第20章 獣医と非淑女。

第1話 獣医と非淑女。

 病気の個体は排除しなければならない。

 排除しなければ病は広まり、果ては。


『お嬢さん、落としましたよ』


 本人の物では無いハンカチーフを受け取らなければ、野に放つべき良い個体。

 けれどもし、受け取ったなら。


《あ、ありがとうございます》


 それは獲物の証。


『実は茶屋を押さえて有るんですが、急に先方に予定が入ってしまいまして、お食事を一緒に如何ですか』


 もしコレに、色良い返事をしたなら。


《はい》


 狩って良い証。


「今日も僕を思って抱いてくれたのかい」

『勿論』


「君は僕を、あんなにも愛してくれている」

『勿論、アナタだけを愛しています、若様』


 何もかもが、下半身が不自由となってしまった若様の為。

 若様の為に狩り、若様の為に手折る。


 若様は許嫁に刺され、この様になってしまった。

 何の瑕疵も無いと言うのに、こんな姿に。




《どうして》

『君を紹介すると言ったら、先ずは処女検査を、そう言われてしまったんだ』


《えっ》

『処女で無いのなら絶対に許さない、と』


《そんな》

『ウチは名家と呼ばれる部類に入るんだ、本当に、すまない』


《ぅう》

『けれど、君が何も持たない俺でも良いと言うのなら、一緒に逃げよう』


 もし、この言葉に承諾したなら。


《はい、何処へでも》


 これは排除すべき個体と言う証。


 賢い淑女の何と少ない事だろうか。

 無責任にも甘い夢にばかり浸り、脳まで腐り溶け、下半身からすっかり出てしまっている。


 あの女の様に。


「どうしてだろうね。自分の様に愚かで品性の欠片も無く、貞操も碌に守れない者に、どうして良い男が惚れたりなんかするのだろうかと。どうしてそれらを問題だと思わないんだろうか、惚れたと言うのなら、どうして身を引く事を大して考えずにいられるのだろうか」


