第60話 星に願いを
街を出発して今日で五日目、俺は失敗したと思った。
昨日も昼間に寝ておけばよかった。今日からは馬車の操縦を代わってもらって、昼間に少し寝ておく事にしたい。
昨夜の見張りは、宿場町の中だったから盗人の心配があるくらいで、クローや組織の事は気にしていなかった。町の中で騒動があれば、奴等だって少しくらい不利益があるだろうからだ。しかし、今夜は街道付近のどこかで野宿の予定で、少し緊張感を持たないといけない。
街と街を繋ぐ馬車道は整備されて平坦だが、その脇は農地や荒地が広がっていて馬車を停めて野宿が出来る場所は少ない。
そんな中で旅慣れた先人達が見つけ、何度も利用している道の脇の広場を俺達も利用させてもらって野宿している。馬車を停め、数人が焚火を囲める適度な広さ、森があって薪や水を取りに行きやすい場所を先人達は選んでいる。
これらの場所は野宿において利便性が高いが、誰かの襲撃を迎え撃つ陣地の役割はしない。追手が来た場合、戦うにせよ逃げるにせよ、先に相手を発見する事が重要だ。
俺が昼間に寝ていて発生する問題は、あの二人の事。俺が起きていれば喧嘩が白熱する前に仲裁に入れるが、寝ている間だとそうはいかない。しかし、二人にしか分からない壁があるなら、俺には解決出来ない。
酷い喧嘩にならない事を祈って、二人の様子を見守ろう。
わたしは、少し疲れてきたかもしれない。
変わり映えのしない景色と揺れる馬車、荷台の硬い寝床。東の果ての街を目指して来た時と同じなのに、逆方向に進む今は、一週間持たずに疲れが出ている。こんなはずじゃなかったのに…。
今日通った道には、見える範囲に広い森が無かった。随分前に刈り取りが終わった後の麦畑と牧草地みたいな草地が延々と広がっていて、今夜の分の薪を調達出来なかった。
仕方が無いので前日までに集めておいた薪を使う。馬から見たら荷台の荷物が軽くなるけれど、こちらからすると備蓄が減って困る。
食べ物も手に入らなかったから、積んできた備蓄を使わないといけない。ジオの料理は美味しいけれど、今のわたしには何かが足りない。
今夜の見張りの順番も昨日と同じに決まった。昨日と同じように頭まで毛布をかぶり、焚火と星とを交互に見つめる。
揺れる炎、舞い散る火の粉、雲に隠れる星、また現れる星、こいつらは話を聞いてくれるけれど、話し掛けてはくれない。寂しい時間が過ぎていく。
砂時計をひっくり返したのは、ちゃんと二回だった。間違って蹴飛ばしたりしないように、離れた所の地面に置いておいた。今は、三回目の砂が時間を数えている。残りあと少しの砂が落ち切ったら、ジオを起こして見張りの交代だ。
雲が少し流れてきて、月が隠れた時だった。少し辺りが暗くなったけれど、その分、星が綺麗に見えるようになった。砂時計をよく見ようと思って、頭まで被っていた毛布を肩まで下げて立ち上がる準備をする。
砂時計に近寄ろうとした時だった。空を見ていなかったけれど、視界の端に急に明るいものが見えたので顔を上げる。その何かを見つけて、わたしは口を開けたまま立ち尽くしてしまった。そんなものは、今まで一度も見た事が無かった。
その流れ星は、明るい緑色に光りながら空に現れた。月より小さく見えて、星より大きく見えるそれは、移動してわたしの真上を越えて行く。首が痛くなる程に見上げてから、それを追い掛けて後ろを振り返る。
流れ星だと思うけれど、見た事無い程に明るいし、大き過ぎるかも…。色だって、緑色に光るなんて見た事無い。動く速度も遅すぎる。何なの?
そう考えながら、丸く光るそれを見つめる。
流れ星かもしれない何かは、光りながらゆっくり頭上を越え、わたしから遠ざかって行く。少し興奮しながら、流れ星にまつわる話を思い出す。こんな大きな流れ星なら、少しくらいわたしの願いを聞いてくれるかもしれない。
緑色の何かは、わたしが願い事を心の中で唱え終わるのを待ってくれていたみたいだった。
消える直前に赤と白が混じって光ったみたいに見えた。一瞬だったのか、長い時間だったのか分からない程に集中していた。まだ興奮は冷めなかった。わたしは光が消えても、立ち尽くしていた。
雲はまだ月を隠していた。少し冷静になって、毛布を落としてしまっている事に気付き、拾い上げて羽織るように体に巻き付けた。
夏の終わりだし、寒いわけは無いけれど、少し興奮が冷めて寒気を感じ、毛布に縋ってしまった。毛布は丁度いい暖かさだった。
あれは何だったの?
