時縛霊
@2007855
時縛霊
| ある盆の日、私はある男と共に母の墓参りに行くことになった。
私の母は小学校の教師を長年務めていたということもあり、亡くなった時は大勢の教え子たちが涙を流して葬式に参加した。あの時参加した人たちは皆口を揃えてこう言った。
「正しい人でした」
「僕たちを導いてくれた」
それはどうみても同調圧力とかではなかった。せーので同時に聞いたとしても同じ事を言っただろう。
だがそんな、半ば崇拝とも取れるような態度だった参加者達に対してこの男は違った。1人で墓参りへと向かう道中、その男とは本当にばったり出会ったのだ、少なくとも私にとっては。
私の姿を見るや否や、近くに駆け寄り、警察のように身分を確認して、墓参りに同行しても良いかと聞いてくる。
聞けばこの男も母の教え子らしい。だが母の事を語っている時の目は、他の人たちのような気が狂いそうなほど光り輝く目ではなく、満員電車ですぐに押し潰れそうな、劣等感の沈澱した目だった。
「急に押しかけるような真似をしてすいません」
男は軽く礼をして、そのまま墓地へと一緒に歩き始めた。私はこの男に色々と聞きたいことがあったから、暇つぶしついでに色々聞いてみようと思った。
「どうして、この時期に来たのですか。確かにお盆ではありますが、1ヶ月前くらいに葬式をしたばかりです。その時に来てくだされば良かったのでは.... 」
男は目を泳がし、少し口を開いて軽く呼吸を整えた後に私の目を見て再び口を開いた。
「僕は小説を書いておりまして、取材のために少し遠出をしていたんです。その時に携帯の電源を切っていたので連絡が遅れ、お盆の時期に向かおうと思い、今に至ります」
男は癖なのか、また軽く礼をした。そして何か思うような顔を見せた後、その口を開いた。
「それでも、今思うと、やっぱり葬式には行かない方が良かったのではと思います。だって、もし葬式に行くとなると、必ず旧友に会うことになります。当然その時の話題は、いずれ先生のことになるでしょう。そうなるとどうしても深くまで掘り出されるんです、あの少年時代を」
男の目は夏の昼の木洩れ陽をもってしても明るくなることはなく、その目の奥には男の言う、少年時代が映し出されているようだった。
「もしよろしければ、その時のことをお伺いしても? 」
私はその少年時代を、少しだけ覗いてみたくなった。
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今はもうないかもしれませんが、当時はここから少し北に行ったところに学校があったんです。
ここって、田舎でしょう? だから組が分かれるほどの人数なんていないし、その分1つ1つの人間関係は強固なものでした。僕もその生徒の1人でした。
先生と初めて喋ったのは小学6年生の入学式の日。その前まで顔や名前自体は知っていましたが、喋ったことはなかったんです。
「これから1年間よろしくね」
その口から出た言葉は今まで担任になった先生たちとなんら変わりないセリフでした。けどそれよりも印象的だったのが、そのセリフと同時に見せる、粉チーズを振りかけたような厚化粧をした、ミートボールみたいな顔が浮かべる笑みでした。
それから、3週間くらいは仲良くしていたんです。けど日が経つにつれ、先生の態度は徐々に変わり始めました。1人が何か忘れ物をしたり、ミスをすると、異常なまでに怒るんです。たった1つの失敗さえ許さないんです。
それは1月の寒空が曇っていた日、給食の時間に先生に怒られたんです。その時の私は不器用で、よく汁物の配分が上手く出来なかったんです。
その日、人1人分の味噌汁が足りないと言う話になり、周囲の目線は僕に移りました。自分も、これは自分の責任だと分かっていたので、他の入れすぎた人の味噌汁を分けてもらったりしてたんです。
「ごめんけど、分けてもらってもいい? 」
この時友人にかけたこの言葉がーー本当に今でも分からないのですがーー先生の沸点に達したんです。
「そんな言い方じゃダメに決まってるでしょ! もっと丁寧に言いなさい!! 」
先生は急に仕事机を叩いて怒鳴り声をあげました。友達は今すぐにでもこの状況をどうにかしたくて、お椀を持って僕の方に渡してきました。
「余計なことしないで! この子が成長しないでしょ!? 」
