンピースの首元が開かないように片方の手で押さえながら、中腰になったペギーがすまなそうに言ってきた。


「赤いのは、鼻だけじゃなさそうだけどね。どうせまた、いい匂いとか思ったんでしょ」

「な」


 平坦な口調に、つつかれなくてもいい図星を突かれて、俺はバカ正直に硬直してしまう。

 鼻白んだ顔で、笙真のほうを見上げて、ペギーが口を開いた。

 俺に一瞬向けられた笙真の目と、同じくらい冷えきった声が、耳に届く。


「あのね、宮代笙真。デリカシーがないと言われたことはない?」

「あるけど、フルの『明かし』ってそういうものだから仕方ないじゃん。マーゴットはさ、女の子だし、『読み』のほうはセミだから、わかんないのかもしれないけどね。ちなみに、スバルもおんなじだよ。だって、ボクら親友だから」

「…………」


 違うって。魔法とデリカシーって、関係ないから。それは性格の問題なわけで。

 しかも、今の笙真が言ったスバルは多分、じゃないほうのスバルのことだぞ!


 頭のなかで、そう全力で思ってみたものの、「読み」の魔法を半分しか持ち合わせていない少女に、きちんと伝わるはずもなく、結局、当たられた側の俺がごめんと言うことで場を落ち着かせる流れになった。

 納得なんか、いくわけがない。


 なんとなく気まずくなって、距離を取ったまま、俺は二人のあとをついていく。

 足元は、まだ散策路が途切れてない。上を見れば、樹冠の重なりは、それなりにまばらで森の中は、中途半端に明るい。

 俺と、先をゆく二人のコンパスの長さは、全然違うので、時々小走りになって、離されすぎないようにしていると、散策路が大きく曲がったその少し先で、笙真とペギーが足を止めている姿が目に入ってきた。


「師匠の話だと、このあたりらしいよ。レベッカ嬢が、泣きじゃくってるのを見られた場所」

「嘘だろう。こんな人気ひとけのない場所で? 現に誰ともすれ違わなかったじゃないか」

「今の時期ならね。一月前は、桜の季節だったから」

「花見の見物客がたくさんいたんだろっ?」


 目撃情報について語る笙真と、彼のほうへ顔を向けたまま、細いバックストラップに支えられている右の踵へさりげなく指を這わせたペギー。

 そんな二人に追いついて、俺がものの役に立つことを示したい一心で、弾んだ息のまま会話に飛び込んだ。

 目元に少しだけ険を寄せたペギーを見ながら、軽く腕を組んだばかりの笙真が、驚いたように、きょろりと俺に視線を投じてきた。


「知ってるの、昴。甲南湖の桜」

「知ってるよ。こっちのじゃないけど、夜桜すごい綺麗だから、子どもの頃に何度も連れてきてもらって見てるんだ、俺。こっちは、夜桜は?」

「おんなじくらい綺麗だと思うよ。……今日はおしまいにしようか」


 呼吸を整えるため、ほんの数秒前までは膝についていたはずの両手だった、頼りなさそうな赤と黒の前脚。

 その下から、口をへの字に曲げた笙真の手のひらが差し込まれる。

 土埃まみれになっている緋色カーディナルレッドの彼のスニーカーがすぐさま、ぐんと視界の遥か下方へと流れた。

 脇から下の身体を宙ぶらりんにされた俺は、笙真が身につけていたフード付きベストの胸元に、有無を言う暇もないまま、全身を押し込まれてしまう。

 出掛ける前に約束していた外出の条件は、人間の姿でいることだったので、時間も魔力も残っていたけれど、今日はもう活動終了という意味らしい。

 仔狐になった俺を隠すため、笙真の手でジッパーを閉められたベストの中は、蒸し暑くて、薄暗くて、もう最悪の居心地。

 それでも、考えなしに何も身に纏っていないまま元に戻ったら、それこそペギーの懸念しているほうの「事故」になってしまう。

 彼女は、レベッカ嬢の身体で、俺がはしたないマネをすることはなんだってよしとしないたち・・なのだ。

 だから俺は、彼が忌々しそうに身体を震わせながら、無言でいた深い嘆息を感じなかったことにして、これ以上心が揺さぶられることがないように、耳と目を伏せた。

 

