行方
一〇月の横浜の夜は生ぬるく、風が吹くとやや肌寒い。街全体が夜に飲み込まれ、しんと冷えていた。からっとしていて清々しく、冷たい空気が肺にすぅ、と行き渡る。蒸してこもっていた部屋の空気に比べれば、それは幾分か心地好かった。
夏の騒がしい蝉の声が、いつのまにか秋の虫の声に呑まれているのに、今更になって気が付いた。こんな町中でも秋虫は居るんだな、なんてぼんやりと考えながら、未だ微かに蝉の声が残ってはいないか、無意識に音の根を探ってみる。
サンダルはアスファルトを擦りながら、足の動きに合わせてゆがみ、チープな足音を奏でている。それに混ざる虫たちの声は様々に賑やかなのに、蝉の声は見当たらなかった。あんなに近くにあったはずの声が聞こえないことに、私はちいさく戸惑った。
音楽で耳を塞いでしまおう。そう考えてポケットを探したところで、スマホを忘れてきたことに今更になって気が付いた。取りに帰ろうかと悩んだけれど、ご飯を買うだけだから、と諦めて、代わりに小さく鼻歌を零すことにする。
遠い記憶に染みついた、題名さえ忘れてしまったメロディは、冷えた夜道にそっと溶けていく。耳に慣れない街の囁きを鼻歌交じりに感じながら、固まった道順をなぞることに集中した。
この街に来てから、息を吸う度に肺が汚れていく気がしていた。空気がよどんでいるのか、星なんて一つも見えやしないし、真昼の月さえも満足に望めなかった。背の高いビルに四方を囲まれ、無意識に呼吸は浅くなった。
知らない道は縦横無尽に絡まり、未だこの街になれずに怯えている私に、溶け込むことなんてできそうになかった。街の喧騒は賑やかと言うよりも煩く、それでいて排他的に冷たかった。
「いらっしゃいませぇ」
深夜のコンビニに、人は少なかった。眼鏡をかけたやや太り気味の店員がレジの中で文庫本を片手に持ち、私の入店音に合わせて気怠げに口を開く。トレーナーを着たおじさんが雑誌棚の前に一人と、お菓子棚の前にはキャミソールに薄手のパーカーを羽織った女性が一人立っていた。それぞれが商品を手に取って見つめているが、それは吟味しているというよりも、視線をそれに預けるように、ただぼんやりと目の先に商品を持っているようだった。
強制されることもなく、ただ重力に従うように、各々がそっと口を閉じていた。あまりに漠然とした自由が満ちていて、妙な安心感があった。店員も他の客も、見えない、触れられない空気の壁を纏っているようだった。つまらなさそうで、どこか孤独で寂しげだった。
店内放送に耳を預け、棚に視線を滑らせながら、商品をオレンジ色のカゴに放り込んでいく。
売れ残りの割引シールが貼られたいくつかのおにぎり。いっぱいに詰められたお菓子の棚の端に追いやられた、くしゃくしゃの小袋。現品限りの半額コーナーには、時季外れの日焼け止めや虫除けグッズが並び、その身を軽く傾けながら、こちらの様子をうかがっている。
飲み物がずらりと並んだ壁面にさしかかり、私はアルコール飲料の棚に手を伸ばした。『STOP! 未成年飲酒』と突きつける黄色の手の平を無視して、私は果物の描かれた缶酎ハイの中から、一番度数の高いらしいレモンの大きな缶をカゴに入れた。
当たり前だけれど、今までお酒を飲んだことはない。自分が酔う姿など、想像も出来なかった。それでも、このまま家に帰り、眠れないままぼんやりと朝を待つよりはマシだと思った。
レジの前に足を差し向けると、店員が本から顔を上げた。
「いらっしゃいませぇ、どうぞ」
促されるままにカゴを渡し、レジ袋を一つお願いする。液晶に映る年齢確認のボタンをぶっきらぼうにタップして、店員の視線から逃れるように、財布の中の小銭を探すふりをする。
「……一〇二三円になりまぁす」
寝起きの乱れた髪と、マスクとすっぴんのせいで老けて見えたのか、それとも、確認すら面倒だったのか。店員は、私になにも尋ねることはなかった。彼の無関心らしい事務的な対応は、やすやすと私の嘘を見逃した。
値引きされた鮭のおにぎりと塩おにぎり、ゆで卵を一つと、小粒のチョコのパウチのお菓子、ほうじ茶のペットボトル。缶酎ハイはひたりと汗をかいて、レジ袋の内側に張り付いている。レシートをカーディガンのポケットに押し込んで、自動ドアをくぐった。
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