第25話

職場の人間も女房も義理の母も、自分の失言やスタンドプレーを許さない。家庭では失言の罪滅ぼしや埋め合わせを、と家事や育児を限界まで請け負っているが、それでも女房と義理の母は自分に「だめなやつ」というレッテルを貼り馬鹿にしたり蔑ろにし続けて来る。麻由子は彼女らなら大激怒しているような事も、恐らく飲み込んでくれている。そして自分が泣きつけば戻ってくれて、今まで通り自分を誉め、可愛がり、時に尊敬してくれて、自分が欲しがれば応じてくれる。和弘にとっても麻由子の存在は、ますます甘い毒を含む麻薬となっていた。


そしてまた、麻由子はその持って生まれた母性本能の強さと従順さ、のみならず麻由子自身も気付いていない要素によりもう一人の男を中毒にし掛けていた。麻由子がてっきり自分の体ばかりを欲していると思っていた大輔も、麻由子に好意を抱いており上手くいかない事に鬱々としていた。


なかなかLINEを教えない麻由子への連絡手段は、主にインスタグラムのDM。それさえ彼女が教えてくれたわけではなく、自分が勝手に調べたもの。中学時代はさほど気になる存在でも無かったが、中学を出てそれぞれ別の進路に進み大人になっても複数の友人と共にたまには会う事があり、会う度彼女は自分の好みの女になっていた。化粧を覚えて一気に華やかになった19の頃も、やや老けたが年相応の色気がある今も、大輔の好みでいつか彼女を手に入れたいと思っていた。幾度目かの集まりの帰りにアタックしてみたら、思いの外簡単に彼女は自分のものになった。


そして一度ものにしたら手離せなくなった。


抱いてみると、麻由子は大輔が抱いてきたどの女よりも良い体をしており虜となった。見目が飛び抜けて麗しいわけではない。ウエストがくびれているわけでもないし、乳房も大きさはあるが形は崩れ気味で40過ぎた年齢相応の体だった。が、抱いた時の表情も出す声も、愛撫の際の反応も挿入した時の中の具合の良さも全てが大輔を翻弄した。大輔も、和弘も、そんな麻由子の自覚なく相手に注入する甘い毒に中毒にされていき、離れがたくなっていた。


「しばらく忙しいから会う時間作れないよ」


素っ気ない返しのDMに、大輔は苛立つと車のハンドルをガンと拳で叩いた。二度抱いたら忘れられなくなり、大輔は一人で発散する時も麻由子のインスタグラムに投稿している写真を見たり、自分が抱いた時の事を思い出しながら彼女を“使って”射精した。そして溜まれば彼女そのものが欲しくなり、すんなり承諾されないと激しく苛立った。絶対に手離したくないが、大輔には和弘より人格に決定的な問題があり…彼は反社会性パーソナリティー障害、いわゆるサイコパスだった。


ただその中でも、彼はマイルドサイコパスという部類の人間だった。通常のサイコパスは反社会性パーソナリティー障害という名の通り、刑務所に入るような犯罪を厭わない。それに対してマイルドサイコパスは『社会に溶け込む』サイコパス。社会的地位を重んじ犯罪と呼べるまでの所業は抑える事が出来るが、自分軸でしか物を考えられず他者に感情移入が出来ない。自分を受け入れて欲しい時人は情に訴えるなど優しさを武器にするが、彼らは人を操ろうとする。


彼の妻は彼の特性がマイルドサイコパスとは分からなかったが性格傾向は把握しており、とっくに愛想を尽かしており子供も作らなかった。世間体の為に籍は入れたままにしてあるが性生活も持ちたがらず、代わりに妻も外に時折会う男を作っている。大輔自身も自分の性格傾向がマイルドサイコパスとは知らず、性格が悪いという自覚をしていた。だから結婚した妻とも上手くいかず、外に作った女とも一年続かない。見てくれは悪くないのでマッチングアプリを使ったり酒場で引っ掛ければ女は出来るが、皆一年持たずに逃げていく。


