第3話


 見たくないモノを見た時の人間の脳がどうなるか知っているだろうか。


 見たくないモノを見た人間の脳は、追加情報を一切遮断し……たしか、自分に都合の良い情報へ脳内記憶を改竄かいざんする……はず?

 テレビか何かで観た気がする。多分。


 だから今、俺が見たくないこの光景は、改竄されるはずだった。

 改竄されるべきだ……なのに。


拓海たくみくん……」


 俺の眼前がんぜんには、見知らぬ男と共にベッドでシーツにくるまれた玲奈れいなさんがいる。

 彼女の表情は明らかに怯えをはらんでいて、男の方はばつが悪そうに顔を手で押さえている。


 そして、二人とも髪が乱れているし、ご丁寧にも玄関からベッドに至るまで服が脱ぎ散らかされている。


 さあ早くこの光景を改竄してくれよ!


 俺にとって都合の良い光景に変えてくれよ!



 玲奈さんは何も言わない。


 何か言ってくれよ。何も言ってくれないと分からないだろ。


「こっちは心配してたのに……。ふざけんなよ……。ふざけんなっ。ふざけんなふざけんなふざんけんなっっ!!」


 心のままに叫び、手に握り締めていた合鍵を憎悪の対象めがけ投げつける。

 直後、合鍵それは壁に跳ね返され、ベッド上に音も無く埋もれた。


 気付いたら俺は、バタンと勢いよくドアを閉め、走り出していた。


 エレベーターを悠長に待つ気になど到底なれなくて、階段を駆け下りる。

 二段飛ばし、三段飛ばし、五段飛ばし! ドシャッゴロゴロッガッ。途中、踊り場で転げまわり壁に衝突する。 


 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! 一秒でも早く、一瞬でも早くこの嫌悪感で吐きそうになる場所から逃げ出したかった。


 急いで駆け下りたため足に負担が掛かり過ぎたのだろうか。

 マンションを出た所で俺の足は盛大にもつれ、ズザザと前のめりに転倒してしまった。


「いつつつっっ……。くそっ! なんだよっ! カッコ悪過ぎだろぅが」


 両手がけて血が出ている。

 くそう!! 無心で地面のアスファルトをガッと殴る。痛みは麻痺していた。だけど人を殴った事すら無い貧相なごぶしは皮がべろりと捲れてしまっていた。


 ああ! もうなんだかみっともな過ぎて泣けてきたわ。

 なんでだよ! なんでなんだよ……。



 その時、アスファルトに人影が映る。



「はい、どうぞ」


 人影は俺の視界に入り、人に変わった。

 俺はうっすらとシルエットだけで姿を捉えようとする。女の子……。俺と同じくらいの。高校生だろうか。

 

 彼女は膝を折りたたみ、チェック地のハンカチを差し出してくれていた。


くろ


 アソート柄スカートの隙間から下着が覗いていた。

 もちろんわざと見たわけじゃない。見えたんだ。

 

 それに口に出すつもりも無かったけど、気付いたら出てたんだ。


 すっと顔の方に視線を移動すると、そこには美少女が存在していた。


 透き通るような肌で、二重ふたえのくりっとした大きな瞳にきりっとした眉、頬は少しぷっくりしてすごく小顔で、ぷるぷると潤いのある奪いたくなるよう唇。

 それは絵に描いたような、呼吸を止めてしまうほどの美少女だった。


「えっ」


 彼女は一瞬何を言われたのか理解出来なかったのだろう、その大きな瞳を見開いてから丸めた。


「下着、見えてますよ」


 そう言ってからもう一度視線を下に移動させる。間違いなくだ。


「ちょっ、見ないでください! えっち!」


 彼女は両手でバッと太もも裏からスカートを押さえた。


「ごめん! わざと見たわけじゃないんだ! 一回目は」


「知ってますよ! でも二回目はわざとですよね。……まあいいです。はい、ハンカチ。血が出てますよ」


 彼女は凛々しい眉を下げて嘆息した後、赤ら顔でもう一度俺にハンカチを差し出してくれた。


 だけど俺には彼女の厚意の理由がさっぱり分からず、そのハンカチを受け取れずにいた。


「どうして受け取らないんですか」


「だって、君がハンカチを渡してくれる理由が分からないから」


「理由ってあなた、血が出てるじゃないですか。ただの親切心ですよ」


「……あの、やっぱり受け取れません。ありがたいんですけど、厚意だけいただいておきます」


 借りたモノは返さないといけないし、血が付いたハンカチを洗わずに返すなんてことも出来っこない。

 きっともう会う事は無いだろうから、やっぱり借りないほうがいい。そう判断しただけだ。


 それにこんな可愛い子と俺みたいな陰キャが、この奇妙で特別なタイミング以外に交わる理由が無いとも思った。


「心配しないで。また会、あ、じゃなくて返さなくていいですから。ねっ。このハンカチ、あなたにあげます」


 彼女はにこっと可愛らしく微笑むと、もう一度ハンカチを差し出してくれた。

 今、なにか言いかけなかったか。


 まあどうでもいいや。



「いや、大丈夫です。ハンカチ、持ってますから」


「え!?」


 俺がそう言うや、彼女の眉尻がピクっと引き攣ったのが分かった。 

 まあ……そうなるよな。今までのやり取りは何だったんだと思われても仕方がない。


 だけど俺はハンカチを持ってないなんて一言も言ってないからな……。



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