第90話「逃げ場は無い」
わたしは、あいつの術から抜け出せないでいた。
思いもよらなかった状況に動揺し、冷静に判断出来ていなかった。悪い想像ばかりして、対策が練れていなかった。特別な魔法に圧倒され、自身の力を信じられていなかった。
そんな思いと同時に、わたしもあいつの魔法を使えればダニーの気持ちが分かるのにと思って、羨ましい気持ちがあった。あいつを倒せる力は無いけれど、攻撃するのを躊躇っていた。あいつとは仲良くなれそうにないから、何の遠慮も要らないのだけれど、ダニーの気持ちを聞いてみたいという僅かな願いが頭を離れなかった。
わたしの横に居るダニーは、息遣いを荒くして、小さい唸り声を上げ始めた。わたしにはあいつみたいな魔法は使えないけれど、それでもダニーが怒っているのは分かった。口の端を持ち上げて、牙を見せている。足を地面に踏ん張って、今にも走り出しそうだ。
もし、わたしのために怒ってくれているのだとしたら、とても嬉しい事だった。足は痛いけれど、気持ちは少し楽になった。そんな時に、聞きたくないあいつの声が聞こえる。
「何だ? 群れを守るのが、何だって…」
あいつは、何を言っているのか?
「王の務め、だと? 何が聞こえているんだ?」
あいつが混乱しているのが分かった。
あいつは動物の心、ダニーの心を読んでいる。そのせいで混乱している。あいつが思っている程に、ダニーの心は単純じゃないんだ。状況を読み取り、色々な判断をしている。
それがあいつの予想外だったみたいで、取り乱している。あいつはきっと、自身の特殊な魔法で常に優位に立ち、いつだって相手を追い詰めていたに違いない。今日、たった今、あいつは狩られる側に回った。
わたしにだって読み取れる事はあった。ダニーはきっと、今のわたしに無いものを持っている。自身の牙や爪に十分な自信を持っている。そして、ダニーはあいつに容赦しない。
ダニーの唸り声が聞こえる範囲は、空気が張り詰めている気がした。独特の緊張感があった。それは、狩りが始まる予感だった。わたしはそれを頼もしく思い、あいつには恐怖を与えていた。
走り出したダニーは、二歩三歩と進む度に加速していく。左に右に、交互に身を翻して飛び跳ねて行く。大きな体なのに素早い動き、あいつは短剣を投げられない。瞬きする間に距離を詰めていった。
走って逃げるなんて不可能で、ダニーの体躯を見たら、盾で身を守る事も出来そうにない。唯一出来そうな事は、相打ち覚悟で剣を振る事ぐらいかもしれない。
ダニーは、わたしに対しても苛立っていたかもしれない。ダニーにとっては弱そうなあいつから逃げる事に、立ち向かおうとしない事に怒っていたかもしれない。そして、ついにお手本を見せる事にした。彼の背中にそう書いてある気がした。
「そうか。お前が群れの王か…」
その言葉は、落ち着いた声だった。何かを諦めたような声だった。
あいつが倒れる前に見たのは、ダニーの大きな口とそこに並ぶ鋭い牙か。ダニーは、あいつが身を隠していた辺りの枝なんかが口に入るのなんて気にしない勢いで、枝葉と一緒に荒っぽく頭に嚙みついた。
わたしが近寄ると、あいつは気絶していた。痛みか恐怖、或いはその両方が理由だと思う。
痛む足に包帯を巻いてから捜索を再開する。その入り口は、すぐに見つかった。木の根が重なるようになって塞がりかけた通気口は、わたしだったら入れそうだった。
「ダニー、有り難う。少し中の様子を見てくるよ。待っててね」
足からゆっくりと通気口に入る。垂直に近い角度の穴の壁に手と足をついて、落ちないように降りていく。様子を見るだけだから、きっと大丈夫。
わたしだって、力一杯立ち向かえば勝てたかもしれない。でも、そうしようとさえしなかった。言葉を話せないダニーにこの事を教えてもらった気がする。
遺跡の中を調べるのは、わたしの仕事。わたしが代わりに見てくるよ。
俺は、枯れた枝を拾って束ね、松明を作っている。
これを点けて中に入って行くわけじゃない。暗闇で、自分から居場所をばらすつもりは無い。持って行って、必要があれば使うのみだ。
暫く探しても、他の通気口を見つける事が出来なかった。連中の使った正面入り口の方に戻ってみる事にしよう。
私が四人目を運び終わった時でした。
ダニーさんがこっちに勢いよく走って来ます。
「どうしたんですか? リージュさんはどこですか?」
当然ですが、返事は有りません。
「待って下さい。どこへ行くんですか?」
ダニーさんは、遺跡の入り口で一度止まって中を覗くような仕草をした後、ゆっくり遺跡に入って行きます。
もしかして、リージュさんが中の人に捕まったんでしょうか?
