第4章: シュレディンガーの恋

 講義室に足を踏み入れた瞬間、美紗は息を呑んだ。

 壇上に立つ若き数学者、高橋隆二。

 彼は間違いなく、美紗が知る隆二その人だった。

 しかし、彼女が知っている隆二より、少し大人びていた。

 講義が始まる。

 隆二の口から紡ぎ出される言葉の一つ一つが、美紗の胸を刺す。

 

「量子もつれの本質は、不確定性にあります」


 隆二の声が響く。


「粒子AとBが量子もつれの状態にあるとき、Aの状態を観測すれば、瞬時にBの状態が決定される。これは、アインシュタインが『遠隔作用』と呼んで懐疑的だった現象です」

 

 美紗は、自分と隆二の関係が、まさにこの量子もつれのようだと感じた。別の世界線にいながら、彼女の心は確かに隆二と繋がっている。

 講義の後、美紗は勇気を振り絞って隆二に近づいた。

 

「高橋先生、素晴らしい講義でした」

 

 隆二は美紗を見て、僅かに目を細める。


「ありがとう。君は……?」

「日向美紗です。実は、先生の理論について、いくつか質問があるのですが」

 

 隆二は興味深そうに頷いた。


「構わないよ。僕の研究室まで来てくれないか?」

 

 研究室で、美紗は自分の知識の全てを絞り出すように、隆二と議論を交わした。時空を超えた量子もつれの可能性、因果律との整合性、多世界解釈……。

 話し込むうちに、隆二の目に次第に驚きの色が浮かぶ。

 

「君は……並外れた才能の持ち主だね。これほどの知識と洞察力を持つ学生は見たことがない」

 

 美紗は微笑む。


「先生こそ、私の憧れです」

 

 その瞬間、二人の視線が絡み合う。

 美紗は、かすかな既視感デジャヴのようなものを隆二の目に感じ取った。

 

「不思議だ。君と話していると、まるで昔から知っているような気がする……あ、いや、失敬。これはナンパなどの類いではないよ」


 隆二はそう言って静かに微笑んだ。

 美紗の胸が高鳴る。

 これは偶然ではない。

 量子もつれは、時空を超えて二人の魂を結びつけているのだ。

 しかし同時に、美紗は苦しさも感じていた。この世界の隆二に、自分の正体を明かすべきだろうか。それとも、静かに去るべきだろうか。

 まるで、箱の中の猫のように、美紗の選択は不確定のままだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る