第77話 背後に居る何か

 わたしは、冷や汗が頬を伝うのを感じていた。


 ルオラの傍の敵が、わたしの攻撃で倒れたのが見えた。その向こうに居た敵は、ルオラが倒したのが見えた。これで全員を倒したはずだった。


 わたしはルオラの方を向き、片膝をついてしゃがんだ姿勢で鉄の筒を握りしめていた。周りは真っ暗で何も見えない。怖くて後ろを振り返る事は出来なかったが、何が居るかは想像出来ていた。いや、想像が出来ていたから振り返れなかった。


 わたしは、敵の一人の頭を思いきり蹴飛ばしたつもりだった。それで敵が当分目を覚まさないと思い込んでいた。わたしは非力な魔法使いだった。鍛えられた剣士を一撃で倒せる力も技術も無かったのだと思い知った。


 わたしの背後で殺気を放っているのは、その敵だ。


 目を覚まし、音を立てずに怒りの炎を心に灯して立ち上がった敵は、剣を両手で握り、振り下ろす力を貯めている。そんな姿が想像出来た。振り返って攻撃しようとした瞬間に、わたしは斬られる。ずっと冷や汗が止まらなかった。



 押し殺していた吐息が漏れ、その息遣いが相手に聞こえていそうだった。


 鉄の筒は落としてしまったけれど、拾おうとは思わなかった。


 さっきまで感じていた勝利の予感も、達成感ももう無かった。


 ジオもルオラもこの事にきっと気付いていない。助けてくれない。


 声を上げたかったけれど、怖くて出来そうになかった。


 両手を上げ、おそるおそる振り返った。


 涙が出ていた自覚は無かったけれど、目に溜まった涙が零れるのが分かった。


 震えた足で立ち上がるのは無理そうで、しゃがんだまま相手の顔を見上げた。


 暗くて顔は見えなかったから、諦めて地面を見つめる事にした。


 そのまま、剣が振り下ろされるのを待っていた。


 怖い思いが長い時間続くより、早く斬って欲しかった。


 もう耐えられない。


 相手が剣を強く握り直したのが分かったから、やっと終わりだと思った。


 その時に、相手の足の向こう、その左側に音もなく落ちたのは兎だった。


 その向こうに見えたのは大きな毛むくじゃらの足で、それには見覚えがあった。足音も無く、そいつはそこに居た。


 顔を上げると、今度は敵が動けなくなっていた。剣を両手で握り、振り上げた姿勢で固まっている。鎧が音を立てる程に震えている。


 敵の背後に見えたのは、牙の並んだ大きな口。低い唸り声を上げている。その口から出る力強い息は敵の背中を押していて、それだけでこの男を押し倒しそうだった。大きな目は、わたしの代わりに敵を睨みつけている。


 森に王様が居るとしたら、この動物だと思った。


「何だ? 後ろに何が居るんだ? 教えてくれ」


 わたしを追い詰めていた敵は、わたしに懇願し始めた。その恐怖は、わたしには想像がつく。さっきまでのわたしが目の前に居るようだった。でも、わたしは命乞いをするみたいに呟いたりしていない。少しだけ自信が戻って来ていた。


 その巨大な狼は、最初の森で出会った時と同じ姿だった。この狼と普通の大きさの狼を並べたら、普通の狼は小さ過ぎて生まれたばかりの子狼に見えるだろう。


 狼は、大きな口で敵の太腿に噛みつく。小さな女の子が蛇でも見つけたみたいな、弱々しい悲鳴が聞こえた。森でジオに噛みついていた時は、力を出し切っていなかったのかもしれない。


 狼は前足を踏ん張り、敵を咥えて持ち上げると、左右に振り回してから投げ捨てる。敵は森の中に飛んで行き、何かにぶつかった音がした。もう立ち上がって来ないのが分かった。

 

 敵が居なくなって安心したわたしは、今度は狼と向き合う事になった。


 力が抜けて地面に座り込んだわたしと弱者を見下ろす王様。力関係はその通りだった。野生の冷たい目はわたしを見つめていて、口は小さく開いていた。それは、わたしにいつでも噛みつけるという事だと思った。


 安心したのも束の間、わたしは助かったわけじゃない。観念して両手を小さく上げる。今日二回目の降参の合図だった。


 あいつより、わたしの方がおいしそうだったって事か…


 狼に食べられて、わたしの一生はここで終わる。さっき生き残る事を諦めたから、改めて恐怖は無い。自身のすすり泣く音だけが聞こえていて、淋しい最後だと思った。


 もう恐怖感が無かったので、逆に落ち着いてきて疑問が幾つか浮かぶ。


 あの森からわたし達を追い掛けて来たのは何故? あの時と大きさが同じなのは何故? わたしが貴方に恐怖を感じないのは何故?


 狼はゆっくりと近づいて来ると、わたしの腰のあたりに鼻を近づける。丸飲みにされるわけじゃなかった。


 わたしは腰の道具袋に付けていた飾りの事を思い出す。小さい頃、家の近くの森にも大きな狼が居た。わたし達はその狼と仲が良くて、尻尾の毛を少しもらって筆みたいに束ね、飾りにしていた。大事にしていたそれをずっと持ち歩いていた。


「もしかして、仲間の匂いがしたからついて来たの?」


 狼が返事をするわけが無かった。狼はもっと体を寄せてくると、首のあたりを私の体に押し付けてくる。力が強すぎて後ろに押し倒されそうになる。少なくとも食べようとしている様子は無い。とにかく助かった。


「ありがと。ありがと。やめて、やめて。くすぐったいから」


 押し戻そうとしても無理だった。狼が自分で下がってくれるまで待つしかない。


「あんただけは最初からこの大きさで、宝石のせいで大きくされたんじゃなかったんだ」


 なんとなくそんな気がした。


 狼は一歩後ろに下がると、さっき落とした兎を咥え直して馬車の方へ歩き出す。その姿を見て、こう思う。


 あれ、さっきのは、わたしに懐いたんじゃなくて、自身の所有物に自身の匂いを付けただけ? あれれ…


 わたしは森に走ってルオラと自身の荷物を掴むと、先に行った狼に寄り添って歩いて行く事にした。腰が抜けたみたいになっていて、笑ってしまうくらいに頼り無い歩き方になっている。それでも、力強い狼と一緒に歩くのは誇らしかった。


 無事に仲間の所に戻れる事がとても嬉しい。一歩進むごとに焚火の明かりが近づいてくる安心感は、夕暮れに我が家に帰る時のような温かい気分だった。

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