第94話「ひとつの計画」
わたしは、ルオラと一緒に伏せるのが精一杯だった。
部屋の奥の男は、逃げようとしたルオラを追う素振りは見せなかった。ただ、腕組みしていた手を解いて、片手で部屋の入り口を指差しただけだった。わたしは、その動きを見つめていた。観察というには程遠い。ただ見ていただけだった。
怖くて逃げる事も選べなかったわたし、ただ突っ立っていたわたしは、そのおかげで彼女を助ける事が出来た。この事は、とても幸運だった。それ以外は最悪だった。
彼女に向かって叫んだ後、部屋の入り口の方を見る。彼女が走っていくはずだった先に、光る小さな点が現れる。その点は陽炎をまとい、部屋の入り口を歪めて見せる。その一点が急激に高温になったからだ。いくらなんでも石を溶かすような温度じゃないにせよ、近寄ったらきっと大火傷をする。
火の魔法。
それをあの男が使った。人によってやり方が違う。その一点を集中して見つめる者、杖で指し示す者、あいつみたいに指で指す者、でも、起きる現象は同じ。その一点が急激に加熱し、周りに燃えるものがあれば火が付く。人や動物は火傷を負う。
その温度の程度は、使い手によって様々だ。焚火の種火を作るのが精一杯の者、少量なら湯を沸かせる者、そして、相手を死傷させる威力の者。あの男は最悪だ。周囲の風景が広い範囲で歪んで見えるなんて、どんな温度か分からない。
わたしは、彼女に飛びついて床に伏せた。火の魔法から遠ざかる方へ、部屋の入り口から遠ざかる方へ倒れ込んだ。床にあった大きな石材の破片に隠れるように倒れたつもりだったけれど、熱を防ぎきれていない。背中に熱さを感じる。これを中心で喰らったら、ひとたまりもない。
「ルオラ、大丈夫?」
きっと彼女も同じ事を考えていて、悲観的な表情と声になる。
「大丈夫です。ですが…」
「最悪だね…」
抱き合って倒れていたわたし達は、身を起こして一緒に部屋の奥を見る。あの男が居た所だ。しかし、そこには誰も居なくなっていた。
次に部屋の入り口を見る。最悪の男は、そこに移動していた。わたし達の逃げ道は塞がれた。偶然でも勝てれば出られるけれど、実力差があり過ぎる。わたし達はここで終わりだと思う。
私の悪い予感は当たっていました。
あの男は武器らしいものを持っていませんが、最高に危険です。防具は手足の動きを制限しない、軽くて最小限のものを身に着けています。殆どが鉄ではなく硬い皮でしょうか。服は体を動かしやすそうな、ゆとりのあるものを着ています。靴は踵の低いものを履き、手には手袋もつけていません。
あの男は格闘家です。それも、とても強い。
佇まいや足運びは隙だらけ、その事が逆に怖いです。相手に先に手を出させ、隠していた実力で圧倒的な威力の反撃をする。そんな魂胆が透けて見えます。私の観察眼は確かです。それだけに勝てる気がしません。
この最悪の状況で選べる脱出方法は、ひとつしか思いつきません。
「ねえ、ルオラ…」
リージュさんの声が掠れています。きっと私と同じ事を考えていますね。
「リージュさん、やりますか?」
「わたしの考えてる事、分かる?」
「分かります」
分かりますよ。私の声だって掠れているでしょう?
わたしは、ルオラと友達になれてよかったと思う。
彼女の考えている事を読み取るのに魔法なんて要らなかった。この事は、とても嬉しい事だった。でも、これからやる事を考えると悲しくなる。わたしと彼女に残された脱出方法は、ひとつしか無い。
二人で同時に男に攻撃を仕掛け、どちらか一人が囮になり部屋に残る。そして、どちらか一人が脱出する。
脱出した方は、どこに居るか分からないジオを探して戻る。ジオを探している間、戻ってくるまでの間は、強力な魔法も使う格上の格闘家とたった一人で戦わないといけない。戻るまでに殺されてしまっていてもおかしくない。ダニーの行動は予測出来ない。
ジオが居たって勝てるかどうか分からない。何かの駆け引きで優位を取ってもらえたら…。その一点を望むばかりだ。他に策は無い。もしかしたら、この部屋に戻らない選択をする事だって…。
「はぁ…」
溜め息ではない。息を吐き、体に入った余計な力を抜く。生き残るための息吹。静かに覚悟を決める。どちらの役になっても仕方無い。二人ともがここで殺されるくらいなら、この方がまし、そう思うしかない。
彼女と目配せをする。同時に頷いてから歩き出す。左に彼女、右にわたし。左右から同時に攻撃すれば、男はどちらかに正対し、どちらかが男の背後を取れる。そうすれば、どちらかに逃げる機会が訪れる。これが最も効率がいい。いいはずだ。
男は薄らと笑っていて、わたし達が配置につくのを待っている。わたし達の考えを見透かしていて、それでも待っているのであれば、わたし達が逃げる隙なんて与えてもらえそうに無い。それでもやるしかない。
わたし達は、男を挟み撃ちにする。先に仕掛けたのは彼女、得意の槍で突き、間髪入れずに斬りつける。あの長い槍であれば、男に距離を取ったまま攻撃を続けられる。反撃される事は心配しなくていい。
わたしは、風の魔法で援護する。突風を起こして、男を転ばせるのを狙う。転ばなくてもいい。少しだけ姿勢が崩れるだけでいい。それで彼女の一撃が当たる。もしくは、隙だらけになったところをわたしの短剣で狙う。即席の作戦だけれど、十分効果的だと思う。