麻由子は逃がしたくない、そう大輔が感じるように、マイルドサイコパスに麻由子のような従順で母性本能の強い女は恰好の獲物となり得た。その自分の傾向に合致する上に恋愛感情も伴う為、大輔の麻由子への想いは麻由子が予想している以上に強く、しつこいものになっていたが麻由子は今はまだ分からなかった。


知らぬうち男を翻弄する、現に今も二人の男をそうしていながら、麻由子自身にその自覚は無い。男が自分を気に入るのは、自分が単に素直で大人しいから。それくらいの自覚しか無かったが、麻由子の性格はADHDやサイコパスなど並の女がすぐに嫌がり逃げ出す傾向の男を受け入れ許すので、あちらも依存しやすい。そして今後、この麻由子を縛る男の中にもう一人加わる事になる者が居た。


「来たよ、まゆ!」


そう自分に掛けられる声に振り返ると、そこには体重90kgを越える巨体、派手なデスメタルバンドのプリントがされたTシャツに赤いトライバルの柄のこれもまた派手なパーカーを羽織った女性が立っていた。正確に言えば彼女は女性であって女性ではない。体は女性でありながら精神は男性のトランスジェンダーであった。インスタグラムで好きなゲーム作品を通じて麻由子と知り合いになったハンドルネーム『イッチー』、市村久彩子(ひさこ)は麻由子よりはるか年上の52歳。久彩子という女性らしい名前を嫌いインスタグラムでも繁華街の飲み屋でも、イッチーという愛称で必ず自分を呼ばせている。


麻由子はトランスジェンダーに偏見は無かったが、イッチーがフォロワーになり友達関係になってからは、その強引さや常識の無さに辟易する事が多くなり逆に偏見が少し強まった。イッチーと同じ歳のストレートの女性であれば旦那も子供も居る人間が多く、旦那の親族、子供の学校関係などの人間関係の中で身に付く遠慮や常識もあるが、彼らにはそれらが無くまるで二十代と変わらない生き方をしている。その為こちらに家庭があるのに配慮は全くせず


「今度プロレスのイベントが東京であるから、行くついでにまゆの家泊まらせてよ」


などと簡単に要求して来た。旦那も子供も居ると言おうが


「別に俺一人、数日泊まるくらい良くない?」


と返す。こんな図々しさの子持ちの女も以前はよく麻由子の家に滞在したがったが、イッチーも家族の都合があるから人を泊めてもてなす事が難しい、という事を理解しなかった。元々親友でもなし、泊める程仲良くも無いのではっきり家への滞在は断ったが、ならば三重県からわざわざ上京するついでに日中会いたいと懇願され、仕方なくそれは了承する事に。


以来一年一度くらいのペースでイッチーの上京時、泊まらせはしないものの日中会って食事くらいはあちらの要望でしていた。だがそれも、最近は麻由子の負担になりつつある。最初に会った時の事、麻由子を見たイッチーは目の色を変えた。


「やっぱり予想してた通り、良い女だな」


「会うなり何言ってるの?中年だし子持ちだよ」


「いやいや、俺は若い女より四十路くらいが好きなんだ。まゆは色気がある」


褒めそやされた所で嬉しくもない。悪いが麻由子の目にはイッチーが髪型こそ金髪でマンバンにしたり服装は男だが、注射も手術もしていない体は丸く声は高く、自分と似たり寄ったりのただのメンズウェアを着ただけの太った中年女にしか見えなかったから。本人は男と判別が付かないくらい自分も男性化出来ていると思い込んでおり「街中でお兄さん!なんてよく声掛けられんだ」などと得意気だが、それは90kgもある熊のような見た目だから後ろ姿なら思われる。が、振り返れば女性らしい顔立ちと女性らしい声で、彼を純粋な男と間違う者は居ない。


けれど麻由子はイッチーが「俺をトランスジェンダーではなく男と思って欲しい」と懇願するので彼を“男性”として扱った。ただそれだけの事であったが、生きる中多少の差別も受けて来た彼は偏見を持たずに接してくれる麻由子が、和弘とも大輔とも違う視点から『女神』に映った。

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