一体何をどうしたら僕は成長するのかなんて具体的なことは一切言わずに、先生は僕の懇切丁寧な言葉を待っていました。
「味噌汁を分けてくれませんか? 」
これじゃダメだったようで、先生は何も言わずにもう一度机を強く叩きました。
「すいませんが味噌汁を分けていただけませんでしょうか? 」
思いつく限りの敬語でようやく先生の怒声は収まり、ようやく落ち着いて給食を食べることができました。僕1人を除いて。
「いただきます」
この声が教室の外まで響いてくる時には先生の顔は失望と呆れの色に塗れていました。
ここから先生の説教、言い換えるなら矯正が始まります。この時の口癖が
「普通だったらさ.... 」
「みんなはこんなに.... 」
「どうして君は.... 」
この言葉のナイフに正論という麻痺毒を塗って、腹を裂いて、中にある私の内臓をちぎり取り、先生の考え、先生の要求、先生の理想をありったけ詰め込んで、
「それでも私は信じてるから」
という言葉の縫糸で裂いた腹を縫えば、先生好みのぬいぐるみの完成です。完成した頃には麻痺毒に脳がやられて、普通というものの定義がどこかなんて考えず、僕はみんなと比べて普通じゃない、僕はダメな子なんだと考えてしまいます。
そして最後には、考えたいのに考えられなくて、動きたいのに動けない、どうすればいいのか分からない。
ーとりあえず先生の言うことを聴こうー
クラスのみんなはもう慣れきっていて、関心の目を向けずに、ただ自分と先生の顔を見ないように、黙々と食べ続けていました。それを教卓から眺める先生の、あの達成感と支配欲に自分の生きる実感を見出しているような顔を、僕はきっと忘れることはないでしょう。
こうして、私の学校生活は腐っていきました。似たようなことを他のみんなにやっていたのかはわかりませんが、最後にはみんな何も口答えせず、先生の言うことを真顔で聴いていました。
こうして先生のための宗教が出来上がったんです。
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「それが、私の母の『先生』としての姿だったと? 」
「....はい」
はいと答えるまでの間に様々な思考が巡ったのであろうが、その仏頂面からそれを読み取ることはできなかった。目の前には見知らぬ人たちの墓と、ヤカンで囲まれた水汲み場があった。
「....意外ですか? 」
男は適当にヤカンを取り出した私に、申し訳なさそうに問いかけた。
「実のところ、そんなに意外じゃないんです。なんというか、同じようなことを言われたなっていうか」
「同じことを言われたんですか? 」
余程驚いたのか、男は目を見開いて先ほどの私の言葉をそのまま復唱した。蛇口を捻ると水が勢いよく噴き出されヤカンが心地よい音を響かせた。
「流石にあなたほどでは無いのですが、よく、普通は〜とか、私だったら〜とか、友達の立場になって考えて〜とか、あなたには失礼なことだと思いますが、その苦しみがなんだか懐かしい気分だなと」
男は何も言わず、私を見つめていた。金属の反響音はいつのまにか水音になっていた。
「それは多分....あなたの母親だからだと思います」
男は目線をヤカンに移した。ヤカンはすぐにでも水が溢れそうになっていた。
「母親というのは子供にとってのあらゆるものに1番影響を与える人です。どう生きるか、どう考えるか、どう動くか....それらを全て、最初に親から学びます」
男はしゃがみ込み、ヤカンに顔を近づけ、独り言のように呟いた。水はすでに溢れている。
「しかし中には、他人の心を捻じ曲げてでも自分の存在を誇示しようとする人がいる。それは険しい山にトンネルを掘ってくれるような良い人かもしれないし、か細い吊り橋を切り落とすようなダメな人かもしれない。私の場合、それは先生であり、私をペットのように躾けて、リードをつけようとした人なんです」
水は排水溝へと流れ、私の汗も首筋へと流れる。男がこの話をした時、何か憎悪を感じたけれど、それ以上に怯えたような目つきをしていたのが目に焼きついた。
「実は先生が死ぬ前、たまたまショッピングモールで再開したことがあるんです。あなたの事もそこで知りました」
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「あれ、もしかして? 」
