第35話 「巨大動物」
気付くと真っ暗な森の夜が明けてくる。
さっきまでは焚火を離れると何も見えなかった場所に、太い木の幹や岩が薄らと現れ、やがてはっきりと見え始める。
黒一色の景色は、灰色のような青色のような不思議な色合いを見せた後、本来の色に変わり、昼間と変わらない景色になる。
明るいか暗いかだけを比べれば日暮れと同じだが、この静かさと、少しずつ見える範囲が広がっていく変化と、僅かな時間の不思議な色合いがいつも美しいと思う。何も無ければ、この薄ぼんやりとした時間が大好きだ。
ルオラを起こして、朝食の準備の間に少しだけ眠らせてもらおう。二人とも反省していたし、もう喧嘩をしないだろう。
「起きて、起きて」
激しく体を揺らされて起こされる。その犯人はリージュだった。
「俺はどれくらい寝てたんだ?」
「分からないけれど、ちょっとだよ。動物が出たって」
「何、どこにだ? 探知出来ないぞ」
辺りを見回し、探知魔法も使うが分からない。リージュが慌てている様子は無い。
「わたし達から一番遠くの焚火のところだって。あの女の人は走って行っちゃった」
「そうか。俺達も行こう」
「うん。分かった」
ブロに焚火の始末を任せて、すぐに移動する。要らない荷物は置いて行く。相手によっては、前の仕事の時のように苦戦を強いられるだろう。危険な種類の動物でなければいいが…。
その場所に着くと、異様な雰囲気だった。
その猪は、馬車程の大きさがあった。
巨大な背中には投げつけられた槍が数本刺さり、捕獲用の網がかぶさっている。足には縄が絡まり、自由に走れる状態ではない。大きな鳴き声を上げて体をよじり、何とか逃げようとしているが、熟練した冒険者達に囲まれ逃げ場は無い。
集まった大勢の冒険者のうち、猪を捕えようとしているのは半数の十人くらいで、そいつらは自己顕示欲の強い力自慢達だ。注目を浴びようと大声を出している。
残りの半数は、何もせずに見物している。こちらは報酬にしか興味の無い怠け者達か。猪の逃げ道を塞ぐように立っているので、全く役に立っていないわけではないようだ。
見物の冒険者達は静かに見ていたが、猪に槍が刺さるたびに歓声を上げ、異様な熱気を帯び始めている。とどめを誰が刺すかを賭けでもしているのか。
少し離れたところで縄を引き、猪を転ばせようと数人が踏ん張っているが、簡単には転ばない。逆に足を滑らせて転んだ冒険者に対し、笑い声が上がる。
例えるなら、大道芸人を囲んで酒を飲み、笑って宴会をしている様子で、冒険者の仕事中とは思えない。何から何まで異常だ。
体を大きくさせられたうえ、動物使いに操られて襲ってきた先日の動物達に比べれば、猪に不自然な様子は無い。長く生き、十分な食べ物を摂って大きく育った野生の猪だ。
本来は臆病な動物で、早朝に襲ってくる事は考えにくかったが、この猪が農地を荒らした犯人であってもおかしくはない。
これでこの仕事は完了なのかもしれない。
宝石がまた悪用されているかもしれないと思って、張っていた気持ちが緩む。
周囲を見回し、この様子を呆然と見つめるルオラを見つけて近くに歩いて行く。横に並んでから声を掛ける。
「大丈夫か?」
返事が無い。しかし、彼女の横に並んで同じ方向を眺めると、それは当然だと思う。ここに居る冒険者達を見れば誰でも呆れるだろう。
笑い声と怒鳴り声と嘲り。
彼らは、自身の中に溜まった歪みをこの猪にぶつけて発散している。彼女は、俺が想像していた通りに生真面目な性分なのかもしれない。この騒ぎぶりに納得がいかないのだろう。
ルオラの横で聞こえるように呟く。
「大丈夫じゃないな」
この問い掛けに、すぐに返事は無い。目の前の様子を眺めたまま動かない。
「私、こういうの好きになれません」
暫くしてから、ルオラは小声でそう呟いた。横顔を眺めていると、疲れた目をしているように見える。昨晩はあまり眠れなかったのかもしれない。さっきよりも小声で彼女の言葉が続く。
「なんだか気分が悪いです」
少し離れた所で煙草か葉巻を吸い始めている奴らが居る。その臭いのせいで余計に気分が悪くなったのかもしれない。
俺達以外の班は、規律なんて気にしなさそうな連中ばかりが揃っていた。荷物に隠してあった酒の瓶でも出てくれば、奪い合いが始まりそうだ。
もっと心配なのは、猪に攻撃する事に飽き足らず、暴れた挙句に仲間同士で喧嘩でも始まる事。そうなれば、昨日の夜のあの二人の口喧嘩なんて可愛いと思うほどに悲惨な状況になるだろう。
上手く理由をつけて、この場から退散したい。
周囲を見回し、出発の時にルオラが話していた他の班の班長を見つけた。無茶苦茶をしている冒険者達を止める気配は無いが、その人物は腕を組み、背筋を伸ばして真顔で立っている。近くまで行って声を掛ける。
「第三班の者だ。俺達の仕事は、こいつの退治まででよかったか?」
「お前は三班の治療兵士か…。そうだ」
「俺達は、このおかしな祭りに参加する気は無い。もう仕事は終わったようなものだと思うが、引き上げてもいいか?」
「うむ。動物を退治した後は、農家の連中が引き取りに来る事になっている。とどめを刺した奴は報酬が増えるが、それが要らないなら帰っても構わんよ。もう直に終わるだろうからな」
「分かった。失礼する」
話が分かる男で助かった。
もしかしたら、あの状況に嫌気が差し、あの男も帰りたかったのだろうか?
ルオラよりも上位の責任者で、任務完了まで帰れなかったのかもしれない。それならば同情するが、責任者に見合った報酬がもらえるのだろうから、我慢して欲しい。
俺達は乱暴な連中を置いて、来た道の方へ戻る。リージュが先頭を歩き、俺がルオラの手を引いて後ろに続く。
ルオラはまだ気分が優れない様子だ。
手を引かれる彼女は、俺の手を強く握って下を向いている。構わないのだが、彼女は手を離してくれそうにない。同じ冒険者でも、俺はあんな馬鹿騒ぎをしないから信じてくれていいのだが、今は少し歩きにくい。
少し顔が赤いように思ったので解熱剤が必要か聞いたが、小さい声で要らないですと繰り返す。この解熱剤は、リージュに使おうと持ってきたものだ。ここで使わないで済めば有り難いが、ルオラに対して出し惜しみするつもりは無い。
来た時に走った道は、先に歩いた冒険者が通った跡で、たくさんの足跡が重なってついている。邪魔な枝が折れて通りやすくなっているが、道とは呼べないものだ。
来る時も転びそうになったので、戻る時も慎重に進む。道の足跡を観察しながら歩くと、何か違和感を覚える。所々に人の足跡ではない足跡が混ざっている。
もしかしたら、あの猪もこの小道の一部を通ったのかもしれない。気になったが、今は考えないでおこう。
一番後ろを歩くルオラは、俯きながらでも転んだり滑ったりしなかった。動物用の罠だって心配だったが、俺が手を引く必要はきっと無かった。
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