1 蜘蛛の夢。

 先日載ってらっしゃった、毒蛾の夢についてです。

 実は僕も、同じ様な商人、似て非なる事を経験致しました。


 僕は、顔の良い方で、その事で酷く苦労していたんです。


《私を、好いているって言って頂戴》


 最初は、女教師でした。


 子供の頃の僕は、酷い不真面目で。

 宿題を適当にする事も良く有り、その当時は居残りをさせられていました。


 そして。


「イヤです!」


 何とか女教師から逃げ出し、走って家まで逃げました。

 そして母親に縋ろうとした時、僕は、母に触れる事が出来なくなっていました。


「ちょっとアンタ、どうしたって言うんだい」

「ぼ、僕、先生に」


 今なら、それなりに新聞にも載っていますが。

 当時は、男が襲われるだなんて有り得ない、そう思われている時代で。


「全く、宿題をやらないからだよ」

「違う、本当に、先生が」


「はいはい、それで逃げ出して鞄も何も持って来なかったのね。明日には謝りに行ってあげるから、アンタもちゃんと謝んなさい」

「イヤだ、行きたくない」


「またそんな事を言って、なら農作業の手伝いをさせるよ」

「する!するから、もう学校は嫌だ」


 母は当時、僕の様子がおかしいとは察していたそうですが。

 大の大人が、しかも既婚者の女が、子供の男を襲うだなんて有り得ない。


 そう本気で思っており、それが当たり前だからと。

 単に、女教師が酷く怖くなって逃げ出しただけだろう、そう思っていたそうです。




「なぁ、アンタ、本当に」

「もう、言いたくない」


 僕は学校に行かないで済むなら、あんな怖い思いをするならと。

 必死に、真面目に農作業をしました。


 そうやって体を動かしていれば、何とか幾ばくか忘れられた事も大きいです。


 その時まで、母の体を奇妙だとは思っていませんでしたが。

 もう既に、当時は女性の体が奇妙で怖く、一緒に風呂には入れなくなっており。


 近付く事も、出来なくなっていたのです。




『来なさい』


 そして幾ばくか過ぎた頃。

 出稼ぎから帰って来た父に呼び出され、僕はどうせ信じて貰えないだろうと思いながらも、本当の事を話しました。


 ですが、父は信じてくれました。

 丁度その時、御社から出た本に、実際にも有った出来事として載っていたそうで。


「本当に」

『不真面目だったお前が農作業を真面目にして、甘えん坊だったお前が母さんにも甘えない。なら、そう言う事なのだろう』


 僕は大泣きしました。

 ずっと、ずっと苦しかったんです。


 大好きな母に近付けもしない。

 大好きな母に信じて貰えない。


 それが本当に、とても辛くて。


 けれどもどうしようも無くて。

 とてもとても、ずっと、辛かったんです。




「ごめんよ、まさかそんな事が本当に有るだなんて」

「ううん、僕は、不真面目だったし。僕も、ごめんなさい」


「良いのよ」

「ひっ」


 和解は出来ました。

 けれど、僕は相変わらず、母が怖かった。


 今思えば分かるのですが、似た年頃だったので、それが特にダメだったのだと思います。


 それからも、相変わらず辛い日々が続きました。

 母は信じなかった事を後悔し、僕は母に未だに甘えられない事を後悔し。


 そうして何ヶ月か過ぎた頃、僕は家を出ました。


 父の伝手で、僧院に入る事になったのです。

 男ばかりの僧院ですから、僕は安心しました。


 ですが子供だったものですし、父もまさかと思ったそうです。


 まさか、今度はそこで男に襲われるとは。

 僕も、そう思っていましたから。


『お前にも、何か隙が、悪い所が有ったんじゃないのか』


 僕は、絶望しました。

 ただ他と同じ様にしていただけの筈が。


 何も悪い事をしていないのに、責められた。


 また、僕は逃げ出しました。

 泣きながら、どうやって死のうか考えました。


 もう、それしか考えられませんでした。




『いらっしゃい、他の僧にでも虐められたか』


 その声は男か女か分からない声で、容姿も、どちらか分からない容姿でした。


「うん」


『気晴らしに見ていきな、何が気になる』


「コレは何?」

『あぁ、生き達磨だったモノだよ、骨も内臓も抜いてあるから縮んでコレだ』


「何に使うんです?」

『憎い男に渡すんだ、そうして暫くすると女と致せなくなる』


 僕は欲しくなると同時に、諦めました。


「なら、男とは出来るんですね」


『あぁ、そう言う事か、ならコレだ』


 その商人が差し出したのは、瓶に入った大きな蜘蛛でした。

 あまりに大きいので、瓶の口からは出せそうも無い程、大きな蜘蛛でした。


「どうやって出してやるんですか?」

『ふふふ、良い子なのにね、可哀想に。お前さんの好きにしな』


「でも、僕」

『この世には出世払いってのが有るんだ、ただね、他所様の場合だと高く付く事になるけれど。コレも運、お前さんには等価の出世払いにしといてやる。なに、いつか大きくなったらで良いって事だよ』


