第11話


△▼ (直紀なおき



「なぁ、あんまり根詰めるなよ」


 大学構内アート区画の一室。

 憑りつかれたようにキャンバスと向き合う玲奈の背中越しに声を掛ける。

 

 だけど彼女は一向にこちらへ振り向く気配は無かった。


「なぁって! もうコンクールも近いんだから身体壊したら元も子もないだろ。ちょっと休んで飯でも摂って来いって」


 少し声を張り上げると玲奈の肩がぴくりと動く。

 彼女はしばらくしてからそっと筆を置くとキャンバスから視線を移すことなく言葉だけを紡いだ。


「うん……。ありがとう直紀。ちょっと……行ってこようかな」


 玲奈はすぅっと腰を上げると、背中まで伸びる絹の様な黒髪でその横顔を隠し部屋を出て行ってしまった。

 俺は少し疲れの見える彼女の背中を見送る。


 どうせ食べないんだろう。



 あの日を境にそれまでの絵を捨ててしまった玲奈。



 俺は彼女のキャンバスに歩み寄り未完成の絵を眺める。

 以前の明るさや強さが失われ、極端に救いのない色使い……。

 

 玲奈はこのキャンバスに何をぶつけて何を表現しようとしているのだろうか。


 後悔? 謝罪? それとも……。



 今思い出しても高校生の彼には残酷すぎた。あまりにも。

 俺が逆の立場でも耐えうるか分からない。


 あの場で彼が思った、感じたであろうことは想像を絶する……。



 俺は彼女を支えたかったのに、彼女を歪めてしまったのだ。

 そしてきっと彼女が守りたかったはずの彼も……。



 このままじゃ駄目だ。


 このままじゃ……駄目だ。



 だけど時間は戻せない……。



 解放された大窓へ視線を移すと外は皮肉にも日が燦燦と照り青空が広がっていた。


 


△▼



「ピンポーン」


 グリルのアジが香る夕方。

 自宅のインターフォンが鳴る。なんかネットで買い物したっけ。


「兄貴ぃ。悪いんだけど出てくれない?」


 キッチンで手が離せない俺はソファでテレビを見ている兄の啓哉けいやに声を掛ける。


「配達かなぁ。拓海お前何か買った? 俺は買ってないけど」


「いやぁ買って無いよ。セールスだったら出なきゃいいじゃん。ご近所さんかも知れないしモニター見てよ」


 俺の言葉に兄貴はよいしょと腰を上げた。


 よいしょって。

 その言葉に兄貴が段々とおっさん臭くなってきたと感じてしまう。


 最近格好つけてんのか髪伸ばしてるし髭も蓄え始めてるしで完全に芸術家気取りだ。あんたがメインにしてるのは2次元キャラのイラストでしょうがっ。

 もっと爽やかでいいのにと思うのは俺だけだろうか。


 兄貴はトタトタと来客モニターのある方へ移動する。


「拓海ぃ。なんかめっちゃ可愛いお嬢さんなんだけど。お前の友達かなぁ」


 モニターのある方向をちょいちょいと指さしながら兄貴がキッチンに立つ俺を見る。

 覗いてみるけど俺からはモニターが見えない。


 でもすぐに直感が働いた。

 うちに来る可愛いお嬢さんは1人しか思いつかないから。


「なぁ拓海。この子タッパーみたいなの持ってるぞ」


 タッパー。もしかして何か作ってきてくれたのか? 

 

 それなら出てやらないと悪いよな……。


 まあ絶対に永瀬由良だという保証は無いんだけど。


「じゃあ出てみてよっ」


 俺の声に応じて兄貴が通話ボタンを押したであろう「ピッ」という音が聞こえた。

 俺はぐつぐつと沸騰し始めた味噌汁の鍋に視線を移動させる。


「どちら様ですか?」


「あっ。もしかしてお兄さんですか? 私、拓海君の友達で永瀬っていいます」


「えっ。拓海の友達? 出るからちょっと待っててくれるかな」


 もう一度「ピッ」という音が聞こえ、通話ボタンを切ったであろうことが伝わってくる。


 程なくしてカチャ、ガチャとドアが開く音がした。

 廊下を挟んでいるため籠り気味の話し声が聞こえてくる。


「すみません突然押しかけて。肉じゃが、作り過ぎちゃって。お裾分けに持って来たんです」


「えっ、お裾分けって。君、このマンションに住んでるの? 拓海の友達なんだよね?」


「あっ、もしかして拓海くんから聞いていませんか? そうなんです。私5階に住んでて」


「へぇ~、そうなんだ。まあこんなとこでなんだし上がりなよ。拓海もいるよ。今夕食作ってくれてるから」


「いえっ。これを渡しに来ただけですし」


「まあそんなこと言わずにさっ。どうぞどうぞ。あっこれスリッパ履いてね」


「えっと……じゃあお言葉に甘えて少しだけ。おじゃまします」


 その言葉を最後に、トタトタという音が二つ重なりながらリビングへ近づいてくる。


 数秒後、私服姿の永瀬がリビングに姿を現した。

 彼女はキッチンに立つ俺を見つけると柔らかく顔を綻ばせる。


「ごめん、田中君。お邪魔しちゃった」


 永瀬が胸の辺りで手を小さく振る。

 今日の彼女はロングスカートにTシャツ姿だ。


「なに。肉じゃが作ってきてくれたの?」


「ええ。結構美味しく出来たの。食べてもらいたいなぁと思って」


 永瀬はにこっと目を細めると大きめのタッパーを嬉しそうに胸の前で掲げた。




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