第47話
「でね、あちらのご近所の話だと苛めを注意した男の人を、宏子が好きだったんじゃないかって噂まであるんですって」
「…何それ」
「その人が越して来てから、随分良くしてやってたみたい。女性が越して来れば苛めて、老夫婦とかが越して来れば別に親切にもしないで、その人が越して来たらやたら話しかけたり菓子焼いて届けたりって、あからさまに態度に出ていて近所中が見て知ってたらしいわ」
「ひろは今、様子どうなの?」
「様子見に行ったら買い物はネットなんとか?スマホで買えるスーパーって言うの?ああいうの使って宅配で頼んで、あんなに熱心だった町内会の仕事もしなくなって引きこもってるわ。いじめばっかりしてた噂が本当なら因果応報だけど、その男性の事も本当に好きだったんじゃないかしら。当人にいじめを咎められた事もショックだったんでしょ。昭一さんもさすがにそろそろあっちのお義父さんを施設に入れるみたいだから、入所が済んだら宏子はしばらくうちに引き取る事になってるわ」
「その後は?」
「昭一さんは離婚を望んだけど、宏子が泣き叫んで話にならないから諦めたみたい。ただこっちの家に昭一さんが同居するのは嫌だろうし私もちょっとね。だから宏子引き取ってる間にどこか別の場所にマンションでも見つけて貰って、引っ越して貰う事になる」
「オオゴトね」
「昭一さんから聞いたわ、まゆちゃんにも言い掛かり付けてたみたいじゃない。本当にごめんね」
「ひろがああなったのは昭一さんのせいだと思ってる。それでもひろが好きだって言って離さない以上、私らが無理に離婚させるわけにもいかないけど」
「宏子がした事なのに、あの子を悪く言わないのね。まゆちゃんは昔から優しかったけど、あの子は…」
麻由子は携帯越しに光枝の言葉を聞きながら目を伏せた。
「好きな旦那に尽くしたのに見向きもされなきゃ歪むわ。だからってその鬱憤を他にぶつけて来たのはひろが間違ってるけど、寂しかったんだと思う」
「ありがとうね、そう言ってくれてあの子も救われるわ。今は誰にも会いたくないって言ってるけど、ほとぼりが冷めてまゆちゃんが良ければ、また顔見てやって」
「ひろが望めば」
「甘やかしすぎた私の責任もあるわ、まゆちゃんは早くに親亡くしてもしっかりやって来たのに…じゃあ、また落ち着いたら連絡するわ」
「はい、それじゃ」
麻由子は何とも言えない気持ちで光枝から来た電話を切った。祭りの場で苛めを咎められ、しかも咎めた相手が宏子が好いた相手とは。今はそれらが近所中に広まり、宏子一家はプライドが高いので噂の的になるのに耐えかね引っ越しを検討しているようだ。麻由子はLINEはブロックしたが電話番号は着信拒否などはしておらずそのままなので、気落ちしているであろう宏子本人と話そうかとも思った。が、あの宏子の事だ、事情を全て知った麻由子が掛けたら余計に興奮し錯乱しないとも限らない。
光枝の手前ああは言ったが、好きな男が出来ても自分が散々してきた意地悪のせいで男には幻滅され、それどころか近所中に所業がバレて居場所を無くすとは宏子らしいと言えばらしい。何より人をあれだけ罵っておいて、自分は片思いとはいえあっさり好きな男を作った事にも麻由子は驚かされた。
まさに因果応報だが、ただ後味も酷く悪い。
どうせなら両思いとなり、人知れず恋愛に発展し寂しい宏子が報われて欲しかったとも思ってしまう。昭一には他の男にモーションを掛けていた事がばれ、モーションを掛けていた本人からは苛めを目撃され嫌われるなど最悪の展開過ぎる。
同時に麻由子は宏子を通して改めて、一人の女と一人の男が相思相愛となる事は途轍もなく困難な事なのだとも感じた。男の場合は体目当てが思いの中の半分も占めるが、それでも残り半分は好きだという気持ちで接してくれていたはず。なのに好きだと言われた相手を、自分は大輔もイッチーも良介も好きにはなれなかった。
和弘とは…
麻由子は和弘を愛している、体のどのパーツも言動も、声も、生き方も全てが愛しい。