誰にもうまく説明出来ない気がする。見た人にしか分からない感動があった。近くに焚火の明かりは見えない。野宿をしている旅人は、辺りに居なさそうだった。もし近くに居たら、走って行って話を聞いたかもしれない。
流れ星が消えたのは丁度馬車の方向だったから、薄暗い中、わたしは馬車の方を向いて立っていた。
荷台を見ると、寝ていたジオが体を起こしていた。勘のいいジオだから、何かを察して起きていたのかもしれない。感動し過ぎて、声を出せずに固まっているのか…。
「今の…、今の見たでしょ。あれって何かな? 本当に流れ星なの。流れ星なのかな?」
落ち込んでいたわたしはどこへ行ったのか。随分大きな声を出してしまった。それでも止まらず、返事を待たずに言葉を続ける。
「あんなの見た事無かった。凄い。凄い。綺麗だったし。なんて言ったらいいの?」
ひと呼吸して、わたしはまだ喋る。
「もしかして見てなかった? 見てたでしょ。あれを見たのは、世界でわたし達だけかな」
感動を共有したい。ジオの返事を待つ事にして、呼吸を整えながら荷台の影を見つめる。雲が動いて月が顔を出すと、周囲が明るくなって、荷台の人影を照らす。起きていたのは、ジオじゃなかった。
彼女は、上半身を起こして空を見上げていた。姿勢良く背筋を伸ばして座っていて、わたしは、その横顔を見つめたまま固まってしまった。その間に、彼女は小さく呟く。
「私も…」
彼女の言葉は、そこで途切れてしまった。けれど、それは次の言葉に力を込めるためだったのかもしれない。彼女はこちらを見ないまま、わたしと同じように興奮気味に言いたい事を言う。
「見ましたよ。何か分からないですけど、とっても綺麗でした。あんなの初めてです」
わたしがどうしていいか分からずにいると、彼女は言葉を続ける。
「ジオさんに聞いたら何か教えてくれそうですが、残念、ぐっすり寝ています。明日になって、昨日の夜にこんな事がありましたって教えてあげたら、すごく悔しがると思いますね」
彼女は話を止めて、わたしの顔を見つめる。その目は、まだ少し眠そうに見えたけれど、すぐに変わって真剣な目つきになった。そして、次の言葉を投げ掛けてくる。わたしには、その言葉が聞こえる前に彼女の意図が分かった気がした。
「そう思いませんか?」
彼女は、一文字一文字がよく聞こえるようにはっきりと喋った。それは、わたしと会話するためのきっかけ作りだった。
旅が始まる前から、わたし達の関係は最悪だった。わたしも考えていたけれど、彼女もきっとどうにかしようと考えていた。そして、今この時が最善と判断して言葉を選んだのだと思う。
夜空で起きた出来事は何だったのか分からないけれど、彼女はこれを最大限に利用しようと決めたのだ。わたしと彼女のためだけに、あの光が現れたわけではない。
でも、彼女はそう思う事に決めたのだ。わたしだって答えないといけない。
「きっと…」
言葉が上手く出てこない。声も足も少し震えている。羽織っている毛布の端を胸の前で強く握る。引っ張って毛布を体に密着させる。何か一言返せればいい。それで会話が続くのなら…。
「きっと、きっと悔しがるよ。大きな声で…」
早口に言ってから、彼女の顔色を窺う。この言葉は、彼女が待っている言葉だろうか? その真剣な眼差しは変わらなくて黙ったままだったから、わたしは、途中で止めた言葉を最後まで続ける事にした。大した内容じゃないけれど…。
「わたし達に、文句を、言うと、思う」
途切れ途切れになった言葉は、最後には小声になってしまった。ちゃんと聞き取れただろうか。
何の用意もなく始まった会話は、ここで止まってしまった。少しの間、月明りの下で見つめ合う。わたしは、もう何も出来ない。頭が真っ白だった。
わたしが何も出来ないでいると、彼女は目線を夜空に移してから口を開く。
「お願い事をしましたか?」
わたしは、何の事かすぐに分からなかったから、言葉が出なかった。
「流れ星に、お願い事をしましたか?」
彼女の優しい問い掛けに面食らってしまった。言葉に詰まって、簡単な言葉しか思い浮かばない。
「した。したよ」
少し間を置いてから、返事がある。
「叶うといいですね。お願い事」
わたしは、一度頷くのが精一杯だった。
「旅は、明日も続きます。今夜はもう寝ましょう。おやすみなさい」
彼女はそう言うと、こちらに背を向けて横になってしまった。この夜の会話は、ここまでだった。わたしは心の中で、おやすみなさいと呟いた。
思い返すと、わたし達は二人とも声が震えていたかもしれない。二人とも無理をして話をしていたと思う。ただ、それでよかった。突然でも、進展があったのだから。
焚火の傍、馬車の荷台に背を向けて座り込んで、また毛布を頭まで被る。何も考えられなかった。毛布の中には、わたしの心臓の鼓動が強く響いていた。
深い溜め息を三回繰り返すと、少し落ち着いたかもしれない。毛布の隙間から砂時計を見ると、全部の砂が落ち切っていた。ジオを起こして朝まで眠ろう。
もし、もしも、あの流れ星がもう一度現れたなら、今度はお願いではなくて、有り難うと何度も唱えようと思った。
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