第96話「火と油」
俺は子供を抱えながら部屋を見回し、リージュの声を聞く。
「そいつ、火の魔法を使うの。それに格闘術も手強くて…」
「そうか」
短く返事をして、ルオラの方を見る。その通りだと訴えるように小さく頷く。怖い思いをしたばかりなのか、声を出す元気は無さそうだ。嫌な予感の原因がこの男なのは、すぐに分かった。
情報を整理する。
誘い込まれた部屋。入り口に立つ男。リージュ、ダニー、俺、ルオラ、それぞれが離れた位置。怪我は無さそうだが、二人は戦えそうにない。子供は、治療が必要。
部屋に飛び込んだのは仕方無かったが、間違いだった。通路に居れば、中の様子は分からないままだったが、指示をもらえば出来る事はもっとあった。後悔しても遅い。今は、気持ちを切り替えて順に仕事をしないといけない。
「おい、お前。持ってるんだろ? おとなしく渡せ」
まず、男に話し掛けた。少しだけ時間稼ぎをしたい。子供に治療魔法を使う間は、俺は動けない。
「ふっ。時間稼ぎだな。付き合ってやる。これの事だな」
男は服の胸元に手を入れ、それを取り出す。男の大きな指でつまみ出された小さなもの。暗くて分かりにくいが、宝石だ。
「儂はこれの事はどうでもいいが、欲しがって寄って来る奴に強い奴が居れば面白いと思ってな。借りて持っておる」
「それは特別なものだ。お前には相応しくない」
「ふっ、ふふ。分かっておるわ」
本当に持っているとは思っていなかった。あと少しで応急手当は終わる。もう少し話を続けたい。
「分かっていないな。松明の明かりにかざしてみるといい。俺は知っている」
「ふっ。何が…」
男は、つまんだ石を松明の方に向ける。少し待って感想を聞く。
「面白いだろう?」
「くだらん」
「何が見えた?」
「空と湖? 何の魔法だ? くだらん。貴族は欲しがるかもしれんが、それだけか? 絵の価値なんぞ知るか」
治療魔法はここまでだ。会話も止めていい。次の手順に移ろう。リージュの評価を信じれば、この男から宝石を奪うのは難しいだろう。逃げる手を考えないといけない。
外で作った松明を出し、床に落ちている松明に近付けて火を点ける。そして風の魔法を使う。
落ちていた松明は、全部風で吹き消す。これで、部屋の明かりはひとつになり、俺達が管理する。俺達の視界は確保出来るようにして、男にとって不利になるように使えばいい。
松明を消した意味はもうひとつ。あちらこちらに落ちている松明は、ダニーにとって邪魔だろう。部屋の中というだけでも立ち回りにくそうなのに、火が点在していて動きを制限している。それに暗くて困るのは、人間だけだ。
ダニーが爪で地面を掻く。有り難うという意味だと思っておこう。漸く戦闘態勢に入った狼は存在感が増す。当然、男は注目する。
次は火の魔法対策。油を使って魔法を使いにくくする。油を撒くか、出来ればあいつ自身に浴びせてやりたい。自身が火傷をするような危険があれば、火の魔法を使えなくなるだろう。ダニーが仕掛けるのに合わせて、上手く忍び寄ろう。
「漸く本気か。なら…」
巨大な狼の闘気に対し、男には少しでも怖気づいて欲しかった。聞こえた言葉の意味は、本気の戦いへの期待が込められていた。信じられない。その言葉の続きは何なのか…。
「こいつらは、もう要らん」
男は、懐から出した何かをリージュに投げつける。飛んで行く軌道は、風の魔法で分かる。
「リージュ、盾」
飛び道具は速いが、彼女だって軌道を読み取っているはずだ。持っている盾で身を守って欲しい。
彼女の持っていた木の盾に何かがぶつかる音。床に何かが落ちる音。金属だと分かる。厄介だが、盾で跳ね返せるなら対応出来る。
この音を聞いたルオラは、後ろに下がって柱の陰に隠れる。盾を持っていない彼女は、飛び道具で狙われにくいように半身を隠し、次の事態に備える。男の様子を見ながら好機を待つ。
リージュは盾を持っているが、ルオラの真似をする。柱の陰に隠れ、身を乗り出した部分を盾で守る。これなら、より安全だ。
二人はこのままでいい。攻撃の手段が殆ど無くても、男は注意を続けないといけない。俺が何とかするから隠れて待っていて欲しい。
男は、ダニーに飛び掛かっていきたいのかもしれないが、それをせずにいる。俺達を逃がさないようにするため、部屋の入り口近くから離れる事が出来ないからだ。
この事は制約になっていて、二人を攻撃するのは飛び道具に留めている。もしかしたら、ダニーの攻撃を躱し、隙を狙って反撃する事に集中しているのかもしれない。飛び掛かる勇敢さを示す事より、自身の技の威力を試したいのか。
ダニーは人より強いとはいえ、正面切って飛び掛かるのを躊躇っているように見える。相手を追い掛ける狩りを得意とするのだから、これは仕方が無い。
手で武器を持つ人と違い、狼の武器である牙の周りには目や鼻がある。偶然でもこれに攻撃が当たって機能を損なえば、代わりは無い。危機管理のために慎重になるのは当然だ。それでも隙を見つければ飛び込むだろう。今は、部屋の真ん中をうろついて、様子を見ている。
俺には、男を倒す実力が無い。剣術でも魔法でも、男を圧倒出来る自信は無い。
この場合、隙を作るのは俺の役目だろうな…。
部屋に唯一の松明、それと油、これが今の俺の武器だ。余計な事は考えず、仕事をしよう。
盾を構え、男に向かって突進する。右手で盾をしっかり持つ。左手に松明を握り、油の袋は口に咥える。盾で口元を隠し、油の袋は見えないようにする。ただでさえ暗いのだから、見つかる訳が無い。ダニーは、すぐに寄って来ないで欲しい。ダニーにも油を浴びせるわけにはいかない。
二歩目を踏み込んだ時、盾に何か当たる音。さっきの飛び道具だろう。軽い音。飛んで来た何かは、跳ね返って地面に落ちる。俺の盾は、役割を十分に果たしている。
俺は盾ごと体当たりし、怯んだ隙に油を浴びせるつもりだった。一気に形勢が良くなる予定だった。残り三歩で男にぶつかる、その時だった。
木が砕ける音。俺の握っている木の盾に穴が空く音。同時に衝撃。金属音も響く。盾を貫通した何かは、俺の鎧に当たり跳ね返る。鎧のおかげで出血や骨折は無いが、胸への一撃で息が詰まる。当然、足が止まる。動揺も隠せない。
「何だ? 貫通? このぶ厚い木を? さっきは跳ね返して…」
思わず声に出した。しかし、誰にも、俺にも聞こえない。出せる声が小さい。
「ふっ」
男の声。鼻で笑った。技を出すために息を吐いた音かもしれない。どちらでも同じ事だ。俺は役割を果たせなかった。今から男の渾身の一撃を受ける。
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