第28話
「ダアちゃん、最近はあんまり会えてなかったのに、今から免許取るのに合宿行っちゃうなんて寂しい」
ダイキは幼い頃から呼ばれている愛称で呼ばれるのが嫌だったが、どんなに頼んでもやめないので最近は言わなくなった。
「仕方ないじゃん、今が丁度取りやすい時期だし」
「じゃあねじゃあね、代わりに今ぎゅーってハグしてほっぺにチューして」
そう言って首を傾けながら両手を広げるのは、ダイキの彼女ではなく母親。宏子のリクエストに仕方ない、という風情でダイキは答えると
「合宿中も連絡入れるから」
と宏子に言った。ダイキの胸に顔をこすりながら宏子は
「LINEだけじゃ嫌、通話もして」
と甘えた声で言った。その様子をじっと見ていたダイキと一緒に免許合宿へ行くダイキの幼馴染みの遥人(はると)は、まるで恋人のように振る舞う母親とさほど嫌がりもしないダイキを引き気味に見つめた。
「なんか、高校以来だけど変わらないな、ダイキの母ちゃん」
駅まで歩く道すがら、遥人がダイキに言う。
「あー、まあちょっとうざいけど母親なんてあんなもんじゃない?」
「いやあんなもんじゃないよ(笑)うちの母親なんか妹とはBTS好きだからグッズ買いに行ったりDVD見たり盛り上がってるけど、父親と俺なんかほぼほったらかしよ?」
「一人っ子ってのもあるかも」
「あー、な。いいな一人っ子。うちはSwitchも一台妹と共有させられてたから、たまにめちゃくちゃ喧嘩になってたし」
「そういえばしてたな、ハデに(笑)」
遥人とダイキは幼稚園からの仲。高校と大学は別の学校に進学したが、友人関係は続いており免許合宿も一緒に受ける。一緒の登校班で小学校に通っていた時の、まだ一年生だった二人の小さな背中に大きなランドセルを背負った姿を思い出す。今見送る二人は、どちらも身長は170を越えた。
宏子は最近ダイキが彼女と別れたらしいと先ほど二階からダイキが降りてくるまでの間に遥人から聞き、声を上げて喜びたい気分だった。が、合宿中にまた女と仲良くなるかも知れないという懸念もあるので、それを思うと少し沈む。
宏子は二人を見えなくなるまで見送ると、家に入りため息をついた。
ダイキに近寄る女は、全員死ねばいいと本気で思う。結婚なんかしなくて良いし孫も要らない。なんなら宏子はダイキの筆下ろしも自分がしてやりたかったし、叶うならダイキの子は自分が産んでやりたい。
「でも、もうそろそろ閉経なのよねぇ。ダアちゃんの子は無理になっちゃった」
宏子がそう言いながら靴を脱ぎリビングに入ると、夫の昭一が宏子を化け物を見るような目で見てきた。
「正気か?お前。ダイキの子を産むつもりだったのか」
「やあねぇ冗談よお!でも産んであげたいくらい可愛いし、誰にもあげたくないって事♪」
宏子はそう答えた後
「愛してる人は、旦那様も息子も、他の女にやりたくないのは当然でしょう」
と昭一に微笑みかけた。昭一は蛇に睨まれた蛙のような気持ちになりながらも
「そ、そういえばそろそろまゆちゃんに連絡してみたらどうだ?もう機嫌も直って気軽にまたおいでよ、と言うかも知れ」
と言ってみたが、言い終わらないうちから
「無いから」
と宏子に制された。
「あんな真似されてこっちから連絡なんて、絶対にしたくない」
「そうは言っても、お前だってたまには羽伸ばしたいだろ?」
昭一の魂胆は分かっている、自分が麻由子の家に滞在しないと自分こそ愛人と羽を伸ばせないから、どうしても麻由子の家に行かせたいのだ。宏子は厄介払いを願われる自分が情けなくなりながらも、勇気を出して
「ね、ダイキも合宿だしまゆの家にも行かないから、休みはたまには夫婦でどこかに行かない?近場の温泉とかさ」
そう提案した。朝食を食べ終えハンガーからネクタイを取ると、昭一は
「俺は今年は、休暇は取らなかった。ずっと仕事」
と素っ気なく告げた。
「えぇ?毎日!?」
