4-5.掃除と名前決め
――一方、温泉宿。
「よし、みんな準備はいい?」
わたし達は加奈さんの声に合わせて濡れた雑巾に手を置き、腰を突き上げて先をじっと見つめます。長い木造の廊下。左右には休憩スペースだったりトイレだったり中庭だったり、それぞれの部屋への道が続いています。
「いや、気が遠くなるほど長いんだけど……」
沙奈枝さんがもう疲れたような声で加奈さんに答えます。確かに気が遠くなるほど長いです。一番奥にある扉がまるで豆粒のようです。学校でもあまりこの距離を雑巾がけすることは無いでしょう。
「僕は準備できてます。行きましょう」
男の幽霊さんの言葉に沙奈枝さんは「っえ!?」というような表情で男の幽霊さんを見つめます。
「それじゃあ行くよ……3……」
加奈さんがカウントダウンを始めます。みんなの腕と足に力がこもってきます。わたしも雑巾に適度な力を入れて、まるでリレーの前の構えの様に足腰に力を込めます。
「1……スタート!」
加奈さんの掛け声と共にわたし達は一斉に廊下の奥に向かって走り始めました。バタバタと走る音が温泉宿の廊下中に響き渡ります。誰よりも早く先頭を行くのは加奈さん。その後ろに男の幽霊さんが、そしてわたしが居ます。加奈さんの走りは本当に早くて、あっという間に奥まで着いてしまいそうです。沙奈枝さんはというと……。
「みんな……はやぐない? ちょ、ちょっと休憩したいんだけどぉ……」
徐々に失速してわたしの後ろをついてきています。「ゼェ……ハァ……」というまるで漫画で聞くような声が、わたしの後ろの方から聞こえてきます。わたしは沙奈枝さんを待ちつつ、丁寧に床を拭きながら奥の扉まで到達しました。
「よし、これで全員ゴールだね!」
加奈さんは涼しげな表情でわたしと沙奈枝さんのゴールを見守っていました。
「加奈さん、あんなに早かったのに全然息切れしてないですね」
「実は生きてた頃、走るのは結構得意だったの。そのお陰かあまり疲れることなく雑巾がけ出来たみたい」
「確かに、怪異の時も凄い速さでしたね」
加奈さんはニッコリとしていました。それから加奈さんは床に置いたままの雑巾を取ります。
「よし、それじゃあ雑巾を洗ったらもう一周ね」
その言葉を聞くなり沙奈枝さんはグッタリとしながら雑巾を洗いに行きました。
――数時間後。
「よし、一通り終わったから次は大浴場を掃除しよっか!」
温泉宿の中の廊下を全て雑巾がけしたわたし達は次に大浴場に向かい始めました。沙奈枝さんは既に疲れ果てていて、休憩スペースにある冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んでいました。
「さ、先にいっでで……あどがらいぐがら……」
「……沙奈枝さん、無理しないでくださいね?」
とりあえずわたしは休憩スペースで休憩する沙奈枝さんを見送って、いつも使ってる大浴場に向かいました。更衣室を抜けて大浴場の扉を開くと、見慣れた温泉の光景が広がっていました。
わたしは、ふと思い出してしまいます。初めてこの温泉宿に来た時のことを。大浴場から聞こえてくる陽気な鼻歌と水の滴る音にビクビクしながら、わたしは当時温泉宿を探索していました。そして今のように更衣室を抜けて大浴場の扉を開くとそこには――身体を洗ってる幽霊さんが立っていました。
『ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
『きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
あの時の叫び声は今でも鮮明に思い出せます。まぁ、“今でも”というほど時間は経っていないのですが。それから『ぎゃぁ!』という幽霊さんの叫び声を聞いたお父さんが大浴場にやって来て……本当に滅茶苦茶な出会いでした。
自然と“今でも”という表現が出てしまうほど、本当にこれまで色んなことがありました。わたしの家に幽霊さんとお父さんが不法侵入していたり、中学校で殺人犯に出会ったり、廃墟で巨大な怪異に出会ったり――いや、考えてみれば色んな大変なことがあり過ぎですね。
「でも……どれも大切な思い出ですね」
「ん? どうしたの梢枝ちゃん」
「何でもないです。掃除を続けましょう加奈さん」
わたしはブラシを持って床を掃除し始めました。
「みんなが毎日使う場所です。しっかり綺麗にしましょう」
わたし達は各々大浴場と更衣室を掃除し始めました。
――数時間後。
「ふ~おわっだぁ~!!」
沙奈枝さんは後から大浴場に来て更衣室の掃除をしてくれていました。沙奈枝さんはまるで体力を全て使い果たしたみたいに脱力して、休憩スペースにあるマッサージチェアに倒れていました。
そういえば、マッサージチェアが一台から二台に増えていました。お父さんが独り占め出来なくなったから買ったみたいです。座り心地がいいので買いたくなるのは分かりますが……。
「そうだ! 彼の名前を決めないといけないんだよね」
沙奈枝さんが思い出したように椅子からバッと起きます。掃除に集中し過ぎて考えてる余裕が無かったですね。どんな名前がいいのでしょうか。沙奈枝さんは――スマホを取り出して何かを調べているみたいです。
