第19話

どんなに辛い事があっても、右手の薬指に着けられた指輪を見ると元気が湧く。誕生日プレゼントに貰った指輪を眺めながら、麻由子は仕事で起きた後輩が起こしたトラブルの尻拭いにも旦那の介護にも耐えた。そして今日は、誕生日以来三週間ぶりに和弘に会える日。麻由子はいつものように和弘を待ち、車に乗り込みホテルへ和弘と共に向かった。


服を脱ぐ時間すら惜しくなる程互いに興奮し、激しく交わりベッドに横たわりながら他愛ない話をしていた時の事。


「そう言えば、この前女房と久しぶりにやったんだけど」


耳を疑うような言葉に、麻由子の体は強ばった。この人、一体何を言い出すんだろう…。麻由子はどう反応して良いか分からずただ黙っていたが、やがて


「やったんだけど、何?」


と薄い笑みを浮かべて聞き返した。和弘は以前自分で「思った事をすぐ口にしてしまう」と言っていた上、自分はごく軽いがADHD傾向があるとも自己分析していた。まさにこういう発言を何も考えずする所は性格というより、脳の構造がそうさせるのだろう。だがさすがに麻由子の声のトーンと表情で、言ってはならない事を自分は言ったのだと気付いたらしい。


「いや…」


言葉が続かない和弘に、麻由子は今までに見せた事の無い冷たい表情を見せ、一瞥するとシャワーへ向かった。熱いシャワーを浴びながら、和弘との付き合いも半年前後しか続かなかったか…とため息が出る。いくら軽い発達障害があったからと言って、その振る舞いの全てを受け入れる程麻由子の人格も出来てない。嫌なものは嫌だ。


そして麻由子は自分の性格をよく分かっていた。麻由子は相手に嫌な事をされたり言われても、怒り返さない。怒り返さない代わりに相手を嫌いになる。それはこんなに好いている和弘にさえも。わざわざ聞きたくもない事を聞かせて来る和弘は、麻由子の中で大好きな人からわざわざ関係を壊すただの馬鹿に成り下がってしまった。この気持ちがまた戻るのか、自分が彼を許せず別れるか、まだ分からない。


ただ、今はシャワーを出た後の自分の体に和弘に触って欲しく無かった。


麻由子が下着を着けた状態で洗面所から出ても、和弘は尚も自分を抱こうと腕を掴んだ。初めて麻由子はその腕を軽く払い、ソファーに掛けていたロングスカートを手に取った。


「用事思い出したから、今日はちょっと早いけど帰っていいかな」


口調はいつも通り優しく笑顔だが、麻由子が初めて見せる和弘を制する態度。いつもの和弘なら「そんな事言わないで、まだ時間はあるじゃん」などと言いながらブラジャーを外す所だが、麻由子の発する“自分に触れるな”という意思は鈍い和弘にもさすがに伝わり、手を出せなかった。帰る際ホテルの廊下を歩く時、和弘は必ず麻由子の手を取り繋ぐ。今日もいつものようにそうしようと右手をやや後ろに伸ばしたら、和弘の手が空を切った。麻由子は和弘の手がわざと届かない真後ろを腕を組み歩いていた。苦笑いしながら和弘は前を歩き、二人とも無言のまま車に乗る。


「私は…」


麻由子が口を開いた。


「必要とされたい人間で、必要に思ってくれているうちは尽くす。でも自分がその人にとって必要無いんだ、と分かったら去る人間なの」


麻由子の言葉に和弘が即「必要だよ」と言ったが、麻由子は間髪置かず


「その人にとって自分が必要か否かを決めるのは、他者じゃない。私よ」


と言い窓の外を見ながら微笑んだ。駐車場に車が着き、いつものようにキスして来ようとする和弘を避けると、麻由子は


「次付き合う人には、わざわざ言わない事ね。気分が良いわけないでしょう」


と言った。その声はいつも和弘に掛けてくれる「お疲れ様」「好きだよ!」という優しい声とは別人のように低く冷たかった。和弘は苦笑しながら「次って」と冗談めかして言おうとしたが、麻由子はそれを聞かず指輪を外すとドリンクホルダーの中に落とし車を降りた。


