第82話 灰爬族首長オデッサ。

「おぅおぅ、よぅ来たな」

「ご無沙汰してるぜ、姐さん」


 オデッサに応えるケイは、実にフランクな口調だった。

 ケイに視線を向けたオデッサはシニカルな笑みを浮かべてハン、と笑う。


「元気そうじゃないか。当てつけかぃ?」

「姐さんの方が元気そうだぜ」

「ほーぅ、やんのかぃ?」

「勘弁してくれよ。まだ勝てる気がしねぇよ」


 どう見てもケイの方が元気だし、ケイの方が勝てそうだった。

 クックッと喉を鳴らして笑ったオデッサはシュレイドの助けを借りて立ち上がり、テーブルの中央、ケイの正面へと腰を下ろした。


「食べれるか? 母さん」

「いや、水だけでいい。……それで、遠路はるばるこの水浸しの里へ来たのはアレかぃ、猫竜かぃ」

「あぁ。黒い猫竜について聞かせてほしい」


 真剣な面持ちになったケイが居住まいを正す。

 しかしオデッサは骨と皮しかないような細い手を上げてそれを制した。


「まずは食いな。温かい料理が冷めちまう」

「それもそうだな……よし、いただきます!」

「いただきます」

「いただきます!」


 正直、お預けを食らって胃が俺を責め始めたところだったから助かった。

 葉っぱを開くと、中からさっき見たのと同じ大きな魚が現れた。

 面白いことに出された道具はお箸。

 手に馴染む二本の棒を使って魚を割っていく。

 分厚い皮の奥にあったのは仄かなピンク色をした身だ。

 鱒とかそっち系の魚かな?

 身を少し掴んで持ち上げると、ふわりとほぐれる。


「わぁ……」


 蒸し焼きにされているのだろう。

 期待に胸が膨らむ。

 箸を口元まで持っていき、身をいただく。


「んんっ……! 美味しい……!」


 最初に感じたのは柑橘系の爽やかさだ。

 次に複雑な香辛料の風味。

 奥の深い味わいだが、そのどれもに魚の身の旨味が負けじと競っている。

 重量感のある味の応酬。

 それらを、蒸し焼きという調理法が軽くしてくれていた。

 添えられたカップに注がれた果実酒もまた、爽やかな味わいで魚料理に合っていた。

 無限だ。

 無限だった。

 俺は無限に食べていた。

 だから気付かなかった。

 皆がお箸に苦戦しているということを。


「姐さん、これ食べにくい!」

「刺してもクルクル回る……ハッ、だから2本!?」

「2本だから、掬えるよ。兄さん」

「これも鍛錬か……!」


 頭を抱えたくなるような光景だった。

 そうだよな、お箸って文化がないとこうなっちゃうよな……。

 逆に上手に食べられている俺が異端なのだ。

 オデッサはどういう反応なのだろうかと恐る恐る見るが、どこか呆れつつも微笑ましい光景を眺めるような目で水を飲んでいた。

 その目がふと、俺に向く。

 咄嗟に逸らすこともできず、俺は苦笑するしかなかった。


「あんたは……上手に食べるんだね」

「まぁ……手に馴染むといいますか……美味しくいただいてます」

「ははっ、そりゃあ良かったよ。ま、そこの連中は置いておいて、あんたと話そうかぃ」


 ジッと見つめる瞳の奥の感情が読めず、思わず居住まいを正してしまう。

 瞬間、キィィーンという耳鳴りにも似た音、いや、幻聴か……分からないがとにかく、俺自身の精神を揺るがすかのような感覚に体が硬直した。

 固まった体は、目は、オデッサの目をジッと見つめ続ける。

 その黄色い目は複雑な感情の色というか、圧倒的な数の層が深淵まで伸びているような印象を受けたのだ。

 きっとケイも同じような感情を抱いたはずだ。

 だからあの言葉も今は理解できる。


 この人には一生勝てない、と。


 オデッサの隣に座るシュレイドが魚の身を口に運ぶ姿が視界の端に映る。

 だからだろうか、分からないが、無意識に俺も魚を食った。

 温かい料理を温かいうちに食べるという、料理に対する基本的な礼儀のようなものが、そうさせたのかもしれない。

 だがオデッサはその様子を見て、直前までの射殺すような雰囲気などまるでなかったかのように呵々大笑してみせた。


「アッハッハッハッハ! 凄いねあんた! 私の『爬王眼』の前で飯を食うのかぃ!」

「へ……? あ、いや、気付いたら食べてました」


 オデッサの言う『爬王眼』というのがどういうものかは分からない。

 眼、と言われてみれば確かに他の灰爬族の灰色の目とは違い、オデッサの目は違う色をしていた。

 しかしそれは個人差のような、彼女が持つ個性のようなものとして気にも留めていなかった。

 ただ、その個性というのは万人に漏れなくあるものではなく、彼女特有の個性ユニークだった。


「この私の目、『爬王眼』というのはね……自分より格下の相手を縛る目なのさ。言い方は失礼だがね」

「俺はオデッサ様より自分が上とは思っていませんから、失礼ではないと思います」

「あぁ、私もそう思っていたさ。だが、あんたはその拘束の最中、飯を食った。これがどれ程凄いことか……ケイの坊やなら分かるんじゃないかぃ?」


 言われ、ケイの方を見ると凄い勢いで何度も頷いていた。


「本当に凄いんだぞ、クライン。姐さんにとっては殆どの獣人が格下なのさ。だがそれを、お前は抗ったんだ。俺も抵抗したけどギリギリ指一本しか動けなかったぜ」

「いや、まぁ、言ってることは分かるが……」


 やったことと言えば無意識に魚を食べただけだ。

 振り払おうとも、抗おうとも思っちゃいなかった。

 俺に言わせればその食事という行為も、まるで『させられた』ような感覚だった。

 しかしそうか、ケイが『まだ勝てる気がしない』と言ったのはこれか。


「クラインは魚を食べただけだ。だが、爬王眼は精神を縛る魔眼。無意識であればある程、その最中に行動したという事実は大きいんだ」


 シュレイドの言葉に自分がどれ程のことをしたのかが……まだ分からない。

 分からないが、その事実だけが重く肩に伸し掛かってきた。

 実感も何もないが、とんでもないこと……いや、禄でもないことをしてしまったことだけは、ようやく理解が追い付いた。


「ハッ、もうあんたに爬王眼は通じないね。これ程気持ちの良いことは久しぶりだよ。シュー、少し魚をくれ」


 シュレイドが自分の魚を少し取り分け、オデッサの前に置いた。

 綺麗な箸さばきでそれを口に運んだオデッサはしばらく噛みほぐし、味わい、飲み込んだ。


「旨いね……久しぶりの食事だが、気分も悪くならない。あんたのお蔭だよ、クライン」

「ど、どういたしまして……?」


 困惑する俺を見てまた笑うオデッサ。

 結局よく分からないままだったが、一つだけ分かったことがある。

 俺は大層、オデッサに気に入られてしまったということ。

 それだけはしっかりと理解していたのだった。

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