「沙奈枝さん、何を調べてるんですか?」
「ん? いや画数とか漢字によって運勢というか、なんかそういうのあるでしょ? 名前をちゃんと決めるなら、そういうのも意識した方がいいかなって」
それを聞いた加奈さんは手を顎に当てて考え込み始めました。
「そっか、名前ならそういう“縁”みたいな考え方も確かにあるよね。どんな名前がいいんだろう……」
「あ、あのぉ……」
男の幽霊さんがモジモジとしながら名前を考えるわたし達を見つめています。
「そんなにしっかり考え込まなくても……」
「ダメだよ!」
加奈さんが男の幽霊さんの手を掴みます。
「名前は生まれて最初のプレゼントって幽霊さんも言っていたでしょう? だから君にちゃんとした名前を考えなくちゃ」
男の幽霊さんは顔をポッと赤くさせて、すぐに加奈さんの手を放してしまいました。そういえば男の幽霊さんって、加奈さんと同い年なのでしょうか。改めてよく見てみると、背丈は加奈さんとそれほど変わりません。顔も……大人というよりは少し幼く見えます。弱弱しさを表情から抜けば、清潔感のある青年って感じがします。
「でも、どんな名前がいいのかな~意外とパッて出てこないものだよね~」
「それなら――」
わたしは沙奈枝さんの方を見て答えます。
「それなら、自分の名前の由来を思い出すところから始めてみませんか? 名前に意味が込められているなら、そこから案が出るかもしれません」
沙奈枝さんはパァァァッと明るくなり、わたしの手をギュッと握りました。
「良い案だよ梢枝ちゃん! じゃ、アタシからね!」
沙奈枝さんはわたしと加奈さん、そして男の幽霊さんの真ん中に立って胸に手を当てます。
「アタシの名前は沙奈枝! 例え奈落の底や地面の底に落っこちたとしても、砂とかを掻き分けて枝を伸ばそうとする、そんな粘り強さを祈って付けたってお母さんが言ってた!」
「沙奈枝ちゃんの名前ってそういう意味だったんだね。とっても素敵な名前だね」
加奈さんの誉め言葉に沙奈枝さんは恥ずかしそうにしつつも、どこか誇らしそうで楽しそうでした。
「じゃあ次は私の番! 私の名前は加奈。どんな場所であっても友達を作って輪に加わることが出来る。実りある豊かな人生を送ってほしい。そんな思いを込めて名前を付けたってお父さんから昔聞いたよ」
「実際にその通りになってますね、加奈さん?」
「ふふ、そうだね梢枝ちゃん」
わたしと加奈さんはお互いの顔を見合ってニコッと笑いあいます。
「それじゃあ~最後はぁ~」
沙奈枝さんがポンとわたしの肩を叩きます。
「梢枝ちゃんの話を聞きたいなぁ~?」
沙奈枝さんが意地悪そうにわたしの顔を覗き込みます。
「わ、わたしは……わたしの名前は、梢枝です。名前の由来は――」
昔お父さんと話した記憶が蘇ります。昔、わたしはお父さんに名前の由来を聞いたことがあります。「わたしの名前ってどんな意味があるの?」って。その質問を聞いたお父さんは、少し誇らしそうにニコッと微笑みました。
『梢枝。その意味は、強く成長し続けるようにって意味だ。どんなに大変なことがあっても、挫けそうになっても――』
「どんなに大変なことがあっても、挫けそうになっても、諦めないで挑戦し続けて成長し続けるように育ってほしいから。いつか、小さくて細い枝が太陽の日を浴びて、実を成す為に……そんな意味でした」
「とっても素敵でいい名前。梢枝ちゃんそのままの名前だね」
加奈さんはわたしの頭を撫でながら微笑んでそう言ってくれました。そう言われると何だか……名前を持ってることが嬉しくなってきます。名前を付けてくれたお父さんのことも。
「みんないい名前だけど、結局どんな名前にすれば良いか思いつかなかったなぁ~」
沙奈枝さんはマッサージチェアに座って伸びをしています。
「わたし……」
わたしの声に休憩スペースのみんなが振り向きます。
「わたしは一個、思いつきました」
「ど、どんな名前だい?」
男の幽霊さんがオドオドしながら近付いてきます。
「それは――」
わたしが名前を言おうとした時――。
「お待たせ! 準備が終わったからお祓いを始めるわよ!」
幽霊さんがどこからともなく現れました。
「掃除は一旦終わりで、みんなは車に乗ってあの廃墟に向かって頂戴。私は少し温泉宿でやることがあるから後で向かうわ」
「幽霊さ~ん、ちょっとタイミングが悪いよ~」
沙奈枝さんが幽霊さんをツンツンしますが。
「悪かったわね。彼の決まった名前は後で向こうで聞かせてもらうわ」
気にする様子もなく、わたし達は温泉宿から追い出されてしまいました。わたしは男の幽霊さんに近寄ります。
「また後で教えますね。今はお祓いを終わらせましょう」
男の幽霊さんは少し不安そうな表情を浮かべながら、車に乗り込みました。わたし達も次々と車に乗り込み、車の中は少し狭くなってしまいました。とは言え、車の中の半分近くは幽霊さんなのですが。
そんな幽霊車両はあの廃墟に向かって動き出しました。
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