第41話
「13日は早退するから、昼から会わない?」
そう入る和弘のLINEには、素直に応じよう。可愛げのない女と思われたくないから。麻由子はそう思いながら「了解」と返した。和弘はこれまでもセックスが無くても自分に会いに来ている。自分がただ女房とやれない時の精液の捨て場という役割しか無いなら、そんな意味の無い行動はしないはず。だから今はその行動と、先ほどくれた「嘘じゃない」と言った彼の“嘘”を信じよう。
《羽田空港は全便欠航、また新幹線にも影響が出ており終日運休の決定が相次いでいます。夏休みのレジャーに打撃を与える今回の台風は…》
12日の早朝からは、ニュースは台風情報がメイン。時間が経過する毎に「最大級になる恐れ」「厳重警戒を」という文言が増えだした。
仕事を終え会社を出る頃ポツポツと降りだした雨は、帰宅する頃には本降りとなっていた。玄関から脱衣所に直行し、着ていたものを洗濯機に入れたついでにシャワーを浴びる。会えない日が続き言い合いまで経て、やっと会えるとなったらこの様(ざま)だ。してはならぬ不貞をし、無神経な発言や会えない日々に振り回されても別れない自分を、神が馬鹿にしてからかう為に台風を起こしている気にさえなる。浴室から出て窓に目をやると、景色さえ見えない程激しい雨が窓を伝っていた。
キャミソールにショーツという出で立ちでタオルで髪を拭きながらバッグの中の携帯を取り出し、和弘にLINEする
「13は無理だから、無しで」
「俺も今、LINEしようと思ってた。障害者用の避難所開設と管理に、13は台風の規模に関係なく帰宅せず翌日まで避難所に居る事になるよ」
無言で読み、携帯をソファーに放り投げる。冷蔵庫にミネラルウォーターを取りに行き戻って来ると、今度は通話の着信音が鳴った。
「まゆが恋しくておかしくなりそうだ、顔が見たい、声聞きたい、狂いそう」
また随分と情熱的な言葉を、と思いながら麻由子は至って冷静に
「天気がこれじゃどうしようもないよ」
と返した。
「まゆより俺の方が、好きな気持ちは強いんだよ。もう避難所開設なんてどうでもいいから、仕事放棄して今そっちに行きたい。数分会うだけでいいから」
「仕事に真摯で投げ出すなんてまずしないのに、どうしたの?」
「どうしたのって、それくらい会いたいんだよ。台風なんかで明日会うのが潰されるのが許せないの。急用って言って抜け出すから、顔だけ見に行かせて。さすがに戻らないとまずいからすぐ戻るけど」
「数分顔見る為に、わざわざ片道40分掛けて行き来するつもり?大雨の中」
「来いとは言ってないんだ、運転するのは俺だからいいでしょ?」
「いいわけないでしょ、台風が過ぎるまでは大人しくしてなよ」
「嫌だ、少しでいいから今会って」
和弘は思った事を考え無しに口走るが、我が儘だったり無理強いをする事はない。その彼がいつになく今日は食い下がる。
「あの、今日も13日も会えなくても、嫌いになったりしないよ?だから安全を考えて今は」
「俺は馬鹿だからいつもまゆを傷付けてしまう、そんな自分が嫌で嫌で仕方ないんだ、傷付けたいわけじゃないのに」
麻由子が言い終わらないうちに和弘が言葉を被せてきた。
そう、傷付けたいわけじゃないのに私を傷付けてしまうのよね。それは馬鹿だからじゃないの、あなたがADHDだから。自分の頭の中で理解してさえいれば、言葉が足らずとも通じると思って端折って伝えた結果相手が理解しきれないのも、思い立ったら後先考えず行動するのも、相手の気持ちを汲み取れないのも、みんなある意味あなたのせいじゃない、ADHDの特性。
そして一番悪いのは、一番の理解者で居ないといけないのに許せず責める私。女房と同じ事はしたくないのにしている私。でも逆に、それだけあなたは人を苛立たせる。愛情がある私でさえ嫌気がさすのだから、愛情が半減した女房には和弘の無神経さはより苛立つのだろう、代わりに家事分担のほとんどを負い甲斐甲斐しく動く彼を尚蔑む行為は最低だが、その部分は麻由子にも理解が出来た。