わたしの起こした風で松明の火が揺れる。消さないようにするのは気を遣う。今はあまり余裕が無い。松明よりも男の様子を観察しないといけない。
男は、彼女に対して横を向いたままで、その攻撃を全て捌いていた。槍の軌道を集中して見つめて躱す、そんな事はしていない。右手だけで槍の軌道を変え、小さな動きで躱す。わたしに対しても横を向いているけれど、斬りかかる隙は無い。風の魔法も効いていない。
彼女は、槍を連続して振る。わたしは、方向を何度も変えて風をぶつける。その間、男はこちらを殆ど見ない。わたしと彼女の方を一瞥するだけで、すぐに顔の向きを戻す。男が顔を向けている方は部屋の奥。それでも、わたし達の攻撃を簡単に捌いている。実力の差があり過ぎて呆気にとられる。
切り札の飛び道具を使う気にはならない。きっと簡単に跳ね返されるか、角度も計算してルオラの方に弾かれて彼女に当たる。もしかしたら、掴まれて、こっちに投げ返してくる。そんな風に思えて仕方が無い。
「はぁ…」
思わず溜め息が漏れる。何故こんな風に簡単に躱す事が出来るのか? 不思議で仕方無い。しかし、今のところ、男は反撃をしてこない。わたしに余裕は無いけれど、他に出来る事が思いつかない。男の様子を窺いながら、男の見ている方に目をやった。
「ダニー…」
彼は、音を立てずにそこに居た。
わたし達が慌てている間、多分ずっと落ち着いていた。男の様子を窺っていた。実力を測っていた。そして噛みつく機会を探していた。
男は、ダニーを一番警戒している。わたしよりも、彼女よりも。男はきっと狼と戦いたいんだと思った。
ダニーの様子はよく見えない。それでも、外で敵を襲った時と様子が違う事は分かった。唸り声を上げていない。すぐに飛び掛かるような気配を感じない。
火の魔法の事がよく分からずに、警戒しているの?
きっとそうに違いない。頭のいい狩人は、いくらなんでも魔法の事は分からない。ただ、危険な事だとは分かって、飛び掛かれずにいる。せめて、わたし達が隙を作れればいいのだけれど、二人がかりでそれさえ出来ない。ただ、男はダニーを警戒し、わたし達に反撃してこない。
図らずとも、三すくみの状態が出来上がっていた。
わたし達は攻撃を続けていても反撃を受けない代わりに、背を向けるのが怖くて通路に逃げる事は出来ない。ダニーは魔法を警戒し、飛び掛かる機会を待って動かない。男はダニーに注意を向け、わたし達の攻撃を受け流すが、反撃をする余裕までは無い。
この状態が続く限り、わたし達は負けないけれど、勝つ事も出来ない。何か変化が必要だった。
「はぁっ」
彼女の息が上がる。渾身の攻撃をずっと続けていたのだから無理もない。わたしだって魔法の風が弱くなっている。わたし達の事とは別に、足元の松明のうちひとつが燃え尽き、部屋がさらに暗くなる。起きた変化は悪いものばかりだった。男の顔に嫌な笑いが浮かんだ気がした。
男の使う火の魔法は、狙った一箇所に熱を集中させる魔法で、その一箇所を決めた後で移動させる事は難しい。この事をわたしは知っているから、火の魔法使いを相手にするなら移動を繰り返し、狙いを定められないようにする。
ダニーはこの事を知らない。知らせる術は無い。
さっきまでは、わたし達の無駄な足搔きが効いていて、男に魔法を使う余裕は無かった。今はもう違う。わたし達は、疲れ始めていた。
「そろそろ始めようか。狼…」
男は彼女の槍を掴み、奪って叩き折る。たじろぐ彼女は、間合いを空ける。わたしも男の振った拳を避けようとして後ろに下がる。
この瞬間に、使いどころを迷っていたわたしの切り札を使う事に決めて、鉄の粒をふたつ撃ち出す。頭と胸を狙って飛ばした切り札は、両方とも簡単に弾かれる。わたし達の攻撃は、両方止まってしまった。男には、その時間で十分だった。
ついに男は指を差す。ダニーを目掛けて火の魔法を使う。
「ダニー、お願いだから避けて」
攻撃を続ける事が出来なくなっていたわたしは、叫ぶのが精一杯だった。ダニーの真上に光る点が現れるのを見ていた。
焦るわたしの目線の端を横切ったのは、小さな影。その人影は部屋の入り口から飛び込んで来て、男の足元に縋りつく。そこから男の顔を見上げる。
「追って来るんだ。ここに。そいつも…、そいつも倒してくれ」
その言葉は惨めな訴えだった。殺意も悪意も無い小さな影は、男にとって一切の脅威が無い。だから、全力のわたし達が出来なかった事をやってのけた。簡単に男の懐に入っていった。
「ここにおびき出す計画だっただろ?」
小さいが良く聞こえる声で訴えが続く。この声は子供の声だ。
「ボクはちゃんとやったんだ」
子供の行動は、男の集中を乱すのには十分だった。男の火の魔法は中断され、ダニーの傍の光の点が消えて、男が舌打ちをする。そして、わたし達が嵌った罠の仕組みを少しだけ明らかにしてくれた。
「邪魔するな。お前は…」
男が低い声で返事をする。鉄壁の守りで槍と短剣を寄せ付けなかった防御は、不意に破られた。苛立ちを隠さない男は、無防備な子供に拳を振るう。固く握った拳を子供の頭に振り下ろす。怪我だけでは済まない威力だと思う。
「駄目です」
声を上げたのはルオラだった。わたしは状況を読み取るのに夢中で、声さえ出なかった。
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