「ちょっと会社でトラブルあったから。じゃあ行ってくる」
さっさと靴を履き玄関を出る昭一の背を見送ると、宏子はまたこの家に認知症の進んだ義父と二人きりにされた。今回から麻由子の家でやりたい放題も出来ず、昭一を旅行に誘ったら手酷く断られ希望が無い。仕事というのは嘘で、宏子が家に居るなら自分は休暇は取ったが毎日仕事の振りをして家を出て、愛人宅で過ごして帰宅するつもりなのだろう。
宏子はやはりどうしても昭一を憎めず、代わりに憎悪は麻由子に向いた。本来なら昭一の愛人に向くはずだが、愛人は姿をおくびにも見せない。寝ている昭一の携帯をパスワードを突破して開けて見ても、写真も動画も無いしSNSも分からなかった。実体の見えない愛人の代わりに、見える麻由子は憎みやすい。あいつみたいに人の男を寝取る悪女が居るから、私のように泣く妻が絶えないのだ。宏子は滞在を断られたなら、最後にもっと暴れてやれば良かったと悔しさが滲み爪を噛んだ。
「元気?」
昭一を見送った後も外玄関に立ったままだった宏子に、声を掛けてきたのは麻由子だった。
「は?何しに来たのよ」
宏子は憎む相手の顔が階段を上がってきて自分に挨拶したので、驚いて言った。
「うちに置きっぱなしにしていた部屋着とかサコッシュとか髪留め、纏めて届けに来たの。郵送しようかとも思ったけど、今日こっち方面に用事あったし大した重さでも無いから、ついでに玄関先に置いておこうと思って。手渡しになるとは思ってなかった」
宏子は麻由子の手から紙袋をひったくった。麻由子は呆れて小さく笑うと
「用はそれだけ、それじゃ」
と踵を返した。
「浮気してるやつなんか、みんな死ねばいいのよ。女房がどれだけ辛い思いしてるか分かってるの?」
背後から掛けられた宏子の声に、麻由子が振り返る。
「それは、バレるようなツメの甘い浮気繰り返すような自分の旦那に言うべきじゃない?私をどんなに憎んで暴言吐いても、昭一さんに本心を言わなかったら伝わらないでしょ」
「あたし達夫婦に口出ししないでよ!あたし達は上手くいってる!」
噛み付かんばかりに吠える宏子に、麻由子は冷静にそう、と返した。その余裕ぶった態度が余計に腹立たしく、宏子は紙袋の持ち手を千切れそうな程強く握り締めた。
「ねえ、教えてよ…旦那がいるくせに他の男と寝るって、罪悪感無いの?子供もいる癖に。淫乱だから(差別用語)の旦那が使い物にならなくなったら、他の男を咥えないといられないの?」
あらん限りの侮蔑を込めた言葉をぶつけてみるも、麻由子は怯まない。
「ひろ、今後も身勝手なあなたにはうちに滞在して欲しくない。けど、ひろは良くやってるし最高の母親で妻だと思うよ。ひろと私は同じ、あなたは浮気に悩んだけど私はギャンブルの借金とモラハラに悩んだ。挙げ句に障害者になって介護まで。悩みの形が違うだけでどっちが上も下も無い。どっちも辛かったんだよ」
「…まゆは苦しんでないように見える」
「愛してないから、旦那を」
「他に男が居るからでしょ」
「私はいつだって一人だよ」
本当は、煩い宏子の耳元に
「そう、好きな男が居て他にも自分を追う男がいて、男じゃないヤツまで私を欲しがる。だからクズだった旦那になんか構っていられない」
とでも返してやりたかった。が、麻由子は意気消沈する宏子の気持ちも痛い程分かるし、何より私はいつだって一人と言う言葉も嘘では無かった。男は居るが、その男は自分の前からいつ居なくなるか分からないから。麻由子は男らに翻弄されながらも、いつも一人にされる覚悟と共にある。
「私は、ひろにもし好きな男が出来たら全力で協力するし応援するわ。あなたのプライドの高い性格からして、よもや無いとは思うけど」
麻由子はそれだけ言い残すと、宏子の家の玄関から去った。
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