第10章 警官と盗人。

第1話 記憶を消された男と盗人。

『私を、覚えているかね』


《はい、先輩でらっしゃる刑事の》

『いやいや敬礼は良い、今君と私は警官と患者だ、痛みはどうだね』


《はい、いえ、見ての通り手首が痛いですね》


『それがどうして付いたのか、覚えているかね』


《いえ》

『そうか、今はいつか分かるかね』


《梅雨明け前の、6月の》

『今は8月の初頭だ』


《あの》

『君は少し事件に巻き込まれてな、事が大きく、少しな。暫く療養していてくれ』


《はい》

『じゃあ、まぁ、何か思い出したら。そうだな、新しい手帳だ、使ってくれ』


《はい、ありがとうございます》

『いや、色気の無い見舞いの品だ、気にするな』


《いえ、ありがとうございます、ご迷惑を》

『いや、いや。じゃあ、また』


《はい》


 所轄の若い警官が事件に巻き込まれてしまった。

 私的な事も絡み、今は完全に情報封殺をしている、だが。


《あ、刑事さん》


 声を掛けて来たのは、最近悪評高い女医先生。


『はい、なんでしょう』


《実は、亡くなられた方が出ていまして、今の所は不審死では無いのですが。先程、通報させて頂きまして》


『あぁ、もしかして、お偉いさんですか』

《はい》


『では、ご事情を少しお伺い出来ますかな』

《それが、付き添いをして下さった方が、雑誌社の方で。ソチラをどうにかされた方が宜しいかと》


『あぁ、ご配慮を』

《いえ、面倒は困りますから》


『では警官が到着するまで、少し向こうを足止めしておきますよ』

《はい、では、ご案内致します》


『あぁ、少し待っていて下さい、人を待たせていまして』

《あ、そうなんですね》


『例の者の関係者、でしてね』

《あぁ》


 記憶が無い以上、嫌でも取り戻す事に。

 いや、どちらが良いのか、私には分からんよ。


『君達、面会は許すけども、短時間で頼むよ』

「はい」

『ありがとうございます』


『いやすみませんね女医先生』

《いえ、では、コチラです》




 恋仲だった男の記憶が、消されてしまった。


《君とは、どう言った繋がりなんだ》


『いえ、ただの通りすがりです』


《そうか、すまない》

『いえ、では』


《待ってくれ、名を、礼がしたい》


『気紛れの人助けですから、お気になさらず』

《いや、俺は警官なんだ、そうはいかない》


『では、次にお世話になった時にでも、見逃して下さいな』


《次》

『もし次に会うとしたら、じゃあ、お大事になさって下さい』


 私は盗人、彼は警官。

 一時は恋仲にもなっていたけれど。


「あぁ、アンタもう良いのか」

『はい、安静にして頂くのが1番ですから。では、また』


 また、何て無い。

 噂で彼には婚約者が居ると聞いてしまったし、私は罪人。


 コレで良い、別に処女なんか惜しくも無い。

 コレで良い。




《コレは》

「お前から預かった物だ、と言うか俺は覚えてるな」


《あぁ、だがコレは》

「知らん、お前に預かってくれ、とだけ言われて渡された」


 俺の悪友が渡してきた物は、女物の下着。


《冗談も》

「本当に覚えて無いんだな」


《だとしても、コレは、本気か?》

「渡された俺が言った言葉だな、俺には好いた女が居るって言うのに、事情は聞くなと言って渡して去っていったんだ」


《俺が、コレを》

「あぁ」


《どうかしているな》


「差し当たり、さっきの女のじゃないか」


《さっきの》

「お前は今、微妙な立場だ、俺が何もかも教えるワケにはいかない。コレが日誌や手帳類だ、私用の、捜査の手が入る前に預かっておいた」


 見せられた手帳類には確かに見覚えが有る、だが一時期からの内容には全く覚えが。


《記憶が、抜け落ちているのが明確に分かるな》

