滓か
過去の回想に逃げることも諦め、手持ち無沙汰になってしまった私は、じっと身を布団に沈ませたまま自分の呼吸の音に耳を澄ませた。ただぼんやりと目を開けて、息を吸い、ゆっくりと吐く。私はしばらくの間、それだけのことをそっと繰り返した。
ぼんやりと開けたままの目に、自然と涙がにじんでくる。じっと時間に身を溶かしていれば、瞬きの仕方すら思い出せなくなっていた。
身体を横に倒し、自重で頬に涙が伝っていくのを、他人事のように感じていた。
時折、そっと呼吸をやめてみる。段々と苦しくなって、溺れないように息を吸う。おばあちゃんは、もう息をしていないのに。
私はただ息をした。おばあちゃんにはもう出来なくなった呼吸をした。
呼吸をしたくなくて、それでも私は酸素を求めて呼吸をして、その貪欲さに、生きようとする自分の身体に嫌気がさして、死にたくなった。
だらりと顔に垂れかかった髪はカーテンのように私の視界を覆い、その隙間からは薄く部屋の景色が窺えた。投げ出されたバッグからは小さな財布とハンカチ、使わなかった清めの塩が飛び出して、脱ぎ捨てた喪服のワンピースの上に転がっている。引っ越してきてからまだ片付いていないダンボールが部屋の隅を占領していて、私の居場所を窮屈にさせた。
部屋の真ん中にあるローテーブルの上には、紺色の箱が載っている。両手で抱えられる程度のその箱にしか、おばあちゃんの遺品を持ち出すことが出来なかった。
遺品整理を行うとき、それを仕切ったのは、それまでずっと顔も見せなかった、私の父親だった。
まだ幼い私には葬儀の費用や家の維持費、お店のことを決める権利は与えられなかったし、どれだけ文句を言おうとしても、おばあちゃんによく似た目で冷たい視線を向けられると、私は何も言えなくなってしまった。
私に箱を一つ渡し、欲しいものがあればそれにいれるようにとだけ指示をして、父親は業者に全てを託した。いつまでもその場から動かない私を疎ましそうににらみつけ、父親は片付けを見守ることなく、そのまますぐに帰っていった。
この家を売りに出すのだと、父親は一方的に決めていった。
お気に入りのタオルや衣服は棺に一緒に入れてしまったし、長年使われて欠けつつあった食器の類は業者が勝手に捨ててしまった。私が呆然としている間に、そこにあったおばあちゃんの痕跡が少しずつ剥がされて、消えていった。
私は慌てて手についた適当なものを箱に詰め込めるだけ詰め込んで、壊されていくその部屋から逃げるようにして目を背けた。
箱に何を詰めたのか、私はきちんと把握していない。しようとも、思えなかった。
そこにある物を数えてしまえば、きっと消えてしまったものを探してしまう。足りないものの多さに絶望してしまう。私はきっと、全てを掴みきれなかった自分の手の小ささを、呪ってしまうだろう。
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