第102話 目を背けたい現実

「静か過ぎて、現実の方が夢みたい」


 ルオラに寄り添って眠っていたわたしは、病院の待合室で目を覚ました。眠い目を擦り、周囲を見回したところだった。


 窓の外は明るくなっていて、夜は明けていた。


 彼女はまだ眠っていた。離れた椅子のところの冒険者も眠っていた。机に置きっ放しだったお皿が片付いていた。わたしは彼女の体を小さく揺すって呟いたけれど、起きる様子は無かった。疲れているのだから仕方が無い。わたしだってまだ眠っていたい。


 この待合室は廊下の端にあって、扉は開け放たれていた。扉の向こうには、一直線になった廊下が突きあたりまでよく見えていた。その廊下に居るのはたった一人、黒い服の誰かが居て、こっちを見ていた。


 その誰かは、わたしと目が合うと振り返って離れていった。組織に報告に戻ったのだと思った。


 起き上がっても辛い現実しか無いから、まだ少し暑い時期にも関わらず、ルオラの体にもたれかかったままで居る。でも、目が覚めてしまったら、考えたくない事を考えないわけにはいかない。


 廊下から去った誰かは、確実に違う誰かを呼んでくる。数人か、大勢かは分からない。


 騒ぎなんて起こりそうにない静かな朝の病院にさえ、わたし達の安心は無い。この街から逃げ出したい。でも、それは無理。ジオの治療は始まったばかりで、当分は動かせない。次の街に移る旅支度も、すぐには出来ない。だから、暫くの間は、安全が確保されないままで街に居るしかない。


 さっき居た組織の見張りが戻るまでに病院を出れば、次に見つかるまでの間は少しだけ安心して居られるかもしれない。でも、隠れ家なんて気の利いたものは無い。そもそも、今夜泊まる宿さえ決まっていない。


 この先は、二人分の生活費に加えて、ジオの入院代も確保しなければいけない。けれども、収入を得るための仕事は決まっていない。


 気が滅入る事情ばかり並べるのは簡単だった。対策が全く浮かばないまま、放心するように廊下の床を見つめていた。少し時間が経ってから誰も居ない廊下に姿を現したのは、昨日の医師だった。


「ルオラ、起きて」


 きっと治療の経過を教えてくれるのだと思って、彼女を起こす事にした。起きたばかりの彼女は医師の姿を見て、わたしと同じ事を思ったに違いない。部屋に入ってきた医師に対して、一番聞きたい事を聞いてくれる。


「ジオさんは、大丈夫でしょうか?」






 目を覚ました私は、昨日会った医師が目の前に居る事だけを確認して声を出しました。


 長椅子に座って眠っていた事、リージュさんが先に起きていた事、周囲の状況は後回しでいいです。ジオさんの容体より先に聞きたい事はありません。


 相手が立っているのですから、こちらも立ち上がって返事を待つか、椅子に掛けるように促すのが良いですが、私達は、立ち上がらずに返事を待つ事にします。


 この理由は、彼女もきっと同じでしょう。目配せする必要さえ有りません。もしも、私の問い掛けに対して悪い返事が返ってきた時、きっと立っていられないからです。


 出来る事は、二人揃って背筋を伸ばし、姿勢を正す事くらいです。何人も掛けられる長椅子の端に、二人で窮屈に座って待ちます。軽く握った両手を両膝のあたりに添えた姿勢で、医師の顔を見上げます。彼は、返事の前に優しく笑います。


「大丈夫。まだ眠ったままで、当分入院だけれど、大丈夫」


 息をするのを忘れていた私達は、揃って小さく息を吐きます。聞きたい言葉が返ってきて本当に良かったです。辛い言葉が返ってきていたら、表現出来ない程に取り乱したに違いありません。続けて大きく息を吐きます。それを見た医師は、言葉を続けます。


「交替の医師が来たので、一先ず、引き継いでから失礼するよ。君達も一度帰るといいですよ」


 医師の顔を見上げていた私達は、この言葉を受けて顔を見合わせます。今は俯くしかありません。


「あの、もう少しだけこの部屋に居てもいいですか?」


 リージュさんの意見を聞く必要はありません。行く宛の無い私達は、医師の顔を見る事が出来ません。


 本当は、起きていてリージュさんと話し合っておくべきだった事がたくさんあります。ジオさんの容体を聞くまで何も決めたくありませんでしたから、二人とも眠る事を選んでいましたが間違いでした。とても弱い私達には、これが精一杯だったとも言えますが…。


 今の状況は、望んでいたものより少し悪いです。


 私達が望んでいたのは、病室で目が覚めたジオさんの声を聞く事でした。そして、無理に起きようとするジオさんを止めて、私達に任せてゆっくり休んで下さいと強がりを言う事でした。それが出来ないと分かった私達は、何か違う心の支えが必要です。すぐに退院出来ればよかったですが、昨日の様子からはそんな想像が出来ません。


 声を聞く事は出来ないけれど、ジオさんは回復に向かっている。


 今はこれが最善だと思う事にして、心の支えにしましょう。


 私達の事情を分からない医師は、有り難い言葉を返してくれます。


「構わないですよ。他の方が見えたら、譲り合って使って下さい」


 その言葉の後に、ジオさんの容体について詳しい説明が続きます。


 薬を使って眠っていて、当分は起きない事、指示があるまで面会出来ない事、火傷や骨折に加えて他にも色々あるけれど治療魔法で必ず治る事、治療にかかる費用の事、そして、その費用を一部分だけ負担してくれる誰かが居る事…。


 説明の最後の部分だけは意味が分かりません。思考が停止してしまって、すぐに聞き返します。


「あの、どういう事ですか?」


 有り難い事ですが、施しを受ける心当たりが全く無いです。その誰かは、一体誰なのでしょうか?


「その事は、また今度に説明しましょう。心配はしなくていいですから」


 言葉の途中で、欠伸を堪えたのが分かりました。夜通しで治療魔法を使っていたのでしょうから、疲れているのは間違いありません。この事は、もっと早くに気付いているべきでした。


「済みません。また教えて下さい。私達は、もう少しここで休んでいます」


 頷いた医師は、ジオさんの居る部屋番号を教えてくれてから立ち去りました。話の間ずっと、私とリージュさんはお互いの手を握り締めていたみたいで、その事に気付いてお互いに手を離します。彼女は、息をゆっくり吐いてから椅子にもたれかかり、口を開きます。


「これって、少しだけ良かったって事でいいのかな? 心配事はたくさんあるんだけれど…」


 私は、この問い掛けに何と答えるべきかゆっくりと考えます。あなたの言うこれとは、ジオさんの容体の事だけに限りませんね。そうならば、良かった事よりも反省すべき事の方が多いんです。私もあなたも同罪です。この事は、今、私が言うべきです。


「そうですね。治るという事なので、良かったです。でも…」


「でも?」


「今の私は、頼り無さ過ぎです」

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