3-18.生の概念
――一方、梢枝と加奈、沙奈枝。
沙奈枝さんは目の前に広がる光景に呑み込まれてしまっていました。わたしが伸ばした手は届かず、引っ張り上げることも出来ません。黄泉戸喫。沙奈枝さんはもうあの世の世界の人になってしまったのでしょうか。
「……まだです。まだ諦めません」
わたしは沙奈枝さんの横に立ちます。左手に付けていた数珠をギュッと握り、目をギュッと瞑ります。そしてもう一度右手で沙奈枝さんの肩に触れます。
その瞬間でした。わたしの頭の中に幾つかの光景が浮かび上がりました。
焼身自殺を図るお父さんとお母さんから逃げ出す沙奈枝さん。
一人施設に取り残されていく沙奈枝さん。
“愛想の良い子”を演じる沙奈枝さん。
わたしに声を掛けてくれた沙奈枝さん。
ずっとお父さんとお母さんの手掛かりを調べている沙奈枝さん。
そして。
子供の頃、家族で笑いあっている沙奈枝さん。
それらの光景が波の様に次々とわたしの頭の中に流れ込んできました。わたしはその波に溺れる前に沙奈枝さんから手を放します。あまりに多くの光景に頭が追いつかず、頭痛がする頭を押さえます。
「梢枝ちゃん、大丈夫!?」
加奈さんがわたしに駆け寄って背中をさすりながらわたしの顔を覗き込みます。
「加奈さん……ありがとうございます。大丈夫です」
頭痛は徐々に収まり、わたしが見たものが何であるかも徐々に整理がつきます。
「梢枝ちゃん、何があったの?」
わたしはただ立ち尽くし、沙奈枝さんの姿を見ていることしか出来ませんでした。
「見たんです。沙奈枝さんの領域を……そんな様子、全然見せてくれなかったじゃないですか……」
「沙奈枝ちゃんの……領域?」
わたしの拳に力がこもっていきます。沙奈枝さんは、自分が孤児院に居た理由を一つも話しませんでした。それどころか、孤児院に居る子とは思えないほど明るく、面白く振る舞う人でした。
わたしに出来た、初めてのお友達でした。
わたしに手を差し伸べてくれたお友達。
なのに、沙奈枝さんはずっと底から上を眺めてるだけだったのです。
「沙奈枝さんは確かにここで過ごした方が幸せなのかもしれません。でも……だからこそ、今度はわたしが沙奈枝さんを引っ張らないといけないんです」
わたしはもう一度左手の数珠を握り、右手で沙奈枝さんの腕を掴みます。そして力を込めて引っ張った瞬間、沙奈枝さんの身体から真っ黒い気がブワッと吹き荒れ始めました。それはわたしの身体に巻き付き、わたしの意識を吸い取っていきます。
「沙奈枝さん……! その光景に沙奈枝さんが混じることはもう出来ないんです!」
後ろから加奈さんがわたしの身体に結界を張って黒い気を祓ってくれます。ですがそれはほんの一瞬のことで、結界はすぐに大量の黒い気に破壊されてしまいます。
「死者は……! 覚えている人が居ないと……存在出来ないんです! 沙奈枝さんが行ってしまったら……誰もこの光景を覚えられないんです……!」
加奈さんは次から次へと結界を張り続けてくれます。わたしは力いっぱい込めて沙奈枝さんの身体をテーブルから引き剝がす為に引っ張ります。
「梢枝ちゃん! これ以上は危ないよ!」
真っ黒い気がわたしの身体全体を包み込みます。
「沙奈枝さんが行ってしまったら……ここの光景は消えてしまうんです……。それに……沙奈枝さんという存在を、演じていた沙奈枝さんしか覚えていられなくなる。沙奈枝さん自身を覚えておくことが出来ないんです! そんなの――」
――そんなの……沙奈枝さんじゃない!!
その瞬間、わたしを包み込んでいた真っ黒い気が一斉に晴れて、沙奈枝さんの身体をようやくテーブルから引き剥がすことが出来ました。わたしと沙奈枝さんは引き剥がした力で、そのまま床に倒れ込みます。
「梢枝ちゃん! 沙奈枝ちゃん!」
加奈さんが急いでわたし達に駆け寄ってきます。床に倒れ込んでゆっくりと俯きながら起き上がる沙奈枝さんを、わたしは見つめます。沙奈枝さんはわたしの顔を見ずに俯いたまま口を開き、ただ一言呟きました。
「何で……引っ張ったの……」
「……ここに混じってしまえば、沙奈枝さんの家族団らんを覚えている人は居なくなってしまいます。そうなれば……沙奈枝さんが大切にしたかった光景は消えてしまいます。それに……演じていた沙奈枝さんだけがこの世界に残ることになってしまいます」
「アタシは……それでも良かった。昔の事を忘れて、別のアタシとして生きれるならそれでも良かった」
「でも、それじゃあ空っぽの沙奈枝さんになってしまいます」
「アタシはずっと昔から空っぽのままだよ!」
静かな家の中に沙奈枝さんの声だけが響き渡ります。
「なんで……なんでそんなに……生きようと思えるの……」
鼻をすすり震える沙奈枝さんの声だけが部屋の中に残ります。わたしは立ち上がり、沙奈枝さんの身体を抱きしめます。
「それは……その方がとっても楽しいからです」
――一方、幽霊の少女と幽霊の男。
「君は…………何でそうも存在し続けられるんだ?」
幽霊の男の言葉に少女の表情は柔らかくなった。
「だって……その方が面白いじゃない」
「面白い?」
「えぇ」
幽霊の少女は懐かしむように上を見上げながら男の問いに答える。
「私もこの世界で目を覚ました時、何も覚えてなかった。ただ寂しくて、寒くて、空っぽだった。でも、あの“おじさん”と出会っちゃってね。ホント、馬鹿正直に温泉宿まで作って私に『一緒に来てくれ』って頼み込むんだもの。それがホントに面白くてね」