一緒に居るのは疲れる、でももう一度ちゃんと彼の味方であり理解者になろう。今は自分が好きだ、会いに行きたい、それを必死に訴える彼の言葉を有難いと思おう。と麻由子は改めて思い
「大丈夫。傷付いたとしてもいつも…かずはその傷を治してもくれてるよ。だから好きなままだし、これからも一緒に居るから」
そう宥めた。
「だめじゃん…始めから傷付けたりしないのが一番なのに」
「傷付けまくって治りかけの傷を更に抉って痛め付ける、旦那みたいな男より百倍良いよ」
「好きだよ…会いたい」
「台風が明けたら、かずの都合の付く日に会おう、ね?」
「うん」
まるで小さい子供に言い聞かせるように麻由子が言い、和弘が落ち着いた所で通話を切った。
嫌いになれたらどんなに楽だろう、なのにどうしても嫌いになりきれない、いつも。外は時間が経つ毎に窓ガラスを叩くような風と大雨で荒れ狂う。麻由子の心の中も同じで、和弘の心ない言い方に傷付けられては他の男の誘いに乗る愚行を繰り返し、満たされないまま経験人数ばかりが増えていく。そんな自分に今日ばかりは心底嫌気がさした。が、それでも…
全ては自分の選択の結果。
落とし前も自分で付けなくてはならない。
「しなくていい、ただカフェでコーヒー一杯一緒に飲んでくれるだけでも」
台風が明けて三日後、しつこくDMを寄越している大輔に根負けし麻由子は午前で仕事が終わる日、大輔と駅で待ち合わせをした。待ち合わせた駅は北千住。この駅は今の互いの住まいからも中間地点でもあるし、学生時代よく遊んだ場所でもあり慣れているからと大輔から指定された場所だった。駅前に出るとラーメン屋からは豚骨を煮出した鼻につく匂いが漂い、パチンコ屋からは玉を打つ音が聞こえ、路地を歩けばラブホテルに向かうカップルに昼から酔っている老人が通りすがりに猥褻な言葉を吐く。東京らしいと言えば東京らしいその街の様子を眺めながら歩き、麻由子は指定されたカフェに向かって歩いた。
「何ヵ月ぶりかな」
対面に座っている大輔が言う。
「さあ。私、あまり時間無いからコーヒー一杯飲んだら帰るよ」
「来たばかりでつれないな」
「会うのは最後だよ、もう。私は最初から一貫して言ってる、付き合いはしないって。今もそれは変わらない」
「優しくなくてごめん、でもどうしても好きなんだ。離れられない」
結局、麻由子は付き合わない、大輔は付き合えという意見の相違は変わらないまま、カップのコーヒーも無くなって随分時間が経った。それでも麻由子の気が変わらないと分かった大輔は
「喫煙所行かない?」
と、麻由子を誘った。駅の近くに設置された喫煙所は橋の上にあり、そこからは隙間なく並んだビルの屋上がよく見渡せる。麻由子はそのビル屋上の積まれたガラクタの山や室外機などが乱雑に並んだ様を見るのが嫌いじゃなかった。いかにも東京らしい景色だから。麻由子がそんな場所に目をやりながら煙草の火を付けると、大輔が麻由子を見つめた。
「まゆはやっぱり美人だよ」
と言う。
「美人なんかじゃない」
「美人なだけじゃなく、まゆは優しいから。俺はそのまゆの優しさに甘えてたんだ、ずっと」
「…」
「どんなに拒否しても、俺が押せばまゆは戻ってくれたから」
「もう戻らないよ」
「もっと若い頃付き合って結婚しておけば良かったって、ずっと後悔してる」
麻由子はその言葉に思わず苦笑した。相手の気持ちなど全く配慮せず、支配で相手を縛ろうとするサイコパスなど伴侶にするのはこちらから御免蒙る。自分自身で選んだ伴侶もクズだが、だからって大輔の女房になりたかったとも微塵も思わない。麻由子は大輔がこの期に及んでも何とか気持ちを引き留めようとあれこれ言うのを聞きながら、短くなった煙草を消した。
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