こんなに馴れ馴れしい粘着質な声は聞き間違いようがありませんでした。フードコートで水を入れてる時に呼びかけられ、反射的に顔を向けたのを今でも後悔しています。
「ああ! やっぱりあなただったのね! 」
近くの服屋で服を買ったのか、両腕に紙袋をぶら下げ、あの時の粉チーズとミートボールは変わらずに、腐ったゼリービーンズのようにきつい匂いを発する香水を身に纏っていました。
「こんなところで出会うなんて偶然ね! 最近何してるの? お仕事は? 」
もし出会った場所がなんでもない廊下とか、エスカレーターにすれ違いざまに目を合わせるくらいならまだ良かったんです、けどフードコートなのがダメだった。僕の手には呼び出し用の機械が掴まれており、それは僕に、食べ切るまでこの人と過ごさなくてはならないということを示していました。
「久しぶりに知り合いに会えて嬉しいわ! あなたはどこの席に座るの? 」
先生はそう言うと、僕の目線を追って僕の席に辿り着き、ずかずかと座っていつもよりシワの深いミートボールのような笑みをこちらに見せつけてきました。
それは側から見れば「席取っておくから」と言って1人佇む母のような笑みだったのでしょう。僕から見れば、粘着質な母性を持った赤の他人がそのような笑みを浮かべるのが気持ち悪くて仕方ありませんでした。
幸いなことに僕が頼んだのは並の親子丼のみで、すぐに食べ終わることのできる代物でした。お盆を受け取って席に戻ると、先生の顔はさっきとは打って変わって、能面のような顔で携帯を見つめ、こちらを見た途端にまたおたふくの顔に戻りました。
「見て、この子私の娘なの! こんなに大きくなったのよ」
そう言って先生は、あなたの写真を見せてくれました。新社会人のスーツを着て、にっこりと笑っていた写真でした。
「随分と可愛らしいですね」
いち早くその場を離れたかったので、僕は当たり障りのない返事をして一気に親子丼をかきこみました。決して先生と目を合わさぬように、丼を持ち上げ、顔を覆い尽くすように。
「それにしても、あのときは大変だったわね! 覚えてる? あの子の蹴っ飛ばしたサッカーボールが...」
先生は僕が飲み込んだのを見計らってか、僕にいろんな昔話を語り始めました。やんちゃな男子がサッカーボールを敷地外に飛ばしてしまったこと、遠足でしりとりしながらピクニックに行ったこと、そしてあの給食のこと。親子丼を早く食べて出て行きたかった僕に、先生がそれを喋り始めたんです。
「あの時2人きりでお話ししたことあったじゃない? その時のあなた、普段泣かないのに泣いちゃってて、ああ、私の話を本当によく聞いてくれてるんだなって思って感動したの! それから教室の中に入って、みんなが幸せそうに給食を食べてるのを見て、私も幸せになるの、辛くて苦しいこともあったけれど、教師やってて良かったって! 」
ウフフフと、先生は笑いました。先生のその笑みが、あの頃の僕を、1年間ずっと耐え忍んできた自分を、何度も何度も死にたいと思うような日々を過ごした自分を、あっさりと笑い飛ばしているように見えたのです。
嘲笑でも、喜劇のような大袈裟な笑いでもない、本当にただただ幸せと感じて笑っている顔に、僕はただ放心状態で眺めているしかありませんでした。
「どうかした? 」
キョトン顔をする先生を見ると、やがて沸々と怒りが湧いてきました。先生があの頃を幸せと感じたように、僕もさっきの笑みが悪魔のように見えたのでしょう。
ーーコイツは俺の傷を笑いやがったーー
自分でも驚くくらい静かに、ゆっくりとスプーンを置いて、両手を膝について、俯きながら喋りました。いくら怒ろうとも、それでも先生の顔をまっすぐ見るのは、怖くて仕方なかったのです。
「....まず、先生に感謝を伝えさせてください。自分は今作家をしているのですが、そうなろうというぼんやりとしたキッカケをくれたのは先生に出会ってからでした。あの時の1年間を、先生はすごく幸せなものと思っているようですが、僕は苦しくて苦しくてたまりませんでした。冗談の一つでも言えば人権侵害、1人でもミスを犯せば全員がそのミスについて考えさせられ、反省させられ、何もしてないのに先生に謝らなくてはならない。少しでもあなたに口答えしようものなら、泣き喚いて被害者ヅラして職員室に逃げ込んで、私たちが悪かったですとまたもや謝らなくてはならない。あらゆる行動が監視され、あなたの意に沿わないようであれば大声をあげて、クラス全員の晒し者にされてこんな奴をどう思うかと授業から一変クラス会議になってしまう。そんな現実に僕は耐えられなくて、必死に頭の中を掻き回して、自分だけの世界を創り始めたんです。あなたような人に出会えて、少なくとも今だけは幸せです。こうやって職に着いて親子丼を食べられているのも先生のおかげです。僕は先生に感謝しています」