クスッと幽霊の少女は温かい笑みをこぼす。
「それにあの子――梢枝もホントに面白い子でね。すぐに私に影響されるくせに、いつも私と加奈の会話について行けてなくて振り回されているの。それを少しからかって冗談を言うのが好きでね。それに温泉に浸かったらあの子、ホントに溶けてるみたいな顔をしちゃって……」
暗く沈んだ廃墟の中に光が差し込み始める。
「まだまだ世界には面白いことが沢山ある。晃光、梢枝、加奈、沙奈枝。全部見て、全部覚えなくちゃいけない。だから私達は――」
――一方、梢枝と加奈、沙奈枝。
わたしは沙奈枝さんの身体を抱きしめながら語り掛けます。
「わたし、本当は死のうと思ってたんです。今わたし達が住んでる温泉宿に行って、せめて幽霊さんに見られながら死のうと思ったんです。でも実際にあった幽霊さんはとっても面白くて……おじさんと幽霊さんの掛け合いを見てたら……死ねなかったんです。明るくて……面白くて」
「…………」
沙奈枝さんはじっと、黙ってわたしの話を聞いています。
「おじさん……お父さんはわたしに言ってくれたんです。『楽は最期まで生き抜いた人の特権。だから最期まで足掻いて生きるしかない』って。死にたい人にとっては、厳しすぎませんか? でも温かい言葉で慰められるより、真正面からぶつかってくれたその言葉が、わたしには何よりも響いたんです」
「…………」
「それから沙奈枝さんに会って、初めてお友達が出来ました。お友達にしては年が離れていますが、それでもわたしにとって大切な人です。沙奈枝さんは演じていただけかもしれませんが、喜怒哀楽がハッキリと表れる沙奈枝さんは……本当に見てて楽しくなれたんです。沙奈枝さんが演じていたとしても、わたしが感じた感覚は本物です」
「…………」
「温泉宿に引き取られてからは、本当に毎日騒がしかったです。幽霊さん、見た目はわたしと同い年くらいなのに温泉宿で誰よりも大人っぽくて、お父さんがいつも怒られてるんです。それに幽霊さんは冗談なのか本当なのか分からないことを言いますし。そんな温泉宿に加奈さんが来てから、もっと賑やかになりました」
わたし達の元に加奈さんが近寄り、沙奈枝さんの身体を抱きしめながら加奈さんも口を開きます。
「幽霊さんが“幽霊になった時のマニュアル”を渡してくれたんですけど、書いてあることは為になることから、絶対雑学的なものまで書いてあるんです。あれ、絶対幽霊さんが執筆した内容ですよ? 梢枝ちゃんも時々ホントに無茶することがあって……もうこの温泉宿に来てからというもの、休まる時が全然ないです。温泉宿なのに」
わたしと加奈さんはお互いの顔を見つめあって笑いあいます。
「全部がわたしの大切な思い出です。大切な人なんです。それを、わたし達は覚えていないといけない。忘れてしまったら……死んでしまったら、そこでその記憶は消えてしまうから。だからわたし達は――」
「「温泉宿に帰らないといけない」」
その瞬間、幽霊の少女の元。
そして梢枝達の元にゲートが現れた。
「梢枝ちゃん……あれ!」
加奈さんは立ち上がって光るゲートの方を指差しました。そのゲートの向こうに広がっていた景色は、あの“温泉宿”でした。もちろん現実世界のものではないのは明らかですが、それでも見覚えのあるあの場所でした。
わたしは立ち上がり、沙奈枝さんに手を差し伸べます。
「沙奈枝さん。今度はわたしと温泉友達になりませんか?」
沙奈枝さんは顔を上げてわたしを見上げます。
「沙奈枝さんが空っぽなら、わたしがその空っぽの容器に温泉水を入れて温めてあげます。わたしは……沙奈枝さんを覚えていたい」
沙奈枝さんはまた俯いて、目の辺りを腕でこすっています。それから少しして沙奈枝さんはまたわたしを見上げます。でもさっきわたしを見上げていた時と比べて、表情が少し柔らかくなっていました。
「……ちゃんと埋めてよ。欠けたアタシの家族の分まで」
「任せてください」
沙奈枝さんはわたしの手を取りました。
――一方、幽霊の少女と幽霊の男。
二人の目の前には見慣れた温泉宿に繋がるゲートが現れていた。
「あ、あれは……」
驚く幽霊の男とは異なり、幽霊の少女はまるで故郷を眺めるようにゲートの向こう側を見つめる。
「あれが、私達の“生の概念”。“生への渇望の象徴”。私達が帰るべき温泉宿よ」
幽霊の少女は佇む男の方へ振り返り、手を差し伸べる。
「アイツとアンタは違う。アンタは新しい概念。それは私もそう。記憶を失った私はもう生きていた頃の私とは違う。ならいっそのこと、新しいものを楽しんで生きてみない? 温泉は心までほぐしてくれるのよ?」
男は少し悩んだ後、ゆっくりと手を差し出し、少女のその手を取った。
「よし! それじゃあ、行くわよ!」
幽霊の少女は男を引っ張りゲートの向こう側へ足を踏み出す。
『お姉ちゃん!』
突如聞こえたその声に、少女は足を止める。
どこか聞き覚えのある幼い少女の声。
『■■お姉ちゃん!』
「…………」
少女は俯き、背後から聞こえる声に足を止めていた。
が、すぐに少女は顔を上げ温泉宿へのゲートを越えた。
――私は、もう顔も覚えていないあなたのお姉ちゃんとは違うわ。
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