「ただ、心の赴くままに動け、とだけ言う」


《ココ1ヶ月の記憶が全く無いのに、か》


「事情だけ伝える、お前は監禁されていた」


《監禁》

「それも無いか。無理も無い、お前を好いた女に監禁され、一通りの拷問を受けていた。体の苦痛と心の苦痛、そして薬がお前の記憶を消させたらしい」


《薬とは》

「違法だが依存だ中毒だの心配は必要無い、ただ、お前は休職処分になっている。お前に何の責任が無いにしても、騒動の中心だからな」


《あぁ》

「親には既に連絡して有る、過労、とだけ。お前が事情を説明出来無い以上、俺が受け口になっているが、良いか」


《すまんな、助かる》

「まぁ、俺が探せるだけの品を持ち出しただけだ、まだ他に預けるか隠してるかも知れんな」


《1ヶ月前の事なら、な》


 何故、俺が監禁されたのか。

 全く分からない。




『どうだい、体調は』

《はい、手首以外は何も痛みは有りません》


 若い警官が意識を取り戻し、面会してから1週間が経った。


 手首の傷は抵抗の証。

 発見時は骨が見えてしまっていたらしいが、ココの医者や看護師の腕が良いのか、今はもう抜糸が済んでいるらしい。


『若いと治りが早いんだろうかね、羨ましい限りだよ』

《良く食う、と看護師達に笑われる程ですから》


『あぁ、そいつは失念していた、食い足りなかったか』

《医者の許可を得て出前や、知り合いに持って来て貰っていますので問題有りません》


『そうか、良い物は食えてるか?』

《はい、今日はカツ丼を頂かせて貰いました》


『あー、若いねぇ』


《すみません先輩、まだ記憶が》

『いや、私もこの1週間考えていたんだよ、思い出すべきなのかどうか』


《聞きました、心身共に辛い事が起きた場合、一時的に記憶を失う場合が有る。しかも》

『薬物が使われていた、虚ろにさせる薬、薬酒。だが、それはある種の呪いや民間療法だった。医師が処方する薬酒が有るだろう、そうした品に近い物、君は独自に精製された薬酒を与えられ続けていた。上からも、下からも』


《下から、とは》

『それで、君の記憶が無いのはそれだけでは無い、苦痛を与えられていたんだ』


《この手首、ですから》

『あぁ、君が抵抗したと考えられている』


《あの、犯人は》

『捕まってはいる、共犯も』


《黙秘、ですか》

『あぁ』


 この警官に惚れた女が監禁し、彼を苦しめていた。

 ただ、更に裏が有ったんだが。


 彼が知っていたのかどうか。


《俺は、自力で記憶を》

『いや、立件に際し既に十分な証拠や証言が存在している、無理に記憶を取り戻す必要は無い』


《ですが》

『記憶を失う程の苦痛だ、私はね、このままでも良いのかも知れないと思っている。それは検事局もだ、君は被害者、被害者に不利益を生じさせるべきでは無い』


《ですが俺は警官です》

『そして人間だ、思い出す事に耐えられないからこそ、記憶を失ったままの場合も有るそうだ。体が思い出す事を拒絶するなら、君は生きる為にも、敢えて思い出さないと言う選択肢を取っても構わないんだよ』


 思い出したとて、得になら無いのなら。

 もう立件するには十分に足りているなら。


 だが。


《思い出したいんです》


『どうしてだい』


《好いた女が、居るかも知れないんです》


 あぁ、だから激しく抵抗を。


 だが、だからこそ、それだけ薬を与えられてしまった。

 それだけ、記憶を失う程の苦痛が与えられていた。


『家に、帰ってみるかい』

《はい》


『ただ、今回は一時的にだ、それにお医者先生からの許可も必要だからね』

《はい、宜しくお願いします》


 好いた女に会えたとて、それが良い事なのか悪い事なのか。

 全く、どうしたもんかね。

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