第84話 逃げてきた者たち。

 灰爬族の里を出て数時間。

 とっくに霧は晴れて、俺達の目の前には今、絶壁が空の半分を隠していた。

 峻岳地帯とは聞いていた。

 険しい岩の突き出た、登るのも下りるのも大変な場所なんだろうなというイメージでここまで来た。

 だが目の前に現れたのは壁だった。

 まさかここに来てフリークライミングをさせられるとは微塵も思っていなかった俺は絶望していた。


「壁のように見えるが、ちゃんと山だぞ」

「ように見えるがっていうか、壁にしか見えないよ」

「まぁそうだよな。でもちゃんと山なんだぜ」


 ケイがそう言うならそうなのだろう。

 でもあまりにも壁過ぎて山感が全然なくて目がバグる。

 遠近の差と頭が理解しても視覚が、脳が捉えきれない時の状態に似ていた。

 しかしレギオン山脈から外れても単独でこの高さというのは流石に驚いた。

 標高だけならグラヴィオ山といい勝負をしてそうだ。

 確か神話だと神の軍レギオン総大将テラ・グラヴィオンとほぼ同格の強さを持っていて単独行動が許された存在だったのがドルミナという人物だっけか。

 山脈から外れて尚、この高さ。

 上手い具合に名付けたものだと感心するね。


 一度休憩を挟んで森を進む。

 この辺りまで来ると突き出た岩が目立ってきた。

 森と言ってもその木の数も減りつつある。

 段々と気付かない内に標高の高い場所までやってきた気がする。

 空の色も白っぽい青から濃い青に変わりつつあるのを感じる。


 しかしどうしてこう、空に近付きつつあるのに、近付けば近付く程に更に遠く感じるようになるのだろう。

 とても不思議だ。

 今にも吸い込まれそうなくらいなのに、でもずっとずっと、空は遠い。


 そんな風に空を見上げていたらガクン、と揺れてモチが立ち止まった。

 視線を下ろすと皆立ち止まっている。

 すぐに俺も下りて取り出したクラフトブックからククリナイフを取り出した。

 こんな何もないところで立ち止まるなんて、どう考えてもモンスターしかいなかった。

 それに気配を探ると正面からまっすぐこちらへ向かってくる集団が察知できた。

 ……集団にしては、数が多いな。


「コボルトの集団のようだな」

「にしては、数が多いね」


 ケットが腰に差した杖を手に取り、クルリと回して全体バフを掛けると赤い粒子が俺達を包んでいく。

 攻撃力と防御力を上げてくれる戦闘用バフ魔法『勇気と誓いの歌バトルクライ』だ。

 ここに来るまで戦闘はなかった。

 いつも通りモチのオーラがそうしていたのだと思っていたのだが、まさか数が多ければ正面からも攻めてくるとは思わなかった。

 ケイが拳を握り、ウーゴが大剣を振り上げ、イリスが矢を番え、モチがケットの傍に寄り添い、俺はナイフを構えた。

 地響きのような足音と共にコボルトの姿が見えてくる。

 俺の中のコボルトというのはゴブリンに犬の頭を付けたようなモンスター、という印象だ。

 しかし正面からやってくるのは少し違う。

 犬の頭というのはまぁ、正しい。

 違うのは頭身だ。

 明らかにでかい。

 成人男性より少し小さいくらいの背丈のコボルトがこちらへ向かって一直線に走ってくるのだ。


「う、わわ……っ」

「大丈夫だ、クライン! まずは目の前の奴だけを狙って倒せ!」

「わ、分かった!」


 あからさまに狼狽えてしまう自分が情けなかった。

 あんな、如何にも強いですって見た目のモンスターが全速力で駆けてきたらそりゃビビるもの。

 しかしそんなことも言ってられない。

 歯を食いしばり、鼻から空気を吸って口から熱気を吐き出す。

 覚悟と気合いを入れて、接敵したその瞬間、コボルトの首を狙ってナイフを突き入れた。


「ギャウ!」


 そのまま左に切り裂いて次のコボルトを狙おうとして、失敗した。

 駆け抜けていくコボルトがぶつかって狙いが逸れた。

 めげずに次のコボルト……と思って向き直って、異変に気付いた。


「ケイ! 何かおかしい!」

「あぁ、こいつら、逃げてるんだ!」


 そう、コボルト共は俺達など目もくれずに駆け抜けているのだ。

 しばらく俺達の間を抜けていくコボルト。

 結局一撃も入れずにどこかへ行ってしまった。

 幸いにも向かって行った方向は灰爬族の里がある方向ではなかったことか。

 少し進路を変えながら進んでいたから、正面から背後に走って行っても灰爬族の里には掠らないはずだ。


「何だったんだ……」


 足元に転がる絶命したコボルトを見る。

 俺が殺したコボルトだ。

 他にも数匹、皆が倒したコボルトが転がっていた。

 仰向けに転がっているコボルトに、何か異変がないかと思って調べる。

 足を体の下に入れて、勢いよく引っ繰り返す。

 それで呆気なく、原因は分かった。


「ケイ」

「うん?」

「これを見てくれ」


 コボルトの背中には4本の引っ掻き傷があった。

 塞がっているようには見えるが、その傷はとても深い。

 しゃがんだケットがその傷を指先でそっとなぞった。


「とっても、痛そう……」

「痛かっただろうな。多分これ、猫竜の仕業だ」


 ケイの言葉に俺も頷いた。

 このコボルト共は黒猫竜とやり合ったのだろう。

 そして敗北し、逃げてきたのだ。

 傷を負ったコボルトが先頭を走るのかと思い、首を傾げたが何てことはない。

 全員が全員、何らかの傷を負っていたのだ。

 ケイ達が仕留めたコボルトも噛み傷やら引っ掻き傷を負っていたし。

 黒猫竜にこっぴどくしばかれた上であの全力疾走だ。

 元々こいつらは相当強い部類のモンスターだったのだろう。

 そんなモンスターすらも追い返してしまう黒猫竜の力に背筋がぞくりとした。

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