「ですから、どうか」
その時、僕は顔を上げてしまいました。先生の顔をまっすぐ見てしまったのです。泣いていました。鼻を啜って目を擦り、おもちゃを年長者に取られた子供のように泣いていました。
「どうして....どうしてそんなことを言うん? う、うちは、ただぁ! みんなのためを思ってやってきたのにぃ!」
これまで散在していたフードコートのザワザワが、一気にこちらに標的を変えたのがよくわかりました。あの頃と同じ被害者ヅラを先生は何一つ変わることなく演じて見せました。いえ、演じた、というのは違いますね。あの人は、主張したのだと思います。自分が正しいということを。
僕はヒソヒソ言われるのが耐えられなくて、最後の言葉を言えずに席を立ってその場を後にしました。親子丼はまだ少し残っていましたが、少し時間をおけばあれもいなくなっているだろう。そう思って外の空気でも吸いに行こうとした時です。
その時、僕は振り返ってしまったんです。先生の顔を、見てしまったんです。
僕の残した親子丼を、ゆっくり、ゆっくり、クチャ、クチャと食べていくんです。さながら、子供の残したご飯を代わりに食べてあげるように。先程の泣きはらんでいたその目はこちらを見つめていて、それでもなお慈愛の色が見えました。
「それでも私は信じているから」
子供の頃先生に言われたあの言葉が脳裏に過りました。僕の身体は震え、急激な吐き気に襲われました。トイレに駆け込む途中、あの顔と咀嚼音が頭の中に残ったまま、僕は何か、馬鹿らしい、それでいて納得できるような仮説を思いついたのです。
あそこに座っていたのは先生でも、母でも、ましてや人間でもない。過去の亡霊だったんじゃないかって。そうして芋づる式のようにまた新しい考えが湧きました。
先生もまた過去に呪われたのではないか、と。呪いのチェーンメールのように、それは伝播して、そうして僕も過去に呪われてしまったのではないか、と。
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私と男の2人の目の前には一際大きい墓が建っていた。私は男の話を聞いて、少し疑問に思うところがあった。
「最後、母に何を言おうとしてたのですか? 」
花を植え、水をかける。墓の奥から吹いてくる風が、どことなく母の生気を感じた。それは私たちの体を冷やすことなく、大理石の熱をそのまま持ってきた。男は汗をかきながら、まっすぐと墓を見つめ、ゆっくり口を開いた。
「先生には、本当に感謝しきれません。ですからどうか、これ以上俺の人生に化けて出てこないでください。そして、できることなら悔い改めて、どうか地獄へ堕ちてください」
男は言い終わると申し訳なさそうに私の方へ顔を向けた。
「すいません、あなたの母に向かってこんなことを言ってしまって」
男の目は相変わらず澱んだままだったが、それでもどこか陽の光が入り込んでいるように見えた。
「....呪いは、解けたんですか? 」
その時、男は初めて微笑んでみせた。その目はもはや私を見つめておらず、淡い期待を弾かせる幻想を見ているようだった。
「呪いなんて、最初からなかったんです。チェーンメールのように、それはただの迷信、思い込みなんです。それを一度見ただけで恐れてしまい、もう見たくないと振り返らないで必死に前に進む。必要なのは、もう一度見ることなんです。そうしてようやく、何も追いかけてきてないことも、道から外れていることも分かる」
男はゆっくりと来た道を戻り、角を曲がる前にこちらに振り向いた。
「長々と話に付き合ってくださり、ありがとうございました」
男の姿が見えなくなったと同時に、また熱風が髪を靡かせた。あまりの暑さに苛立ち、ヤカンの蓋を外して残りの水をバケツのように墓に浴びせた。
血筋かもな、男の昔話を思い出しながら、ウフフフと笑ってみた。
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