和弘に嫌われたり幻滅されるのも構わない、そう思いドアを力任せに閉める。これだけ明確に態度に表せば、もう和弘からもLINEは無くなるはず。とは思ったが家に帰ると和弘からLINEが届いていた。


「俺はこういう部分が人から嫌われるんだ、仕事でもそう」


とだけ入っている。そうかもね、と返すわけにもいかないし、さてどう返信しようか。迷ったが麻由子は自分の気持ちを素直に書き送った。


「別に誰からも嫌われてないはずだよ、そして私はあなたが奥さんと夫婦生活がある事も、分かりきった上で付き合ってきた。ただわざわざ聞かされなくない」


「ごめん、二度としない」


謝る和弘の言葉に麻由子は一瞬躊躇したが


「別れたくなかったよ」


と送信した。麻由子とて和弘をまだ好きに決まっている、好意などそう簡単には無くなるものじゃない。でも今は無くせない好意より余計な事を聞かせた和弘の無神経を許す事が出来ないから、麻由子は自分の気持ちに正直になった。


別れたくなかったです、こんな形で。


今は和弘にそれしか伝える事が無いから。すぐに和弘からは


「俺だって」


と返る。あんたが壊した癖に、麻由子はそうとしか思えず、何も言い返す気にならず返信をやめた。酷く悲しいけど涙は出ない。もっと寛大な女性なら、あの場で「そんな話、付き合ってる私に聞かせないでよー!」など膨れて見せてそれで終わりに出来るのかも知れない。麻由子にはそれが出来なかった。


これも、不倫という人のものに手を出した代償であり罰なのかも知れない。和弘を失ったらきっと自分は脱け殻になってしまう、が、それに耐える事も含め全てを覚悟して踏み込んだ不倫恋愛だったのだ。耐えなくてはならない。


翌日


「もっと嫌われるのを覚悟でLINEしてる。一日話せなかっただけで、本当に寂しいと感じて辛い」


そう和弘からメッセージが来たが既読は付けたが返信はしなかった。更にその翌日は、中学時代の同級生の集まりがある為麻由子は夕方から支度をして家を出た。部屋に籠っていると和弘の事ばかり考えてしまうから、この日に飲み会があって良かったと麻由子は思った。男女混ざり合いワイワイ喋りながら過ごす時間は、麻由子を失恋の痛みから一時的に遠ざけてくれる。


やがて一次会がお開きになり、二次会のバーに流れる人間と帰宅する人間が半分ずつくらいに別れる中、帰宅するつもりでタクシーを呼ぼうと配車アプリを起動しようとした麻由子の携帯に、ショートメッセージが入った。


「二人で飲み直さない?」


送り主は、中学時代席が近く仲が良かった桜井大輔(さくらいだいすけ)だった。LINEや他のメッセージアプリもある中、わざわざショートメッセージ?と麻由子は思ったがそれもそのはず。専門学校に上がるくらいの頃までは他の友人も含めて交流がありたまには皆で会っていたが、やがて就職する頃になると皆一旦疎遠になった。やがてこういう集まりを持とう、と幹事になる者が現れ今に至るが、PHSがガラパゴス携帯になりスマートフォンになり、その間も電話番号は互いに変えなかったので知っていたが、桜井とはLINEIDを交換する機会は無かった。


今日の集まりでは途中席を立った桜井が近くに座った時二言三言は言葉を交わしたが、あまりゆっくりは話していない。まるで浮気のテンプレートのような桜井から来た文言に麻由子は苦笑したが


「どの店に行けばいい?」


と送った。当て付けなどした所で気が晴れるわけじゃない、だが今日だけは自分を遊びであれ求める男に応じたいと思い、麻由子は同じく帰宅するという主婦二人と途中まで歩き「私コンビニ寄って行くから先帰っていいよ」と言い離れ、指定されたバーへ向かった。

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