「大きくなったら、またココに来れば良いですか?」

『あぁ、そうだね、払える様になったら。おいで』


 僕はまだまだ子供で、しかも田舎では誰にでも親切にされていたので。

 全く、何も疑う事も無く、その瓶を持ち帰りました。


 けれど、途中で気が付いたんです。


 あの僧も、父も居るのだと。

 僕は足を止め、蜘蛛が怪我をしない様にと瓶を割り、藪に逃がしました。


 そうして近くの川に行き、そのまま川に入りました。


 ですが苦しくて、直ぐに泳いでしまいました。

 なので力尽きるまで泳ぐ事に、川を下りました。


 疲れた、苦しい。

 けれどもう、逃げる場所も無い。


 どんどんと水を飲んで、僕はいつしか気を失いました。




『あぁ、起きたかい』


 お婆さんなのかお爺さんなのか、良く分からない、皺々の老人が目の前に居ました。

 なので僕はつい、やっと、極楽浄土に行けたのかと。


「すみません、三途の渡し賃を持っていなくて」


『ふっふっふっ、アンタ、そんなに若いのに死のうとしてたのかい。残念だけれど、ココはまだ現世だ、アンタにはまだやる事が有るって事だね』


 僕は、大泣きしました。

 まだ、何かやらなければならない事が有るのか、と。


 こんな、地獄の様な場所で。

 何処にも、誰も味方が居ない場所で。


「いやだぁ」


 悔しくて怖くて、もう嫌で嫌で堪らなかった。

 あんなに苦しい思いをしたのに、どうして死ねなかったんだと。


 僕は泣きながら怒り、畳を殴り続けました。


『坊主、坊主はまだ若い、だから幾らでもやり直せる。仕返しだって何だって簡単だろう、なんせ体力も有るんだ、まだまだ幾らでも出来る事が有るんだよ。手伝ってやるから、もう少しだけ、やれる事をやってみるんだよ。アンタと同じ子を、出さない様に』


 復讐は何も生まない。

 仕返しをしてはならない、許しなさい。


 それらとは全て反対の事を、老人は僕に話しました。

 そして僕は、生きる事にし、暫くして違う寺に戻りました。




「宜しくお願い致します」


 老人が言っていた通り、僕は何も尋ねられる事無く、受け入れられました。


 もう既に噂は広まっており。

 寺としては、受け入れるしか無かったからです。


 そうして僕は、恩人への恩返しだとして。

 週に1回、老人の家に教えを請いに行きました。


『体も鍛えなさい』

「はい」


 学も付け、体を鍛え、道理を学びなさい。


 老人は僕に何か有ったのかを、尋ねはしませんでした。

 けれども決して僕には近付かず、避けもせず、良く話をしてくれました。


 子供ながらに、きっと自分と似た様な事を経験したのだろう。

 僕はそう思いました。


 その老人の顔には、幾ばくか酷い傷が有ったからです。

 きっと、顔を潰そうとしたのだろう、と。


 ですが、僕も尋ねませんでした。

 僕も、未だにそうした事を尋ねられるのは、あまり良い気はしませんから。




『泣くな泣くな、コレは寿命、老衰と言うんだよ。やっとだ、やっと、お迎えに来て貰えた。きっと坊主のお陰だろうね、ありがとう、しっかりやるんだよ。はぁ、疲れた、疲れたよ』


 その後に分かった事ですが、彼は、詐欺師でした。

 女も男も騙していた、指名手配犯でした。


 そう知ったのは、彼が残していた手帳から。

 処分してしまえば良かったのに、敢えて彼は残していた。


 長い知り合いですし、僕は許してしまいました。


 そして、その日記のせいでも有ると思います。

 細かい字でびっしりと書かれた、分厚い日記を、僕は全て書き写し。


 大学へと、匿名で贈らせて頂きました。


 きっと、当時でも良く調べれば、僕の事も分かっただろうとは思います。

 けれどその大学の教授は、それらを本にし、出してくれました。


 そこでやっと、僕は彼の供養を終えられたと、そう思いました。


 そして、コレで少しは、世がマシになるのではと。

 けれど、大して良くはなりませんでした。


 だからこそ、消えていた筈の炎をが、また強さを増していきました。




《お願い、一緒になって》


 僕はもう、全てが虫だと思う様になっていました。

 偶に益虫は居ても、殆どが害虫。


 それも随分と偏った見方だと、今なら分かるのですが。

 世に生きる以上、そう思う他に無かったのです。


「僕は御仏に仕える身です、どうかご理解下さい。お布施が無くては、生きてはいかれませんので」


 根腐れを起こした、どうしようも無い花であるにも関わらず、虫は寄って来る。

 雄も雌も関係無く、見目が良いからと、僕の気も知らずに。


 相反する教えを持ち続け。

 また、僕は死にたくなりました。


 来世こそ、償いをしますから。

 どうか穏やかに死なせて下さい。


 ですが、それが無理な事で有るとも、考えていました。


 僕は至って健康で。

 偶に来る両親からの手紙でも、血筋からして健康であると分かっていたからです。


 ですから、僕は病気を貰う事にしました。

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