「待って下さい。一緒に行きます」
本当は、遺跡に近寄るのさえ嫌なんですよ。でも…。
わたしは、狭い通気口の中を静かに降りる。
この中は、埃と煤と土とで汚れていて最悪の場所だった。我慢して降りていく。通気口は地下室の天井に繋がっているみたいだった。下に居る奴らが、天井を見上げていない事を祈るしかない。
穴の一番下には扉も格子も無かったけれど、足を引っ掛ける事が出来る縁があった。そこで止まって下の様子を窺う。
ゆっくり降りて正解だった。勢いよく降りていたら一気に床まで転落していたかもしれない。そうでなくても、天井の開口部から急に足が出て来たら、下の奴らは驚くだろう。そして、間違いなく攻撃を受ける。危ないところだった。
天井から床までは、かなりの高さがある。目を凝らして見なくても、近くに柱が在るのが分かった。それを伝って下まで降りられそうだった。もしかしたら、この通気口の掃除か何かのために登れるように付けられた柱かもしれない。丁度いいところに取っ手も付いている。慎重に降りていく事にする。
人一人が隠れるのに丁度いい太さの柱。その柱の上の方に掴まったまま地下室を見下ろす。
わたしの居る位置は、奴らの頭より随分上になる。それに、この柱は、都合よく地下室の隅の方に在った。音を立てなければ誰も真上を見上げないだろうから、誰もわたしの事には気付いていない。
天井が高くて広い地下室。百人、いや二百人くらい入れそうか。形は、単純な四角形をしている。奴らが松明を何本も使っているけれど、暗くて全体は見渡せない。同じような柱は他に何本もあって、下に降りた後で、わたしが隠れるのには丁度いい。静かに降りれば、奴らに見つからないだろう。
奴らは、何をしているのか?
床に降り立ち、柱の陰から様子を見る。松明を片手に壁を調べている者、床を調べている者、小声で話をしている者、ダークエルフの女は居ない。狼も居ない。強そうな男は、部屋の真ん中に立って、他の奴らの働きを眺めている。腰に手を当てて欠伸をし、退屈そうだ。
こんな所、とっくの昔に盗掘されて何も無いでしょう?
入り口に扉も無いような遺跡なんて、何も残っていなくて当然だ。だからこそ、余計に何をしているか気になる。本当に組織の連中なら、連中にしか分からない方法で隠された宝石を探せるのかもしれない。
少し時間が経っても、奴らの様子に変化は無い。代わりに違う変化に気付く。入り口の方に別の気配を感じる。誰か来たのかもしれない。
その気配の主は、地下室の手前で止まり、中の様子を窺っている。中の奴らに見つからないような慎重な振る舞いは、十分な訓練を積んでいる証拠だ。ちゃんとは見えないが、知っている人物のような気がしてきた。
ルオラ、なんで来たの? 来たくないんじゃなかったの?
何度も首を振って中を見回すルオラ。薄暗くて見えにくいから仕方が無い。
駄目だよ。見つかる前に帰って。わたしは大丈夫…。
そうは思っても声には出せない。わたしの事に気付いたみたいだから、ゆっくりと口を動かすけれど、暗くてきっと読み取れない。手を振って帰れと促す。
何? 何故こっちを指差すの? こっちに何かあるの?
その男の気配はしなかった。さっきまでずっと、部屋の真ん中に突っ立っていただけのはずだった。いや、わたしが反応出来ない程に素早かったんだ。鍛えた体をした男は、一瞬でわたしの背後に居た。
「よぉ、待ってたんだ。手応えある奴なら嬉しいなぁ」
男は、低い声で嬉しそうに喋った。わたしは、もっと前に見つかっていたらしかった。
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