燻り
いつまでもあの家から離れようとしなかったらしい私を、父はこのワンルームに押し込めた。あの家は売りに出すから、と、父はやっぱり何も言わずに勝手に決めてしまった。いくつかのお金のやりとりと、来年に控えた中学卒業と進路の話を少しだけして、父は今までみたいに透明になって、私の生活から消えた。
いい加減、荷物の整理をしなければならないことは分かっている。分かってはいるけれど、箱のガムテープに触れる事すら億劫で、つい後回しにしてしまうのだ。
明日やろう、明日やろうと意気込み続け、その負債は片付かないまま積み重なっている。今日に重ならない明日に期待して、ひたすらに今日に逃げている。そして私は今日も、段ボールから視線を逸らした。
クリーム色のローテーブルの上に、飲みかけのほうじ茶のペットボトルが四本、ばらばらに横たわっている。そのうちの一本の蓋がどうやら開いていたらしい、中身が零れて、フローリングに小さな水たまりを作っていた。
「……ぁ、」
息と共に小さな音が滑り出て、喉が正常に動いたことに安堵しながら、自分の体が彫刻ではなかったことに小さく驚く。そして、そんな驚きを感じた自分にもまた、驚いた。
私は、そうか。生きているのか。
なんて、何をあたりまえのことを。そんな小さな自嘲を交えて慎重に細く息を吐き、上体を起こす。体に沿う窮屈な黒無地のキャミソールには、汗の乾いた白い粒と、強い皺がついていた。
「……あーあ」
落胆の息が零れる。足元に放置されていたタオルを足の指で掴み、水たまりにそっとかぶせ、見なかったふりをした。どうせかぶせたタオルが勝手に水分を吸ってくれるだろうから、これで良い。
どうせ、なるようにしかならないのだから。
胸の芯に突き刺さっている杭がしんと冷えるのを感じながら、キャミソールの肩に指をかけた。
姿見の中の上裸の自分と、パチリと目が合った。肩まで伸びた黒髪は寝癖がついて右側に跳ね、厚い瞼は重たげに伏せられている。夏の間の日焼けの輪郭が未だ薄く残っていて、お腹が真っ白く浮き、胸元のほくろが小さな染みに見えた。ところどころに骨が出っ張り、そのくせふとももには甘く贅肉がひっついている。やや胴が長く、重心は下半身に寄っていて、全体的にバランスが悪い。
こうして真正面から見ると、動物みたいだ、と思う。それでも人間らしく下着を身に纏い、生きる仕草をかろうじて保っているのが、どこかはしたなく思えて、私は姿見から視線を逸らし、床に散乱する衣服から、適当に一枚手に取った。
オーバーサイズの白無地のシャツを素のままに被り、再びベッドに体を倒す。黄色地の画面中央に居座っている、カートゥーン調の白猫が、誇張した笑みを顔に貼り付けて、私をじっと見ている。さらりとその顔に指を滑らせ、ロック画面を開ける。
ホーム画面に、均等な四角に切り取られたアプリたちが雑然と並んでいる。特別視線も向けないまま無意識にSNSアプリをタップし、普段と変わらないようなタイムラインに目を滑らせた。
今日も昨日も、同じ様な日々が続いている。蔓延している新型ウイルスの新規感染者数は昨日と同じくらいだし、フォローしている配信者は、今日もゲームの事しか話していない。特段気になる事件もないことを確認してスマホを切り、枕元に軽く放った。
ゆっくりと、深く息を吸う。
日々は、目に見えない、どうしようもない大きな世界のうねりに合わせてゆるやかに過ぎていく。世界はなるようにしかならないし、流れに沿ってしかうねらない。
それはきっと、これからも同じなのだろうと、思う。
手持ち無沙汰になった私に責務を与えるように、お腹がくぅ、と小さく鳴いたので、ご飯を買いに行こうと決めた。冷蔵庫の中には卵や肉がいくらかあったはずだけれど、料理をするほどの気力は残っていなかった。
玄関に脱ぎ捨ててあった軽いカーディガンを羽織り、黒字のショートパンツに足を通す。まだ比較的綺麗な、しわのついたマスクを着ける。財布、鍵をポケットに滑らせ、サンダルに足を突っかけて家を出た。
「いってきます」
しみついたその口上に、返事がかえってくることはなかった。
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