       ◇

 

「今日は戻るのに、えらくかかったな」

「……」


 笙真のベストの中で、図らずもそのまま眠ってしまったせいで、床に入っても目が冴えたままでいた俺は、網戸ごしのひんやりとした夜風に当たっていた。

 そんな俺に、部屋の扉を開いてすぐに気付いたのだろう。

 生真面目そうなお仕着せに戻っていたペギーが、返事も待たずに近づいてくる。

 ワンピースの裾から覗いているあいだ中、実は魅惑的だと思っていた、彼女の形の良いふくらはぎは、今、真っ白な靴下の中に隠されていて――違う違う、そうじゃなくて。

 こんなことを思っちゃったのは、昼間の笙真の発言にてられたせい。絶対にそうだ。

 そういうことにして、俺は、ゆっくりと彼女の顔のほうへ視線をあげた。

 

「『読み』を使う時の習慣が、なかなか抜けなくってさ。もう一月も練習してるってのに、んなりそう」


 習慣というのは、魔法を使う時に、なるべく効率的に「読み」取れるよう、気持ちをうんと昂ぶらせることだ。

 修練不足子どもの《二つ身デュプレックス》の場合、感情の揺れが変身を招いてしまうことは、ままあることらしいので、できるだけ落ち着くように努めてはいる。

 それでも、俺の思い出の中にあるのと、そっくりな甲南湖の湖の周りを何年かぶりに歩いたせいか、今日は全然上手くいかなかった。

 ついでに言えば、落ち着こうと努めすぎたせいで、再び変身するのに普段よりだいぶ手間をかける羽目にもなってしまった。

 正に踏んだり蹴ったりで、俺にとって、五歳に戻されたレベッカ嬢のものである、変身のための感情の閾値は、今日は特に、どうにもぎょしがたかった。


「十年以上も通してきたやりようを、たったの一月で変えようってのが、どだい無理な話なんじゃないか? 焦らなくて、いいと思うけど、私は」

「笙真君は、そうは思ってなさそうだけどね」


 「読み」と《二つ身》。

 必要な素養がまるきり違う、二種類の魔法を器用に使い分けることができる、俺より三つも下の少年が、苛立っていた様子を頭に浮かべながら、俺はペギーに返事をする。


「言えてる。だけど、無理なものは無理って言うのも必要だぞ」

「あいつなら言いそうだな、そういう風に」


 これも約束だから、名前までは出さないけれど、口真似を受けて言った俺に、彼女にしては珍しく、はにかんだ口調で返してきた。


「言いそうというか、言われたことがあるんだ」

「それが、惚れている理由?」


 思い切って、ストレートに聞いてやる。

 ややあって、彼女が俺にくれたのは、柔らかい打ち消し言葉だった。


「そんな単純な話じゃないよ。キミはそうじゃないのか?」  

「俺は、うーん……、どうだろう。どう思う?」

「どう思うって、知らないよ。知るわけがないじゃない。私は、キミと違って、小鳥さんには会ったことがないんだから。でも、そう聞くくらいだ。自分では、割合にシンプルな理由だと思ってるんじゃないかな? 乙女の勘ってやつだけどね。――明日はさ、今日みたいに足手まといにならないようにお互い頑張ろう。おやすみ」

「おやすみ」


 ここへ来てからの俺の記憶の中では、初めてとなる、冗談めかした口振りで告げて、菫色の瞳をもう一度和らげたペギーが、くるりと背を向ける。

 俺の身体レベッカ嬢と同じように、本来の姿ではないお仕着せに身をつつんだ少女の肢体が、ちょっとだけ右足を引きずりながら、ドアの向こうにある薄闇へ、吸い込まれるように消えていった。

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