和弘は自分をどう思っているかは分からない。が、離れようとする麻由子をいつも引き止めるのは、体ばかりが目的ではなく多少の好意もあるからなはず。少なくとも双方のメッセージの中で
「好きだよ」とあちらが打てば
こちらも「私も」と打ち返す
このやりとりが成り立つから、どちらも相手を悪からず思っている関係でいられているはずで、それは改めて奇跡に近い事なのだ。ただどんなに奇跡であれ、世間的には許されない。互いに伴侶の居る者同士の間に、逆に成り立ってはならぬ関係。
だとしても、麻由子は誰からも許されようとも思って居なかった。裁かれる時が来るなら喚かず素直に斬首されよう、その痛手を覚悟の上でも、麻由子にとって和弘は
愛する価値のある男だった。
宏子とて女、夫昭一がその喜びを彼女に与えないというのなら、他に求めるのを麻由子は咎めない。そして宏子にも願わくば一度で良いから味わって欲しかった。この喜びと高揚を。相手にされぬ鬱憤を意地悪などに代えずに居たら、叶っていたかも知れないというのに。
麻由子は和弘を初めて会った時から、良い男だと感じていた。一般的にはそこまでではないのかも知れないが、少なくとも麻由子の好みだった。けれどあの頃は、介護と育児に明け暮れる中で四十になりすっかり老けた自分が誰かに選ばれるなど想像もしていなかった。まして自分の好みの男からなど。そして今ではもう、麻由子は和弘の存在無しには生きられない。そこまで依存してはならないと分かってはいるが、どうにもならなかった。愛している分会えない期間を待つのも辛いし、いつか来る別れを思うと身を引き裂かれるような思いになる。
いつもカレンダーを見る度、前回会った日から日数が全く経過していない事に驚く。会いたいという気持ちが募りカレンダーに目をやると、前回会ってから一週間しか経っていないなどもザラ。恵美の新しい恋人は車で15分程の近さの場所に住んでいるので、デートは週に二回は必ず出来るという。夜のデートも退社後すぐに会えるので一緒に居られる時間も長い。痛烈に羨ましいが、そんな時は
『月に一、二回しか会えないこちらの方が飽きられるのも遅くなって、新鮮な気持ちが続きやすい』
と思う事で麻由子は自分を慰めた。事実、麻由子の方は付き合って一年経過したが未だに出会った頃と変わらない気持ちが続いている。
会いたい時に会えず、言いたい事も100%は言えない、未来も望めない、自分の方が女房から黙って時折彼を拝借する弱い立場。
辛い事の方が圧倒的に多い。それでも麻由子は、人生の中でこんなにも強く愛せる男に出会えた事が幸せでもあった。
中国の小説、金瓶梅(キンペイバイ)では主人公の第五夫人潘金蓮(はんきんれん)は六人居る妻の中でも一番の寵愛を得ているが、時には旦那様の目が第六夫人李瓶児(りへいじ)に向く事がある。そして旦那様がその夜訪れる母屋の軒には、提灯が提げられる決まりになっていた。
不倫恋愛など自分に無関係だった頃、読みながらいつも自分の母屋の軒にある提灯が瓶児の母屋に掲げられる夜、金蓮が悔しさと寂しさに身悶えし明け方まで一人寝に耐える描写を見て「さぞ辛いだろうけれど、複数妻の居る旦那様から一番重んじられる金蓮が羨ましくもある」と麻由子は感じていた。自分は旦那には一片の愛情すら無く自分もまた誰からも愛されていないという、この身の上の方が余程虚しくて辛いとも。
今では金蓮の気持ちが少しは分かるようになった。和弘が口先だけで言っているのか本気で言っているのかは分からない。が、「お前が一番だよ金蓮」と言う旦那様の台詞を和弘も麻由子にくれた。同時に和弘が会いに来ない時は、自分の母屋の提灯を女房の母屋に提げる為取り外されてしまう、その辛さと一人寝の虚しさも、今は骨の髄まで嫌という程味わっている。
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