20 サインコサインタンジェント
「どうされました」
「うむ、イカホくんからの手紙を読んで、もっとたぬき湯の商売を手広くやるべきではないか、と思ったのでな。服がきれいになる機械があるのだろう?」
「ああ、洗濯機ですね。けっこう時間はかかりますよ」
「時間がかかるのか。まあそこは時間魔法の使い手を配置すればよかろう」
サトゥルニア卿は牛乳を買ってぐびぐび飲みながら、
「学問所の建設について意見をもらいたい」と相談してきた。
「なんでわたしに?」
「イオンくんが以前、義務教育というものの話をしていてな。それが我が領地でできて、帝国全土に広がれば、民衆の識字率向上や文明を広げることに繋がるだろうと……イオンくんは忙しいから」
「分かりました。わたしの覚えてることならなんでもしゃべります」
「おお、頼もしい。まずは、いわゆる幼年学校に通う年ごろの子供たちは、どういったことを学ぶのだ?」
「まずは読み書きと計算ですよね。最初の一年は簡単な字と簡単な足し算引き算くらいで、そこから掛け算割り算難しい字、って感じです。それと外国語を学びます」
「子供にそんなにたくさんのことを教えるのか。『彼方』では庶民も大学を目指すのが普通と聞いたがやはり教育の質が違いすぎる」
「まあこの世界のやり方ってもんがあると思うので、無理して『彼方』に合わせなくてもいいのでは?」
「それもそうか。しかし参考になるな。幼年学校を出たあとはなにを教わるのだ? 中学校とかいうのがあるそうだな」
「中学校からは『算数』が『数学』になって、実用的な計算より難しい『ものの考え方』を学ぶと思います。国語も古典文学の勉強をしたり、外国語もより実践的になって」
「なるほど……数学か。大嫌いなやつだ」
「え、サトゥルニアさまも数学がお嫌いですか」
「ああ。大嫌いだ。家庭教師をつけられて毎日わけの分からん計算をやらされた。なんの役に立つのかと毎日イライラしていた」
「同じくです……中学高校と数学大っ嫌いでした」
「いや、勉強しに行けるのに嫌いとか言っちゃだめだろ、いやだめでしょう」
ニュートのツッコミは大変この世界らしいと言えた。
そう、学校に行けるというのはすごいことなのだ。それを嫌いというのは、この世界の庶民からしたら目玉の飛び出るような贅沢なのだ。
うぬぬ。
「でもさ、なんの役に立つかわかんない、サインコサインタンジェントみたいなのを勉強させられることを思うとさ、なにかもっと有意義なこと教えてほしいと思わない?」
「そもそもサインコサインタンジェントというのがわかんねーんだけど、『ものの考え方』を勉強してるんだったら役に立つ立たないの議論は無駄じゃねえのか? ものの考え方を学んでるわけなんだから」
ぐうの音もでないド正論なのであった。
この世界の人たちは学歴がなくてもとても賢いなあと思う。
サトゥルニア卿は真面目な表情である。
「まあ学校というのがどういうものかはなんとなく分かった。しかし学校を作っても通えるのは子供を働き手にしなくていい家だけなのだろうが」
「子供を働き手にする家ですか……」
「我が領地はさほど裕福ではない家庭が多い。子供も農作業や鉱山の採掘などに従事させられていることが多い。それでは学校がタダでも、そもそも行くことができない」
なるほど。
時計を見上げるとそろそろ閉店ガラガラの時間だった。当然お客さんのピークは過ぎている。わたしはサトゥルニア卿にお風呂を勧めた。
「いいのか? かたじけない」
サトゥルニア卿は嬉しそうに女湯ののれんをくぐっていった。
毎日毎日忙しい。現実世界の閑古鳥鳴きっぱなしのたぬき湯とはエラい違いだ。
忙しく働いていると趣味の時間が当然捻出できない。お客さんの少ない時間を狙って、ちょっと瞑想してみたりもするのだが、しかしこんなことでスキルが成長するのだろうか。
イオンだったら「ビジネススキルはたくさん身につけておいたほうがいいよ~」とか言うのだろう。しかしわたしが身につけねばならないのは光の転移者のスキルだ。
ビジネススキルだったら資格試験に受かれば習得できるが、光の転移者のスキルは瞑想するなり使ってみるなりしないことには成長しないのだった。
中学のころ、高校入試に役立つからと英検だとか漢検だとかがめちゃめちゃ流行った。でもわたしはなんとなく怖くて、クラスメイトがいま何級だとか次の試験はいつだとか盛り上がるのを遠巻きに見ていた。
まあそういう人間だから就職先が決まらなかったわけで。
いっそ中卒で工場に勤めるのが当たり前だった高度経済成長時代が羨ましいレベルだ。
しかしわたしという卵は腐って、政治家の演説に投げつけるものになってしまった。
はあ、と息をついて、とりあえず掃除すっかと立ち上がる。
浴場は現実世界にあるときよりずいぶんと衛生的に使ってもらえている。最初はお湯に毛玉やらウロコやらを落としていたお客さんたちも慣れてきたようだ。
男湯と女湯を掃除して、それから脱衣所のくずかごの中身も大きなゴミ袋に入れる。
帝都はゴミの日とかゴミの分別とかそういうことがなくて、どんなゴミもまとめて大きな麻袋に詰め、ゴミ置き場においておけばコボルトのごみ収集業者が片付けてくれる。
掃除を終えてさて寝ますか、と横になる。布団がたいへん恋しい。しばらくして眠りに落ち、それからどれくらい眠ったかよく分からないうちに朝になった。
またヤマトさんこと真っ黒いケットシーが牛乳とビールを届けにきた。所定の場所に設置する。
さあきょうも一日頑張るぞ。
現実に生きていたころとはずいぶん違う自分に苦笑しそうになる。むしろ呆れている。
風呂場のお湯を確認し、きょうのアルバイトは誰かなーと待っていると、ニュートとイカホとゲロが現れた。どうして三人で来たのだろう。
「サトゥルニアさまの公式依頼で、時間魔法を使える魔法使いを募集していたんです。ふだんの依頼も二枠に増えていました」
イカホが笑顔で言う。つまり従業員が三人増えたことになる。
「そりゃあありがたい……」
「これで夜中まで営業できるぜ。俺たちに任せろ」
たいへんありがたい。これだけ人数がいれば忙殺されることもなかろう。なによりニュートとゲロがいるので営業中に男湯の掃除もできる。
きょうも開店と同時にお客さんがやってきた。ゴミ収集の仕事をしていたらしいコボルトだ。コボルトは狗鬼とも言うやつで、この世界ではケットシーの犬版みたいな感じだ。ケットシーみたいにモフモフで可愛いという感じはないが、なんだか素朴そうな民族である。
犬なので、毛並みは全体的にベタっとしていて、ところどころ換毛期でモソモソになっている。これはきっと西部劇の転がる草みたいなやつだ。
ふと、インスタで見た、イオンの飼っていたポメラニアンを思い出す。確かに可愛かったが我が家で飼われていた猫はもっと可愛かったと思う。
たぶんわたしにはそういう文化についていく素養がないのだろう、インスタもLINEも削除して大変スッキリした。
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