 若様には、全く分からないのも致し方無い。

 けれども俺には、良く分かる。


『そう仕向けましたから』

「だけで、いや、それだけ肉欲は強いと言う事なんだろうね」


『はい、肉欲の混ざった情愛は、中毒になるそうですから』


「お前は、ならないのだね」

『若様が最優先ですから』


「あぁ、引き取られて行くね。全く、何処まで愚かなんだろうか」


 俺達は待ち合わせ場所のはす向かいで、愚かな女を見守り続けていた。

 そして予定通り、若様のお知り合いに手を引かれ。


 それ以来、彼女を見る者は現れないだろう。

 彼がすっかり壊してしまうのだから。


『では、帰りましょうか』

「そうだね」


 俺は若様を抱き上げ、店先に置いていた車椅子に乗せ。

 駅舎まで向かうと、もう来ないであろう片田舎を後にした。




『妹だと思って可愛がるんだぞ』

《そうよ、優しくしてあげて頂戴ね》

「はい」


 少しばかり病弱な若様の為、俺が小間使として引き取られた直後。

 若様に許嫁が出来た。


 ご両親は優しい方々、との評判で、実際にも若様と遊ぶ俺を諌めなかった。


 そして若様は許嫁を、本当に妹として可愛がった。

 もし俺が女だったら、そう思い可愛がっていたらしい。


《で、君は許嫁とはどうなんだい》


「いや、彼女は、少しね」

《幼いのだし、まぁ、仕方が無いか》


「と言うか、まぁ、そうだね」


《じゃあ俺にくれないか》

「いや、それもそれで困るから、ウチのにはちょっかいを出さないでくれよ」


《何だ、やっぱり惚れているのかい》


 そんなワケが無い、若様には全く気が無い。

 ただただ、コレは家同士の問題、その事に難色を示しただけ。


「はぁ」


 若様の許嫁は本当に平凡な、何の取り柄も無い女。

 仕事にするワケでも無いのに、刺繍に入れ込む様な女。


『若様には、もっと相応しい相手が嫁いで来るべきです』

「そうだね、お前が女だったら良かったのにね」


『ありがとうございます』


 俺は若様の為になるならと、何でもし、何でも覚えた。

 針仕事は勿論、料理に洗濯に掃除、それに勉学も。


「かなり出来る様になったね、良い子だ」

『ありがとうございます』


「何か、褒美をあげよう、言ってご覧」

『一生、若様のお傍に居させて下さい』


「君は、本当に可愛い事を言うね。良いよ、ずっと僕の傍に居なさい」

『はい、ありがとうございます』


 俺がすっかり何でも出来る様になった頃、若様の許嫁は、すっかり色気付き。


《最近、文をあまり下さらないのは。いえ、何でも御座いません、失礼しました》


 言い掛けて、止める。

 若様が最も嫌う事。


「いい加減、気付いてくれると良いんだけれどね。化粧をしようが香を焚こうが、女としてすら見れないと言う事に」


 当然だ、旦那様は本当の妹だ、と思いながら相対してらっしゃったのだから。


 月経が来たら女だ、許嫁だ、等とは。

 あまりに都合が良い過ぎる。


『妹に手を出せる様な男が良いんでしょうか』

「いや、きっと比喩的表現だ何だと、誤魔化すだろうね。年の差を気にしない者も居るけれど、僕には無理だ、あまりに中身も幼過ぎる」


 色気付く程、若様の心が離れ。

 とうとう、ご両親から注意を受ける事に。


『この家に居たいのなら、許嫁とは仲良くしなさい』

《そうよ、前はあんなに仲が良かったのに、気を引きたいにしても加減なさい》


 あまりの素っ気無さに叱られてしまい、仕方無く文の回数を増やし、文章も長くし。

 そして贈り物も。


「はぁ、どうせ自分で買えるのだから、自分で気に入る物を買えば良いだろうに」


 若様は正式な婚約の場になってから、改めて断ろうとしていた。

 どうせ今は、何を言っても無駄だろうから、と。


『俺に選ぶつもりで買ってみては』


「ふふふ、なら男物ばかりになってしまうよ。でもありがとう、その前提をすっかり忘れていたよ。良い子だね、褒美をあげよう」


『なら、今日は、お傍で眠らせて下さい。最近は良く冷えますから、酷く心配なんです』


「あぁ、そんなにアイツの怪談が怖かったのかい?」


『はぃ』


「ふふふ、良いよ、今日は傍で寝かせてやろう」

『ありがとうございます』


 そして暫経ったある日、正式に婚約する事となり、契約書の中身の確認をと。

 若様はご両親に呼ばれ。


「断ります」


『どうしたんだ、今になって怖気付いたか』

《本当にどうしたの、あんなに》

「アナタ達が妹として可愛がれと仰ったからこそ、妹として可愛がっただけです。アナタ達とは違って、僕は身内に手を出す気も何も無い」


『お前はっ』

「従兄妹同士で結婚した事を、僕が知らないとでも」


『だが、あの娘さんとは』

「血さえ繋がっていなければ、妹に手を出せるんですかアナタは、兄に手を出されて喜ぶ様な者を娶れと仰るんですか」


 音が消えたのかと思える程、暫く静寂が続き。

 若様は契約書をビリビリと破ると、部屋へと戻られた。


『アレは』

「お前なら言わないだろう、構わないさ」


 従兄妹同士での婚姻は禁止はされていない、ただ戸籍に明記しなければならない。

 そして2代、3代と続くとなれば、受理はされない。


『例えどなたと添われても、一生お傍に居ます』

「ありがとう、本当にお前は良い子だね」




 暫く静かな日々が続いたある日の事、元許嫁となった筈の女が、家に訪れ。


《このまま、許嫁同士のままなら、私は身を引きます》


「そう、助かるよ。すまないね、まだ両親がソチラに破談を伝えていなかったとは思わなかったよ」


《えっ、でも》

「先ず、僕にとって君は妹だ。それに、僕に気が無いのだと気付けない、そうした所も無理なんだ」


《そんな、文も》

「妹へ、ね」


《それじゃあ、あの時の言葉は》


「はぁ、どの時だい」


《アナタが、悪友と仰っていた、彼に》


「に?」


《牽制の為、守る為に、強がってらっしゃるだけ、かと》

「あぁ、僕は1度でも、君に対してもそんな事を言ったかい?」


 そして女は、顔を真っ赤にさせ部屋を出て行った。

 コレで終りか、そう思っていると再び部屋に現れた。


 花瓶を片手に、鬼の様な形相で。


《弄ぶなんてあんまりだわ!》


 花瓶を振り上げた所で、俺は若様の前に飛び出した。

 けれど、そこからの記憶は無く。

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